645年に中大兄皇子(626〜672年)が中臣鎌足(614〜669年)と共謀して蘇我入鹿を誅殺した(乙巳の変)は、「大化の改新」につながる重大事件ですが、入鹿の従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂(?〜649年)もその暗殺への協力者でした。特別史跡山田寺跡

入鹿の暗殺直後に入鹿の父親、蘇我蝦夷も館に火を放って自殺、天皇家を上回る実力を持っていた蘇我宗家が、蘇我氏に伝わる貴重な歴史資料と共に滅亡しています。山田寺は、蘇我氏傍流(蘇我入鹿のイトコ)の蘇我倉山田石川麻呂によって641年に発願され、648年には僧侶の居住が始まっていたようです。

蘇我宗家の館は、飛鳥板蓋宮からほど近い(約600m)甘樫の丘の麓にあったようですが、傍流の蘇我倉山田石川麻呂の屋敷は、その名前から推測すると飛鳥宮から1600mくらい離れた山田寺跡地付近にあったのではないでしょうか。敷地の東側

また、竹内峠の西、王陵の谷を含む石川までの地域も、彼の領地だったと(その名前から)推測することができるようです。敷地の北側のお堂には山田寺址の石碑

蘇我倉山田石川麻呂は、乙巳の変の後に改新政府の右大臣に任命されますが、異母弟の蘇我日向の讒言で長男の興志ら妻子と共に649年に山田寺で自害しています。山田寺は、その後14年間も放置されたままでしたが、663年になって石川麻呂の娘(遠智娘)を妃とする天智天皇が造営を再開しています。お堂

この事件は入鹿に替わって強大な実力を持った蘇我倉山田石川麻呂を除くための中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀だった可能性が指摘されています。塔の芯柱が建てられたのは、天武天皇が即位した673年、以後造営は順調に進み、蘇我倉山田石川麻呂の37回忌に当たる685年に丈六仏の開眼法要があり、40年もかかった工事が完了しています。。金堂跡地北側

その事件から10年後に生まれた中臣鎌足の次男、藤原不比等(659年〜720年)は、この蘇我氏の衰退をしっかりと研究し、息子の藤原四兄弟を結束させ、天皇家を補佐しながら一族が繁栄する藤原家の基礎を作っています。天武天皇時代に山田寺造営を進めたのは、天智天皇の次女(蘇我倉山田石川麻呂の孫で天武天皇の后)の持統天皇ではないかと考えられています。金堂跡地の南側

毛利元就が3人の息子に三本の矢の教訓を与えた背景には、蘇我氏の衰退と藤原氏の成功という歴史を知っていた可能性があり、結果的に毛利家は幕末までつづくのです。699年、持統天皇の孫に当たる文武天皇も山田寺に封戸を与え財政援助しています。685年からこの頃までの14年間が最も繁栄した時期だったのかも知れません。

平安時代の1023年、藤原道長が南都と高野山に詣でたときに山田寺に立ち寄り、その荘厳な伽藍を見て感動したと扶桑略記にあるので、完成から340年後も立派に残っていたようです。しかし、それから164年を経た1187年、興福寺の僧兵によって山田寺の本尊、丈六薬師三尊像が強奪され、興福寺東金堂の本尊となっています。(後の火災で頭部のみとなった旧山田寺仏頭のこと)

山田寺は、その後歴史から姿を消しますが、1982年の発掘調査時に飛鳥時代の回廊がそっくり倒壊したままで出土し、丈六薬師三尊像の強奪以来795年ぶりに歴史ファンの注目を集めたのです。
参考文献:日本の遺跡発掘物語9から山田寺跡 吉野富士雄著