冬の休日、京都の南丹市園部町に全国最古の天満宮があるというので園部を訪ねてきた。
園部町は、自民党の大物代議士であった野中広務氏の地元で、政界を引退した野中氏は現在も園部町に居住されているという。
小向山山麓にある園部城は、波多野氏の家臣であった荒木氏綱(1535~1579年)によって築かれているが、園部城は1587年、明智光秀の丹波攻めによって落城し、その後明智光秀の軍に従っていた荒木氏は、光秀の滅亡とともに衰退している。
駅から町の中心までの途中にある園部教会
1619年、園部の地は但馬の出石から小出吉親が移封(2万9千石余)され、明治維新までの250年間、小出家によって治められている。
園部町の町並み
小出家の藩祖小出秀政は、豊臣秀吉の叔父(妻が大政所の妹)という豊臣一族(岸和田藩3万石の領主)で、関ヶ原では長男の吉政(出石藩3万石、秀吉のイトコ)と共に西軍についている。
しかし、二男秀家が東軍に属して関ヶ原で奮戦したために、小出父子の6万石の所領は安堵され、秀政の死後、長男の吉政が岸和田に移り、出石は吉政の嫡男の吉英が継いでいる。
櫓門
信州の真田家も長男信之が東軍、父昌幸と次男の真田幸村が西軍に属して戦い、長男の真田家は所領を安堵されているので、良く似た行動を取ったのである。
巽櫓
1613年に吉政の死で吉英が岸和田に移り、吉英のあとの出石藩は、弟の小出吉親が継いでいたが、1619年に園部(3万石)に移封されている。
隣にある天主のような国際交流会館
小出家は、無城主格の外様大名であったため、園部城跡に天守閣を築かない陣屋型の園部陣屋を築き、その門は園部高校の門として現存しており、映画のロケ地としてよく使われているという。
櫓門と巽櫓
吉親は、築城32年後に小向山にあった生身天満宮と多くの寺院を天神山麓や現在の新町へ移し、城を整備している。
妙光寺
小出家は外様でありながら第4代藩主・小出英貞が、譜代大名のポストである奏者番、寺社奉行、若年寄を歴任、第5代藩主・小出英持も同じくその三職を歴任、第6代藩主・小出英常は奏者番になり幕府の要職を歴任しているので、幕府の信頼が厚かったようである。
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