野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



さて、先日の記事からの続きであるが、木津川河口右岸にあった木津川飛行場では、1939年(昭和14年)には、供用回数がさらに増加したため、離着陸に障害の多い大正区からの移転を決定している。

木津川飛行場跡の木津川右岸



その時点では、1933年に着工されたばかりの大阪第一空港(大和川国際飛行場)の埋立工事が未だ完成していなかったため、伊丹市に建設された予備飛行場(大阪第二空港と命名)に取り敢えず移転することが決まったようである。

昭和9年の地図にある木津川飛行場には日本航空飛行場とある



その後、戦争に突入したことで、大和川国際飛行場計画は白紙撤回となり、つなぎのつもりで建設した予備飛行場の供用がいまだに続いているのである。

予備飛行場であった伊丹空港



1939年まで飛行場があった場所には、木津川飛行場跡という石碑が残っている。



説明看板によれば、「木津川河口に陸上飛行場が構想されたのは大正12年頃からです。昭和2年に着工し、昭和4年には未完成のまま東京・大阪・福岡間に一日一往復の定期旅客便が就航しました。しかし市街地からの交通の便が悪く、地盤不良で雨天時の離着陸が困難であったため(中略)昭和14年に閉鎖されました」とある。



説明文は、概ね私の調査した結果と合致しているが、工場の煙突からの煙による障害があったことや、閉鎖の直前には、年間1万人以上の利用客があったこと等が省略されているのは残念である。

昭和11年の地図には国際飛行場とある



それでも今から70年前、木津川河口のこの場所に伊丹空港に移転する前の大阪空港があったことを知っている大阪市民はどれほどいるのであろうか。

伊丹空港



ところで、現在の大阪空港(伊丹空港)は、大阪第一空港が完成するまでの予備飛行場として市街地に強引に建設されたことを説明したが、今では広い大阪第一空港が完成しているのである。

関空



大阪第一空港とは、関西国際空港がそれに該当するが、そろそろ予備飛行場(現在の伊丹空港)の供用を停止して、大阪第一空港に一元化し、伊丹の跡地の再利用を図ることにしてはどうであろうか。


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ルイ・ヴィトンの代表的なデザイン「モノグラム」の素材の上に、Louis Vuittonとなぐり書きしたバッグが、2001年の春夏コレクションで登場した「モノグラム・グラフィティ」である。

御堂筋のルイ・ヴィトンビル



このデザインは、1998年からルイ・ヴィトンのデザイナーに迎えられたマーク・ジェイコブス(1963~)が、スティーブン・スプラウス(1953~2004年)に依頼して出来上がったもので、イタリアから一時帰国したサッカーの中田英寿がいち早くゲットしていたので有名であった。

入り口



きっかけは、マーク・ジェイコブスが友人の女優、シャルロット・ゲンズブール(1971~)の家でスティーブンが落書きしたモノグラムのトランクを見て、そこからインスピレーションを受けたというので、正確にはスティーブン・スプラウスとマーク・ジェイコブスとのコラボレート作品となる。



カーフ素材に大きなグラフィティと、モノグラム・キャンバスにグラフィティを施した作品の2種類が展開され、中田英寿などヴィトンファンから歓迎されたようである。



アーティスト出身のアメリカ人デザイナー、スティーブン・スプラウスは、80年代の音楽シーンに影響を与えた人として有名であったが、バックの発売から3年後の20004年、50歳という若さで亡くなっている。



このためにシャルロット・ゲンズブールの持っている落書きされたトランクは、今では途方もない値段が付く「お宝」となっているのではなかろうか。

すぐ近くにあるエルメス心斎橋店



マーク・ジェイコブスは、2003年スティーブン・スプラウスに引き続いて日本人アーティストの村上隆とコラボレートした作品を発表したことでも有名である。

今年1月、ニューヨークでスティーブン・スプラウスの回顧展が開催されるに当たり、ルイ・ヴィトンは、彼にちなんだ新たなコレクション「モノグラム・ローズ」と「モノグラム・グラフィティ」を発表している。



その発売を記念してルイ・ヴィトン大阪心斎橋店では、御堂筋に面したショーウインドウにスティーブン・スプラウス作品のディスプレイを描き、御堂筋を歩く人の目を楽しませてくれている。


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1919年、世界初の旅客飛行機が完成したことを受けたのか、1921年(大正10年)、逓信省航空局は、木津川河口右岸にある船町埋立地の7万坪を大阪飛行場(以下木津川飛行場とする)の用地に内定している。

木津川河口右岸



飛行場の整備は、陸軍省と大阪市港湾部の共同所管となり、船町埋立地の南側には1923年(大正12年)、西田飛行機研究所と川西製作所(航空機)系列の日本航空会社の飛行機の発着場が完成、大阪と別府間に水上飛行機の定期路線を開設している。

大正15年の地図



その飛行場の敷地は、木津川の河口に沿った曲線であったために、使用可能な広さは東西720m、南北450mと意外と狭いものであった。

飛行場のあった木津川右岸



また北側には、中山製鋼所等の工場の煙突、木津川対岸東側には藤永田造船所のクレーンがあり、離着陸時の障害となっていたので、1928年(昭和3年)までに用地を11万8千坪に拡張する整備工事を終えている。

藤永田造船所跡の三井造船工場



さらに政府が出資した日本航空輸送会社(JALとは別の会社)の定期航空の発着場とするため、他の民間用の格納庫、その他設備の一切を撤去し、新たに東側に格納庫2棟、事務所2階建1棟を建築し、1929年(昭和4年)4月から公共の木津川飛行場として供用を開始している。

昭和6年の地図



日本航空輸送会社は、大阪と名古屋、福岡に毎日2往復、日本航空研究所が大阪と高松、白浜間に週末1往復運航し、旅客輸送にあたったという。

船町にある日立造船(旧原田造船)



東京羽田の飛行場(16万坪)が開港するのが1931年(昭和6年)なので、羽田よりも2年も早くから木津川飛行場には民間機が離着陸していたのである。

木津川河口西部



しかし、この飛行場の欠点は、すぐ近くに大正区の工場群があり、煙突とそこから排出される煙が離着陸の障害となったことで、飛行機が煙突に衝突する事故も発生したという。

煙突



そこで、大阪第一空港(大和川国際飛行場と命名されている)を新たに建設してそこに移転することが決定、1933年(昭和8年)には大和川右岸平林の西側、19万坪の埋め立て工事が8年後の完成を目指して着工している。

大和川の河口



1938年(昭和13年)の年間発着は、京城、大連間の海外路線を含め定期5107回、不定期3678回、旅客約1万人、取扱貨物39トン、郵便98トンを航空輸送していて、国内でトップクラスの飛行場であったというので驚く。


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江戸末期木津川河口の右岸は、現在の大正区南恩加島までであったが、明治30年から、大阪築港工事の一環としての埋め立てが始まっている。

当時の河口は写真右の千本松大橋付近か



大正7年に発行された地図を見ると、船町の埋め立てはほぼ完了、東には旭造船の社名まで記載されてある。



大正区のホ-ムページによれば、大正区船町地区の埋め立ては、1926年(大正15年)に28万2千坪の埋め立てがすべて完了したとされている。

船町西側の中山製鋼所



しかし、1924年(大正13年)1月発行の大阪パノラマ地図を見ると、船町地区の北部には工場が建ち並び、煙突から煙も出ているので、船町北部は先に埋め立てが完了していたようである。



現在、船町にある最大の会社、中山製鋼所の工場もこのころに完成したようで、1923年(大正12年)に船町に移転、1929年には薄板工場を新設したと同社のHPに記載されている。

中山製鋼所



さらに1925年(大正14年)の地図を見ると、船町の南側には造船所といくつかの工場らしきものが見えるので、これらの建物は埋め立ての完成を待たずに建設されたようである。



当時、ヨーロッパの工業界が第一次世界大戦(1914~1918年)の影響から未だ回復していなかったため、日本の好況が続いていた時期で、一刻も早く工場を立ち上げて稼ぎたいという思惑があったのであろう。

船町東側の中山製鋼所



この中山製鋼所の工場は、80年以上を経た現在も船町に留まり、昭和初期の重工業時代を彷彿とさせる渋い工場群を形成しており、昭和にタイムスリップした気分を味わうことができる。

中山製鋼所



この工場の建物内が、ハリウッド映画「ブラック・レイン」のロケ地として使用されたことは有名であるが、映画を見た当初は、その巨大さから大阪市外にある大製鉄メーカーの工場で撮影されたと思っていた。



さらに大正14年(1925年)に発行された別の地図を見ると、船町には東から旭造船所、新田造船所、大阪造船所、原田造船所(後の日立造船)と4つもの造船所がひしめきあっている。



この地図を良く見ると、新田造船所の西側には、日本航空会社と西田飛行場という記述があるが、ここに飛行場があったことを知る大阪市民は少ないのではなかろうか。

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住之江区柴谷地区と大正区船町地区の間を流れる木津川の河口には、1994年に完成した中央部橋長495メートルの新木津川大橋がある。



この橋は、日本最長のアーチ橋(中央のスパンが305m)であるが、住之江区と大正区という地味な場所にあるため、大阪市民でもその存在を知る人は少ない。



また、橋の下を木津川を遡る大型船が通行するために、水面から橋の下までの高さが46メートルもあり、住之江区側にはカーブした長いスロープが、大正区側には3重に螺旋したループ道路が取り付けられている。



この橋の東側(木津川上流側)には、高架橋としては珍しい歩道が取り付けられているので、その気になれば徒歩で橋を渡ることも可能である。



車で一気に渡るとアッという間であるが、徒歩で渡ると道路の最高点(水面上50m、マンションの16階と同じ高さ)から大阪市内をじっくりと展望できる。



橋から北の大正区、東の西成区には高層ビルが無いので、大阪市内にある超高層ビルは、その殆どがここから見渡せるのである。

港大橋



大正区側には、中山製鋼所の巨大な工場があり、工場越しの大阪市内は、最近見た映画「怪人20面相」に出てくるCGシーンを思い出させる素晴らしい眺望であった。



大正区側の螺旋道路を下りると、西側に木津川渡船の看板を見つけたので、渡船桟橋まで出てみた。

船町桟橋



ここには、1955年から18年間、カーフェリーが運航され、乗用車から大型トラックまで運搬していたが、今では人と自転車を運ぶ小船での渡しに縮小されたようである。

木津川上流



平日の朝夕は10分おき、昼間の閑散時は45分おきに運行されているので、早速乗船してみた。

木津川下流



乗客は一人だけであったが、愛想の良い乗組員がきっちりと対応してくれて気持ちが良いクルージング?であった。

平林桟橋



たった3分間であったが、無料で木津川を遊覧できる渡し船は、橋を徒歩で渡るよりも格段にラクチンである。


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大阪都心中之島の南北を流れる堂島川と土佐堀川は、中之島の西で合流し、安治川と木津川に別れて大阪湾に向かっている。

中之島西部合流地点、正面が安治川、左が木津川



木津川は、大阪市西部を南下して道頓堀川の合流点で尻無川を東に分流させ、本流はそのまま南に流れて大正区南端で大きく西に曲がり大阪湾にそそいでいる。

木津川河口の上流



安治川については、今までブログで紹介したことがあるので、今回は木津川の河口についての現状を紹介したいと思う。

木津川河口の下流



住之江区の西部大和川の北側は、江戸時代に加賀屋によって広大な面積が埋め立てられ、明治に入ってからも西に向かっての埋め立ては続いている。

大和川の河口(左はシャープの工場)



1906年、釜口政吉によって始まった埋め立ては、1912年に完成しているが、この埋め立てで木津川の河口はさらに西に伸び、釜口政吉の埋立地は敷津村大字釜口(平林北)という地名を得ている。

釜口政吉の埋立地の由緒



現在、旧釜口町(平林北)から木津川を北に渡る渡船の船着場には、大正区の戦災復興事業として大正区にあった木材関連会社が木津川対岸の旧敷津村(平林北)地区に移転することとなったと書かれている。

木津川渡船の船着場



現在の木津川河口の両岸は、住宅地のほとんど無い工場地帯となっていて、北側の大正区には中山製鋼所、南側の住之江区側には木材関連会社と、関西電力の大阪発電所があったが、関電発電所は数年前に撤去されている。

中山製鋼所



その関電大阪発電所跡地の西地区には、2006年に旭硝子が総投資額320億円のプラズマディスプレーパネル用ガラス基板の工場を建設し、2007年5月には操業を始めている。

旭硝子の工場



また発電所跡地の東側には、パナソニックが千億円を投資するリチウムイオン電池工場(延べ面積15万平米)の建設がこれから始まるようである。

リチウムイオン電池工場の敷地



パナソニックの工事現場前を通りかかると、工事案内を書いた看板が掲示されていた。

看板



木津川の南を流れる大和川には、シャープの液晶テレビ(及び太陽光発電パネル)の新工場がほぼ完成しているので、大阪南部を流れる大和川と木津川の河口には、世界最先端のシャープとパナソニックの新工場が、相次いで建設されているのである。


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さて、今でも地下鉄の駅名(北加賀屋)や、町名として残る加賀屋が開発した大和川河口の埋立地(新田)は、江戸末期までに134ヘクタール(鴻池新田は119ヘクタール)という広さを誇っていたが、その新田を管理する建物が、加賀屋新田会所である。

付け替えられた当時の大和川河口付近の現在



今から250年も前、加賀屋が建てた新田会所の建物群が現存していることを知る人は、大阪市民でも少ないのではなかろうか。



地下鉄住之江公園駅で下りて、新なにわ筋を南に800m歩き、大和川に架かる阪堺大橋のガード下にある道を東に300m歩くと、住宅地の中にひっそりと残された緑地がそれである。

中門(冠木門)



長屋門を入った敷地内の玄関東側に中門(冠木門)があり、直進すると「祥鍾福集」という扁額のかかった玄関があるが、この部分は後に増築された部分のようである。



玄関を上がと旧書院エリアで、書院の中の西向きの広間は、大正時代に「愉園」と命名され、それを揮毫した額が掛けられている。



旧書院から渡り廊下を北に歩くと、土間に復元された井戸と「かまど」のある台所があり、その先が居宅エリアである。



居宅エリアの西側が数寄屋風の「鳳鳴亭」と呼ばれるエリアで、数寄者(その道の玄人)にしか判らない、高価な建築部材や贅沢な匠の技がさりげなく使われている。



従ってこの「鳳鳴亭」の中を見て、その価値が判る人だけが、この建物を造った加賀屋甚兵衛(1680~1762年)のめがねにかなう人(目利き)という訳である。

居宅の北側にある土蔵は、明治期に移築されたものと思われるが、建物群として新田会所建物の構成をよく伝えている。



西側庭園の築山上には、「明霞亭」と呼ばれたあずまや(新しく建て直されたもの)があり、かつて頂上から加賀屋新田の領域内が見渡せたという。



この会所は、明治時代末の七代桜井菊太郎のとき、売り払われたが1932年武田元助氏が譲り受け、保存に尽力したためにかろうじて江戸時代の新田会所が残ったという。

現在の大和川河口(左はシャープ堺工場)



250年前の会所跡の建物は、現在大阪市の管理する緑地公園となっているので、歴史ファンにはありがたいことに無料で公開されている。(月曜日休館10時~16時)


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住之江区史によれば、加賀屋新田を開発した加賀屋甚兵衛(1680~1762年)は、貴志(現在の富田林市)の貧農の子であったが、11歳で大阪淡路町の両替商加賀屋に丁稚として仕え、1714年には加賀屋の暖簾を分けられて両替商として独立している。

現在の淡路町



1728年、両替商の主人として14年を過ごした甚兵衛は、5年前に願い出ていた大和川河口の北側にある北島新田の開発に着手し、1729年には淡路町の本業を養子にまかせて開発工事現場に居を移すほど熱中している。

阪神高速堺線が大和川を渡る付近が旧河口辺り(川幅が182mくらい)



1730年には2町余り、さらに1737年には北島新田すべて(7町余)の開発を完了、1745年からは、開発が終わった北島新田を堺の小山屋九兵衛に譲渡し、さらに西の加賀屋新田の開発にも着手している。

加賀屋新田会所の石碑



ところが1747年、新田開発に熱中しすぎたせいか、養子の道楽によって本業の両替商が傾きかけたため養子を離縁、暖簾分けされたた淡路町の両替店を畳むという挫折を味わっている。

新田開発はこの大和川大橋から下流の両側



1749年には、新しい養子として利兵衛を迎え、親子で新田開発に専念することとなり、開発が軌道に乗った1754年、加賀屋新田会所を建てて甚兵衛父子はここに居を移したという。

加賀屋新田会所の建物



今から250年前に加賀屋甚兵衛が住んでいた新田会所は、住之江区南加賀屋に今も残り、大阪市有形文化財、建造物と史跡に指定されている。

1755年以降、初代加賀屋(苗字を許され桜井姓となる)甚兵衛、二代桜井利兵衛、三代・四代桜井甚兵衛らによって加賀屋新田の開発区域が西へと拡大し、最初の開発から100年を経た、1841年頃には、何と105町3反歩余(104ヘクタール)を開墾したという。

住之江区史より



柏原市で付け替えられた新大和川によって、上流から大量の土砂が河口周辺に流れ込んだことが、この新田開発を可能としたようで、大和川の河口の両岸には、江戸末期(1868年)までに230ヘクタールもの新田が完成、そのうち134ヘクタールが加賀屋のものであったというから凄い。(住之江区史)

衛星写真に上の加賀屋新田をプロットしてみると、土佐堀川から道頓堀までの船場の面積に近い



ちなみに現在の大阪城公園全体の面積が、107ヘクタール、大和川付け替えによってできた河内地域最大の新田と呼ばれる鴻池新田が119ヘクタールなので、大和川河口北側の埋立地の面積は、群を抜く広さであった。


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1704年に付替えられた大和川によって運ばれた土砂で海が浅くなり、2キロ近く離れた堺港に船が入れなくなったことが堺の衰退につながったという説がある。

現在の堺港



しかし、「堺市史」や「大和川付替えと流域環境の変遷」によれば、堺の衰退には4つの複合した要因があり、大和川の土砂流入はそのうちのひとつに過ぎないという。

大和川大橋の下流にある阪堺大橋



最大の要因は、1639年のポルトガル船の渡航禁止令によって、堺に入港する外国との交易船が完全に途絶えてしまったこと。

阪堺大橋下流の湾岸道路の高架橋が大和川最後の橋



次に徳川時代に入り、水運に恵まれた大坂に諸国の蔵屋敷が集まり、大坂が天下の台所として大発展したことで堺の地位が低下したこと。

湾岸道路の高架橋を河口側から見る



3つめに大阪湾には、もともと海岸線に沿って右回りの海流があり、それに乗って運ばれた砂は、湾の先端にある堺港付近に堆積しやすい地形であったこと。

最後に大和川付替えによる土砂の堆積があったこととしているが、大和川から運ばれた大量の土砂を活用した新田開発が1723年頃より盛んになっている。

湾岸道路の下から大和川の河口を見ると明石海峡大橋が見える




大和川右岸(北の大阪側)の新田開発は、大坂淡路町の両替商であった加賀屋甚兵衛が中心となり、河口から西に向かって1730~1843年頃まで続いている。

1754年に建てられた加賀屋の新田会所跡が、今も大和川の右岸から程近い加賀屋新田の一画、南加賀屋4丁目に残されている。



阪神高速湾岸線が大和川を斜めに渡る高架橋付近の川幅は、300メートルに広がっているが、ここ辺りまでの両岸が江戸末期までの新田(埋立地)のようで、1704年の完成時より河口が2キロも西に移動している。

現在の河口の先には、明石海峡大橋が見える



その後も大和川の両岸は、埋め立てられ関西電力発電所のある住之江区南港南の西端と堺市西区の北端を現在の河口とすれば、大和川河口は江戸末期よりさらに5キロも西に移動していることになる。



また川幅が500メートルくらいに広がっている南港南地区から大和川左岸を見ると、シャープの大工場群があるので、日本を代表する先端企業、シャープも大和川の恩恵を受けているのである。



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1704年、川幅182メートル(100間)とされた大和川付け替え工事は、幕府による公儀普請(上流側5,7キロ)と姫路藩(本多家)による手伝い普請(下流側8,6キロ)という形でスタートしている。

現在の大和川の衛星写真



この川幅は、旧大和川と石川の合流点から河口まですべて100間(182メートル)で統一されていたようで、大阪歴史博物館にある当時の地図(1708年頃)にも並行する線で記載されている。



姫路藩の工区にある現在の大和橋の碑文によれば、橋長192メートルとあるので、当時の川幅からあまり変わっていないようである。

大和橋からみた大和川の上流



1704年早々に着手されているが、着工僅か1月で姫路藩主が死去したために最下流の1,1キロだけを姫路藩が担当、残りの7,5キロを明石藩、三田藩、岸和田藩の3藩が分担し、さらに付帯工事のために高取藩と柏原藩が追加されている。

紀州街道の幅に合わせた大和橋



最下流の1,1キロとは、遠里小野から河口までの距離とされているので、現在国道26号線が通る大和川大橋辺りが当時の河口であったようで、この橋辺りの川幅は、今でも下流に比べるとかなり狭い。

大和橋から下流の大和川大橋方向



手伝い普請を命じられた諸藩は、自藩とは関係の無い土地で河川開削の大土木工事をさせられることになり迷惑であったろうが、幕府の命令には従わざるを得なかったようである。

大和川大橋



延べ250万人を動員したとされる工事は、諸藩に競わせたことが良かったのか、着工から僅か224日で完了している。

大和橋にある碑文



ちなみに現在の物価に換算した工事費用を算出するため、労務費を1日一人1万円とすれば、250億円となる大工事であった。

大和川大橋中央



新大和川の流路となり土地を失った農民には、旧大和川が流れていた土地が代替地として与えられ、木綿栽培や綿業がさかんになったという。

流れなくなった旧大和川を黄色く表現した当時の地図(1754年頃)が残されているが、大きな池の跡地も新田となっている。(深野池は深野新田、新開池は鴻池新田)



新大和川は、上町台地の高台を迂回するために下流の浅香山付近で急激にカーブさせたため、下流となった遠里小野、安立、堺が新たな洪水地帯となったようである。


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最近「大和川付替えと流域環境の変遷」という本を読んで、大和川付替えのかなり詳しい歴史を知ったので紹介したい。



1704年までの大和川は、近鉄道明寺線の柏原南口駅付近から北に向かって流れていたために河内国(現在の八尾市、東大阪市などの地域)にたびたび洪水を引き起こしていた。

古地図(17世紀前半)大阪府東部が「河内国」と呼ばれていた理由が良く判る



また洪水のたびに運ばれた土砂で川底が埋まり、大和川は次第に天井川となったためにその後の洪水の被害に拍車をかける結果となっている。

そのたびに大和川流域の村々から付け替えの機運が起こり、今米村(東大阪市)の庄屋、中甚兵衛らが1657年頃から何度も幕府に請願し続けている。

石川との合流地点から不自然に西に折れる大和川の衛星写真



流域住民の訴えと洪水被害の頻発に幕府も動き、1683年若年寄稲葉正休、大目付彦坂重紹を派遣、川村瑞賢も同行して現地調査をしている。

稲葉調査団は、織田、豊臣、徳川初期に建築ブームが起こり、その際に大和川流域の木々を濫伐した結果、土砂が川に流れ出すようになり洪水を引き起こすようになったと結論つけている。

近鉄道明寺線の鉄橋から見た大和川と石川の合流地点(付け替え前は左側に流れていた)



現在でも京、大阪に残る巨大な神社仏閣、城郭は、豊臣から徳川時代初期に建築されたものが多く、その際に大和川流域から大量の木材が伐採されたのであろう。

しかしこの調査では、海に出る河口を広げさえすれば、新川を造る必要は無いという結論となり、翌1684年に川村瑞賢によって淀川下流の安治川開削、さらに大和川治水工事が実施されている。

現在の安治川河口



それでも洪水の被害は無くならなかったため、1687年に流域村民から奉行所に嘆願が出され、幕府は川村瑞賢に再び河川の治水工事を命じているが、余り効果は無かったようである。

意外とキレイな大和川の水(下流の大和橋の上から)



1703年、堤奉行の任にあった大阪代官万年長十郎と小野朝之丞は、大和川の新川予定地の検分を実施、ほどなく長崎の巡察を命じられた若年寄稲垣重富、大目付安藤重玄、勘定奉行荻原重秀が大坂に立ち寄った際にも同行して新川筋を検分している。

大和川の土手



副使の荻原重秀(当時45歳)は、正使の稲垣(30歳)よりも幕府内での実力が上であったと思われるが、万年長十郎と荻原は、1674年に幕府に出仕(就職)した同期のサクラであったのである。(共に貧乏旗本の次男であった)

大和川下流にある標識



この直後となる1703年秋、幕府は今まで却下し続けていた大和川の付け替えを決定しているが、この決定の裏には万年長十郎と荻原 重秀の友情がからんでいたようである。


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大阪北浜から堺に向かう堺筋は、江戸時代まで紀州街道と呼ばれていたが、現在では、地下鉄堺筋線が北浜から恵比須町に至り、そこから南には阪堺電車の線路が住吉大社の前まで伸びている。

堺筋のスタート地点北浜



阪堺電車の路線は、住吉大社鳥居前から50メートル東側にある筋に移り、そのまま紀州街道と並行して南に向かい、大和川の鉄橋を渡っている。

初詣でにぎわう住吉大社鳥居前駅



一方、紀州街道は、住吉大社鳥居前から南の大和川までまっすぐ伸び、そこに架かる大和橋を渡って堺まで至っている。

大和橋から北側にまっすぐ伸びる紀州街道



住吉大社と大和川の中間には、万葉集の中に出てくる霰松原(あられまつばら)が、この辺りにあったことを伝える公園がある。



この付近は、1704年の大和川付け替えまで、白砂青松の名勝地で、海からの風によって松の枝が霰(あられ)が吹きつけるように鳴り響いたのでこの名があるという。

大和橋



現在、住吉公園の西を通っている国道26号線のすぐそばに江戸時代の高燈篭(灯台)が復元されているが、かつては国道26号線辺りまでが海で、海岸沿に長い松原(霰松原)があったようである。

霰松原公園内の従軍記念碑



今から1300年も前、西暦706年(慶雲3年)の難波宮で、天武天皇の第4皇子「長皇子」(?~715年)が、「霰(あられ)打つ 安良礼(あられ)松原 住吉(すみのえ)の 弟日娘子(おとひおとめ)と 見れど飽かぬかも」と詠んだ和歌は有名である。

霰松原公園にある歌碑



その意味は、「松風が霰を吹き付けるように響く、あられ松原の景色と、弟日娘子(当然若い女性)は、両方ともに見あきることが無いくらいに美しい」ということか。

役場跡



平安時代の小野小町よりも200年も前に、天皇の皇子から和歌に詠まれるほど美しい女性が難波宮にいたので、大阪にはその血を引くご子孫も多いのではなかろうか。

紀州街道沿いの古民家



この霰松原公園がある住吉大社の南側地域は、戦災を受けていないようで紀州街道沿いには、今も虫籠窓のある古い町家を見ることができる。



また、紀州街道が通っていた両側には古い寺院や神社が多く、大阪でも歴史的に貴重な場所となっているが、1704年の大和川付け替え工事と、その後の新田開発によって海岸線が西に大きく移動してしまい、1300年前の歌に詠まれた景観は、たった300年で一変してしまった。


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さて、昨日からの続きとなるが、後村上天皇(1328~1368年)は1339年に後醍醐天皇の死の直前に吉野で即位している。

後村上天皇御陵への石段(河内長野市 観心寺)



しばらく平穏な時期があったが、1348年天皇側近であった北畠親房(1293~1354年)が楠木正成の嫡男、楠木正行に足利軍に決戦を挑むよう命令している。(足利軍への1回目の挑戦)

四条畷の楠木正行墓にある由緒書



しかし優勢な足利方の高師直軍は、四條畷の戦いで楠木正行軍を破り、その勢いのまま吉野を襲撃したために、後村上天皇の南朝は急遽賀名生(奈良県五條市)へと移っているので北畠親房の判断は裏目に出たのである。

四条畷の楠木正行墓所



その3年後(1351年)、足利政権内部で高師直の勢力が強大になったことで、内部抗争が発生、尊氏の実弟の足利直義とその養子直冬(尊氏の実子)が南朝に就き、宿敵の高師直を殺害している。

同年、尊氏が足利直冬討伐のために西国向かうと、後村上天皇は京に攻め込み、一旦京都を奪回するが、急遽尊氏が帰京したために京を追われている。(2回目の挑戦)

1352年の後村上天皇住吉行宮跡



1352年、後村上天皇は男山八幡宮に入り、楠木正成の3男、楠木正儀が再び京都を奪回した際、北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と皇太子直仁親王を連行、男山に立てこもるが、後に敗走して賀名生へ帰還している。(3回目の挑戦)

男山八幡宮拝殿



北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と皇太子直仁親王が幽閉された河内長野の金剛寺のことは以前ブログで紹介したことがある。

幽閉された3上皇の玉座(河内長野の金剛寺)



文部省の住吉行在所正印殿跡にある掲示版によれば、後村上天皇は正平7年(1352年)2月、賀名生よりこの地に着き半月滞在されたとある。



1355年、南朝に帰順した足利直冬を立てて京の奪回を目指すが、尊氏・義詮の軍に敗れて頓挫している。(4回目の挑戦)

先の掲示版によれば、後村上天皇は、正平15年(1360年)観心寺より住吉行宮に着座されたとあるので、ここを京都奪還の前線基地としていたようである。



1361年には、足利幕府の政争に敗れた細川清氏の帰服を受け、清氏や楠木正儀らとともに京へ攻め込み、一時的に京を奪回するが、すぐに義詮軍の反撃に遭い撤退している。(5回目の挑戦)

その後6度目の京都奪回を図って住吉大社の行在所に留まっていたが、1368年にこの地で崩御され、ご遺骸は、河内長野に運ばれ、観心寺境内の中の御陵に埋葬されている。

御陵



今から640年も前の天皇の行在所が、住吉大社のすぐ近くにあったことを知る大阪市民は少ないのではなかろうか。


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さて、昨日からの続きであるが、住吉大社に初詣のあと、住吉大社の東にある文化庁登録有形文化財「池田屋」を訪ねてみた。



400年以上の歴史を誇る池田家は、住吉でも最古の家系といわれ、元禄年間(1688~1703年)には造り酒屋を営んでいたという。



明治になってから味噌の製造で有名となり、その由緒が家屋の切妻壁に掲示されているが、現在も創業当時の製法で作られる住之江味噌は人気商品である。



池田屋の当主は、18年前の雑誌「浪花の老舗」の取材に対し、「うちは商売やのうて家業やと思うてます(中略)商売やとどうしても儲けが先にたつので(以下略)」と答えているが、これが老舗として続く秘訣であろう。



池田屋の東側には、住吉福祉会館として使われている江戸時代の古い民家もあり、この辺りが戦災を受けていなかったことが判る。



さて、池田屋から300m南にある長居公園通りを渡り、西に100m進むと第97代天皇であった後村上天皇(1328~1368年)の行在所正印殿跡がある。

池田屋の登録有形文化財の表示



建武の中興でおなじみの後醍醐天皇(1288~1339年)の第9皇子であった義良(のりなが)親王、後の後村上天皇ほど武家に対する戦いに明け暮れた天皇はいないと思う。

1333年に鎌倉幕府が滅亡すると、わずか5歳の義良親王は、北畠顕家、北畠親房父子に奉じられて奥州多賀城へと向かい、1335年に足利尊氏が離反すると、北畠親子と共に京都へ引き返し、比叡山で元服をしている。



1336年に尊氏が九州落ちすると再び奥州へ戻るが、翌年多賀城が襲撃されたために、奥州から戻り、後醍醐天皇と一緒に吉野へ逃れている。

1338年、10歳となった義良親王は、北畠親房とともに伊勢国から船で三たび奥州へ向かっているが、途中で暴風に遭って引き返し、第9皇子でありながら翌年吉野で皇太子となるのである。

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今年も、恒例により旧摂津国の一宮、旧官幣大社「住吉大社」へ初詣にでかけることとした。

住吉大社本殿境内



西側の太鼓橋を通って本殿に至るルートは、いつも大混雑するので、今回は住吉大社の南東部、境外末社の大歳神社、浅澤神社の前を通って行くこととする。



大阪市民であっても、このルートを知る人は少ないようで、西門の混雑を尻目に、空いた南門(重要文化財)からスイスイと境内に入ることができる。



南門から社殿の中に入ると、「卯の葉神事」の際に雅楽が演じられる日本三舞台のひとつとされる珍しい石舞台がある。



そこを通って本殿に入り、第四本宮から、第三、第二、第一本宮の順に家内安全と商売繁盛を祈願し、例年通り縁起物のお札を求めておく。



参詣のあとは、北西側の出口から電車道に出て、少し北に歩き、住吉大社御用達御神饌調達所とある末廣堂まで足を伸ばした。



1868年(明治元年)に創業した末広堂の名物は、「さつま焼き」で、初代が住吉名物であったさつま芋の名残をとどめようと、芋を形取ったお菓子を考案したという。



こし餡を薄い皮で包み、串に刺して焼き目をつけた「さつま焼き」は、住吉大社御用達という通り、明治以降宮家の住吉大社参詣の際に必ず献上されたという。



宮家に献上される菓子として創業当時は金持ちの得意客が多く、庶民の口に入るお菓子では無かったらしいが、今では明治初期の素朴な菓子として気軽に求めて味わうことができる。



さて、末廣堂から南海電車住吉大社駅まで戻り、「名物松露だんご」という看板が出ている福栄堂住吉店で、松露だんごを求める。



堺市浜寺で1907年(明治40年)に創業した福栄堂の松露だんごは、赤餡と白餡でだんごを包み込み、浜寺で採れていたという松露のカタチに丸く仕上げられている。



この丸い形と表面の餡の色が食欲をそそるが、口に入れてみると、こし餡の肌理の細かさに適度な甘さが加わり実に上品な味である。



初詣に住吉大社に出かけた人は、140年前(明治元年)と100年前(明治40年)に創業したという老舗の和菓子を求め、伝統の味を食べ比べてみると面白い。


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