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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



安治川の左岸にある湊屋新田は、今から250年以上前の1754年(宝暦4年)湊屋吉左衛門によって開かれ、また石田新田は、1765年(明和2年)石田三右衛門、田中新田は1776年(安永5年)田中又兵衛、八幡屋新田は1829年(文政12年)八幡屋忠兵衛によって埋め立てられている。

USJと安治川の河口



従って、安治川河口の左岸は、江戸時代末期には広い陸地となり、1908年(明治41年)の地図には、新田の開発者の名前を取って上流から湊屋町、石田町、田中町、八幡屋町という町名が記載されている。

1908年の地図



それからわずか26年後の1934年(昭和9年)の地図には、上記の街には民家が立ち並び、さらに安治川に沿って市電が通り、湊屋町、石田町、八幡屋町という停車場ができているので、この辺りは急速に都市化が進んだようである。

1934年の地図



しかし安治川の川幅は、河口の天保山付近で240mと狭く、そこからすぐ上流のユニバーサルシティポート付近が500m、さらに上流の弁天突堤近くでは、600mまで広がり、上流に向けて不自然な形をしている。

狭い河口



その安治川河口は、安治川内港と呼ばれ、まるで海に面した港のようになっていて、USJ側の高層ビルから見ると良くわかる。

内港



しかし、戦前までの安治川には、このような拡張された部分は無く、明治41年の地図にあるように、上流にある安治川大橋の川幅80mが、2800m下流の天保山の河口で240mと、緩やかに広がっていたようである。

安治川河口の天保山大橋



ところが1949年(昭和24年)の地図を良く見ると、湊屋町、石田町、田中町、八幡屋町の安治川沿いの地域に薄いブルーの色がついている。

1949年発行の地図



このブルーの部分は、1928年頃より地下水のくみ上げによる地盤沈下で土地のレベルが下がり、高潮の被害が深刻な地域であった。

現在の安治川左岸



また、戦時中の空襲によって、この辺りの大部分が被災したために、仰天するような都市復興計画の対象となったのである。


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