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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



47歳と19歳の高橋父子は、生国魂神社前にあった島男也(1809~1861年)の屋敷から逃走しているが、島の「男也」という名は自分で付けたもので、本名は「石井八郎」とごく平凡な名前であった。

島男也旧居の石碑



島は、笠間藩(牧野家)を脱藩後に諸国を遍歴し、大納言中山忠能に仕えたこともあるが、結局この時に捕らえられて江戸伝馬町の牢に送られ52歳で牢死している。

高橋多一郎が北郡奉行のときに郡吏となった川崎孫四郎(1826~1860年)は、体を張って上司の逃走を助けたようで、最後はここで自刃している。

高橋多一郎の逃走経路、源聖寺坂



高橋多一郎は、島の屋敷から源聖寺坂の下まで370m、そこから松屋町筋を南に840m、さらに清水坂から坂を上って四天王寺の中まで490m、延べ1700mもの距離を逃げている。



さらに四天王寺の境内を逃げる途中、切れた草鞋を買おうと塔頭寺院秋野坊の北にあった茶店、春日屋まで来るともう外に捕吏が迫っていた。

松屋町筋



この辺りで、奉行所の捕吏が何となく躊躇している状況が伺えるが、大坂東町奉行であった一色直温の後の談話によれば、穏便に管轄外に出てもらうよう密かに担当与力に指示していたようである。

高橋多一郎が逃げ込んだ中之門



つまり、ここから5キロ南の大和川を越えれば、堺町奉行所の管轄に変わるので、大坂町奉行所の捕吏の追求は及ばないのである。

幕府の中でさらなる出世を目指していた大坂東町奉行、一色直温(翌年、幕府の勘定奉行に栄転)にしてみれば、井伊直弼が暗殺され幕府が混沌とするなか、幕政に影響力の大きい徳川斉昭の側近を逮捕し、斉昭から恨まれることは避けたかったのであろう。

高橋多一郎の墓は大黒堂の裏



しかし、斉昭はこの半年後に蟄居のまま60歳で亡くなり、井伊直弼による安政の大獄での罪人や、桜田門外の変の関係者が赦されるのは、2年後の1862年となる。

元三大師堂



逃げられないと勘違いした高橋多一郎は、奉行所の捕り方に捕まる前に切腹しようと草鞋を買いに入った茶店で腹に短刀を突き立てるが、吃驚した春日屋の主人から、「店での切腹は困る」と言われている。

元三大師堂前から高橋の墓が僅かに見える



町人を保護する元水戸藩北郡奉行、誇り高き水戸藩の元奥右筆頭取、脱藩したとはいえ水戸藩改革派のリーダーである高橋多一郎は、茶店の主人の一言で茶店での切腹を思い止まるのである。

つづく

参考文献「幕末・京大坂 歴史の旅」(松浦玲著)


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