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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



天王寺区にある浄土宗の一心寺の正式名称は、坂松山高岳院一心寺といい、天王寺公園に隣接した上町台地西の崖線上に建ち、広い境内を有している。

モダンなデザインの山門



1185年、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然(1133~1212年)が四天王寺西門の西にある坂のほとりに、四間四面の草庵を結び、住んだという。

本堂



その後、後白河法皇(1127~1192年)が四天王寺参詣の際に訪れ、法然と共に草庵の下の海に沈む夕日を眺め、極楽浄土を思い浮かべながら念仏を唱えた(日想観を修すという)場所である。

境内から山門を見る



しかし、その後400年間に渡って頽廃しているが、1596年、三河の僧侶「本誉存牟上人」が寺を再興してから一心寺と呼ばれるようになっている。

納骨堂



同じ三河出身というせいか、1614年の大坂冬の陣、1615年の大坂夏の陣では、徳川家康の本陣が茶臼山に隣接したこの寺に置かれ周辺は戦場となっている。

納骨堂の南側



一心寺の南側には、道路を隔てて家康本陣として有名な茶臼山があるが、家康自身は住居としての設備が完備した一心寺に宿泊、滞在していたのであろう。

本堂の南側



一心寺の北、逢坂を挟んだ向かい側が真田幸村が戦死した安居神社なので、幸村が家康の本陣に肉薄していたことがよくわかる。

念仏堂



一心寺の境内には、大坂夏の陣で毛利勝永軍と戦って打ち死した上総国大多喜藩主、本多忠朝(1582~1615年)の巨大な五輪の塔がある。



徳川四天王(酒井忠次 本多忠勝 榊原康政 井伊直政)の一人、本多忠勝の次男、忠朝は、冬の陣で酒を飲んでいたため敗退して家康に叱責され、夏の陣では「戒むべきは酒なり」と言い残して善戦むなしく討ち死にしたため、今も「酒封じの神」とされている。

酒封じの願いが書れた「しゃもじ」



父の本多忠勝は、家康家臣団中第2位の10万石で1590年上総国大多喜に入り、関ヶ原の戦いの後、1601年、伊勢国桑名15万石に移されると、大多喜領5万石は次男の本多忠朝に与えられていたのである。

法然を祀る開山堂



一方、「忠勝」の長男「忠政」は、大阪夏の陣の2年後に15万石の姫路城主となるが、嫡男「忠刻」が早世したために次男「政朝」が姫路城主となり、「政朝」が1637年に亡くなると、姫路藩第3代藩主に「酒封じの神」「忠朝」の長男「政勝」が就いている。

一心寺の南門



1639年、「政勝」は大和国郡山藩に移り、本家「政朝」の息子「政長」を養子に迎えるが、実子「政利」への相続を希望したために1671年に亡くなると本多家にはお家騒動(相続問題)が起こっている。

一心寺の墓地から見た通天閣



一心寺で「酒封じの神」となった「本多忠朝」の長男「政勝」は、1637~1671年までの34年間、本多宗家の当主となり大和郡山藩15万石の藩主を勤めていたので父「忠朝」も喜んでいたことであろう。


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