最近「大和川付替えと流域環境の変遷」という本を読んで、大和川付替えのかなり詳しい歴史を知ったので紹介したい。
1704年までの大和川は、近鉄道明寺線の柏原南口駅付近から北に向かって流れていたために河内国(現在の八尾市、東大阪市などの地域)にたびたび洪水を引き起こしていた。
古地図(17世紀前半)大阪府東部が「河内国」と呼ばれていた理由が良く判る
また洪水のたびに運ばれた土砂で川底が埋まり、大和川は次第に天井川となったためにその後の洪水の被害に拍車をかける結果となっている。
そのたびに大和川流域の村々から付け替えの機運が起こり、今米村(東大阪市)の庄屋、中甚兵衛らが1657年頃から何度も幕府に請願し続けている。
石川との合流地点から不自然に西に折れる大和川の衛星写真
流域住民の訴えと洪水被害の頻発に幕府も動き、1683年若年寄稲葉正休、大目付彦坂重紹を派遣、川村瑞賢も同行して現地調査をしている。
稲葉調査団は、織田、豊臣、徳川初期に建築ブームが起こり、その際に大和川流域の木々を濫伐した結果、土砂が川に流れ出すようになり洪水を引き起こすようになったと結論つけている。
近鉄道明寺線の鉄橋から見た大和川と石川の合流地点(付け替え前は左側に流れていた)
現在でも京、大阪に残る巨大な神社仏閣、城郭は、豊臣から徳川時代初期に建築されたものが多く、その際に大和川流域から大量の木材が伐採されたのであろう。
しかしこの調査では、海に出る河口を広げさえすれば、新川を造る必要は無いという結論となり、翌1684年に川村瑞賢によって淀川下流の安治川開削、さらに大和川治水工事が実施されている。
現在の安治川河口
それでも洪水の被害は無くならなかったため、1687年に流域村民から奉行所に嘆願が出され、幕府は川村瑞賢に再び河川の治水工事を命じているが、余り効果は無かったようである。
意外とキレイな大和川の水(下流の大和橋の上から)
1703年、堤奉行の任にあった大阪代官万年長十郎と小野朝之丞は、大和川の新川予定地の検分を実施、ほどなく長崎の巡察を命じられた若年寄稲垣重富、大目付安藤重玄、勘定奉行荻原重秀が大坂に立ち寄った際にも同行して新川筋を検分している。
大和川の土手
副使の荻原重秀(当時45歳)は、正使の稲垣(30歳)よりも幕府内での実力が上であったと思われるが、万年長十郎と荻原は、1674年に幕府に出仕(就職)した同期のサクラであったのである。(共に貧乏旗本の次男であった)
大和川下流にある標識
この直後となる1703年秋、幕府は今まで却下し続けていた大和川の付け替えを決定しているが、この決定の裏には万年長十郎と荻原 重秀の友情がからんでいたようである。
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