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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



廬山天台講寺と称する廬山寺(ろざんじ)は、京都市上京区にある天台系の仏教寺院で、梨木神社のすぐ東側にある敷地は、紫式部の邸宅跡として知られている。



藤原為時の娘であった紫式部(藤原香子という説がある、973頃~1031年頃)は、22才のころ同族の藤原宣孝と結婚し、賢子(後の大弐三位1000~1082年)が生まれたが、結婚後すぐに夫と死別して父親の屋敷に戻っている。



この土地は、紫式部の曽祖父、堤中納言藤原兼輔の屋敷があった場所で、その土地を式部の父為時が相続したことが記録から判っているという。



式部は1005~6年ごろ、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の娘)に仕え、1014年頃までに、源氏物語などをこの場所で書き上げたと推定されている。



当時の平安京内裏は、廬山寺の場所から2キロ少し西側にあったので、紫式部はここから中宮彰子のいる内裏までしばらく通勤していたのであろう。

最初の廬山寺は、比叡山延暦寺の中興の祖である良源(元三大師)によって紫式部の生まれる35年前の938年に京都北山に創建されている。

元三大師堂



その後1243年、法然の弟子である覚瑜が船岡山の南麓に廬山天台講寺として再興したが、豊臣秀吉の寺町建設によって1585年頃に「紫式部邸宅址」であった現在地に移ったようである。

度々の火事のため、現在の堂宇は1794年の再建というが、1964年に歴史学者角田文衞氏によりこの土地が紫式部邸跡と認定され、方丈の前にある源氏庭の中央には、「紫式部邸宅址」と彫られた庭石が静かに置かれている。



本堂は、光格天皇によって仙洞御所から移築されたと伝えられ、参道正面に位置する元三大師堂の本尊は、元三大師(良源)の他に、毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像などを安置している。



廬山寺の方丈前には、紫式部とその娘、高階賢子の歌碑が置かれ、左側が「めぐりあいて みしやそれとも おかぬまに くもかくれにし 夜半の月影」という式部のもの。



境内には、慶光天皇廬山寺陵をはじめ皇族の陵墓があり、豊臣秀吉の築いた御土居が境内東端に残っているというが、その区域には一般の拝観者は入れないようであった。


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五条坂から東山への坂を上ると、清水寺の仁王門があり、さらに西門と三重塔、経堂、田村堂、轟門を過ぎて、舞台(本堂)から奥へと進むのが、普通の参拝順路である。

世界文化遺産清水寺の仁王門



清水寺本堂を過ぎた左手の石段の上には「えんむすびの神」と書かれた地主神社(じしゅじんじゃ)の鳥居がある。

その本殿と拝殿は、清水寺本堂と中心線を共通にしているので、清水寺本堂が地主神社の下拝殿のような配置となっている。



清水寺から続く石段を登った狭い場所にある本殿は、屋根が檜皮葺、入母屋、左右に長い社殿であるが、音羽山中腹にある狭い敷地に建築され、南面には清水寺の巨大な本堂があるために全体を見ることが難しい。



縁結びの神とされる地主神社の本殿と拝殿との間にある狭い空間には、若いカップルやギャルの団体が集まり賑やかで、さすがに縁結びの終わった年配の参詣者は少ないようである。



地主神社の創立は、わからぬことが多いようであるが、境内にある「恋占いの石」は科学的年代測定で縄文時代に設置されていたという説もあり、清水寺よりも古い歴史を持っているようである。

811年春には、嵯峨天皇が行幸され、地主桜の美しさに三度車を返されたので「御車返しの桜」と命名されたことがあるので、1200年近い昔から桜で有名な神社であった。



嵯峨天皇は小野篁(802~853年)と同時代の天皇なので、隠岐配流から戻った小野篁も地主神社に参詣した可能性は高い。

970年円融天皇(959~991年)、1082年には白河天皇(1053~1129年)が行幸され、平清盛(1118~1181年)も参詣した記録もあるので、平安時代には既に有名な神社であったようである。

境内



祭神は、本殿内中央に、大国主命、素盞嗚尊、奇稲田姫命、手摩乳命、足摩乳命、相殿に、天児屋根命、乙羽滝守護神、太田大神が祀られている。

現在の主要建築は、清水寺の多くの建築とともに、1633年に完成したもので、本殿、拝殿、総門が国の重要文化財に指定されている。

境内の下は清水寺本堂



現在の地主神社本殿は、1631年と墨書されている清水寺西門と雲の彫刻、蟇股の輪郭など共通した細部をもっているので、両者は、同一人物か師弟関係にあった人達の作ではないかと考えられている。


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現在、大阪船場に久太郎町という町名があるが、町名の謂れは仁徳天皇の難波宮の時代、船場は百済島という島となっていて、この百済を「久太良」と当時書いていたので、「久太良」が久太郎と読まれるようになったという。



しかし、船場には久太郎町の他にも宗右衛門町、道頓堀、順慶町(今は南船場)、など人の名前にちなんだ町名がいくつか存在しているので、私は堀久太郎秀政(1553~1590年)にちなんだ町名であると思いたい。

宗右衛門町



堀久太郎秀政(1553~1590年)は、13歳の頃から秀吉に仕えていたが、美男であったため16歳で織田信長の小姓として取り立てられている。

本能寺の変の前年には、28歳で信長から近江に2万5千石を与えられているので信長の信頼は相当厚かったようである。

道頓堀



1582年、本能寺の変が起こったとき、秀政は備中にいて秀吉軍の軍監をしていたが、すぐに元の主人である秀吉の家臣に戻り、山崎の戦いの先陣を務めている。

山崎の戦いの翌年、秀吉は大坂城の築城を開始、同時に豊臣譜代の大名の屋敷も大阪に整備したようである。



堀久太郎秀政は、1583年に近江佐和山9万石、1585年には四国征伐による軍功から越前北の庄18万石という高い知行を受けている。

大坂城の南、玉造には丹後宮津12万石の細川屋敷(細川ガラシャが自刃)があったのは確実なので、細川よりも有力な譜代大名となった堀久太郎秀政の屋敷も大阪城から程近い場所、今の久太郎町の東側にあったのではと想定されるのである。

伊藤忠の大阪本店は久太郎町



堀久太郎秀政は、1590年の小田原攻めの際に左備の大将を命ぜられていたが、37歳の若さで惜しくも陣中で急死している。

1598年、秀吉の死の直前、秀政の嫡男、秀治が越後春日山30万石に加増されているので、秀吉はよほど堀家が気に入っていたのであろう。

ビルの壁の標識



徳川時代に入ってからの堀家は、相続争いのお家騒動で減封されたが、秀吉お気に入りの福島正則の福島家や加藤清正の加藤家とは違って、小大名としてしぶとく明治維新まで続いている。

その堀家の家祖である堀久太郎の名前も、やはりしぶとく大阪に残ったと私は見ているのである。


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延べ面積33万㎡もあるATCは、1994年に国際交易のトレードセンターとして大阪市によって総事業費1465億円で建設されている。



建物の西南側には、全長450mの海に面したガーデンテラス「O’sパーク」があり、巨大な棕櫚の木が林立する光景は、大阪市内でも屈指のビューポイントであろう。



ATCの施設全体には関税がかからず、通関前の外国貨物を置くことのできる保税地域に指定されているので、国内外の卸売業者や貿易業者、専門商社などが多数入居することが期待されていた。

しかし、高い賃料や市内からのアクセスの不便さなどから、入居企業が相次いで撤退したため、保税地域としての機能は現在ほとんど発揮されていないようである。



今は、デザイン関連企業や福祉関連のショールーム、アウトレットモール、大型家具店として一部が使われているが、入れ物が大きいので、あいかわらず空きスペースが目立っている。

ATCの中でも最大スペースを誇るITM棟の2階には、派手にペイントされた巨大な吹き抜け空間がある。



この空間の空中を渡る橋のようになった通路や、不規則な直線や曲面で構成された壁は、まさにアートそのものであるが、これだけの大空間の空調、照明、エスカレーターなどのエネルギー費は結構な金額になるのではなかろうか。



面積33万平米もあるATCには、ゆったりとした吹き抜けの大空間や、ガラスが多用された共用スペースが他にもあるので、共用部分のエネルギー費用は相当大きいようである。



2004年から前伊藤忠商事副社長の秋本穣氏がATC社長に就任し、民間の手法で再建に取り組んでいるというが、入れ物が巨大すぎ、かつエネルギー費用がかかりすぎる建物なので前途は多難のようである。



ITM棟の2階のブランドショップがあった場所で、フェリ-に関する資料の展示や九州四国各県の物産を紹介した「OSAKAフェリーまつり」が、7月8日から21日まで開催中であった。



もとのフェリーターミナルよりも、ATCにできたフェリーターミナルのほうが市内へのアクセスや、ターミナルとしての利便性は格段に良いと思うので、これから乗客が増えることを期待したい。


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法善寺横丁は、2年前にも1度紹介したことがあるが、2度の火災から2004年に立て直され、2006年大阪まちなみ賞特別賞を受賞した、古き大阪の情緒を感じることができる「まちなみ」である。



朝、徒歩通勤の途中に立ち寄ってみると、昔の大阪では至る所で見ることが出来たであろう、石畳に打ち水という光景を今もそのまま目にすることができる。

このまちなみの再建に当たっては、防災上問題があるとされた幅2,7メートルの狭い路地を建築基準法の特例を適用して保存しているが、法の壁を乗り越えて特例を実現させた関係者の努力には敬意を表したい。



ちなみに2006年に大阪まちなみ賞を受賞したビルには、北浜の大阪証券取引所ビル、大阪駅前のヒルトンウエストビル、ハービスENTなど派手なビルもあるが、しっとりとした法善寺横丁も同時に大阪まちなみ賞を受賞していることを知らない人も多い。

中央ヒルトンホテルの右がヒルトンウエストとハービスENT



この大阪まちなみ賞の石碑は、東西に伸びる法善寺横丁の路地ではなく、有名な「水掛不動」から北に伸びる狭い路地を入った場所にあるのでちょっと判り難い。



法善寺横丁「正弁丹吾亭」の向かいには藤島恒夫(1927~1994年)のヒット曲「月の法善寺横町」の石碑が置かれているが、今の若者には古くて意味がよく判らないのではなかろうか。



昔の大阪では、3人姉妹の長女から順に「いとさん」、「中いとさん」、「小いとさん=こいさん」と呼んだので、歌詞の中ある「こいさん」とは末娘のことである。

しかし少子化の進んだ今の大阪では、3姉妹を見かけることは殆どなく、勿論こういう言葉を使う人もいなくなってしまった。

左下の小豆色の石が「まちなみ賞」の受賞石碑



1893年に創業という正弁丹吾亭とは、織田作之助の小説「夫婦善哉」(1939年)の中に実名で出てくるが、「正(ただ)しく」「弁(わきま)える」「丹(まごころ)のある」「吾(わたくしども)」の「亭(みせ)」という意味らしい。



法善寺横丁を東に歩き、千日前の手前には、明治から1944年までここにあった寄席「南地花月」の記念碑「懐かしおます この横丁で おもろい噺 五捨銭也 此処は花月の落語場あと」がある。

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昨日、大阪ATCに新しいフェリーターミナルがオープンしたというので、早速どんなターミナルか見てきた。



ニュートラムのトレードセンター前駅からATCに入り、突き当たりを右に折れると岸壁に横たわる巨大なフェリーの姿が目に飛び込んでくる。



通路を直進した吹き抜け広場には、「フェリーさんふらわ」、別府、大分、松山、今治、坂手(小豆島)と書かれたチケット売り場ができている。



中に入って、志布志行きのフェリー乗り場を訪ねると、前から発着している「かもめ埠頭」からですとの回答だったので、前に書いたブログの記事は訂正しなければならない。



チケット売り場の左の通路を奥に進むと、ローソンのまん前が乗船待合室となっていた。



乗船待合室前の廊下の突き当たりを左に折れると、そこからボーディングデッキとなっているが、ボーディングデッキの先はまだ閉鎖されていた。



着岸していたフェリーは、18時50分発別府行きの「さんふらわ あいぼり」号で、パンフによれば総トン数9300トン、全長153m、全幅25m、速力22,4ノット(時速40キロ)でトラック100台、乗用車100台を運べるという。



このあと神戸、今治、松山を経由して大分まで行く姉妹船「さんふらわ こばると」号が20時30分に出航するらしい。

小豆島坂手行きは、夏季の7月26日から8月24日までの季節便となっていて、朝8時ここを出航し、小豆島に11時30分に到着、帰りは小豆島を13時15分に出航、大阪に16時45分到着というスケジュールという。



この季節便は、別府から6時30分に到着した「さんふらわ あいぼり」号の空いた時間を使って運行するようで、大阪と小豆島を7600円(2等)で往復することができる格安フェリーであった。



ATCの外側のデッキから新しいフェリーターミナルを見ると、夕陽が「さんふらわ あいぼり」号の手前の海に反射している。


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中国華南地方にある騎楼建築は、イタリアではポルティコと呼ばれ、修道院の中庭や商店街に多く見られる伝統的な建築様式である。

広州にある騎楼建築



イタリアのフィレンツュ北80キロにあるボローニャでは、建物の建築時にポルティコを作ることを義務化し、総延長40キロ以上のポルティコの通りがあるという。

実は、大阪市内にもポルティコを持った建物がいくつかあり、その代表が御堂筋にある大阪ガス本社ビル(1933年に完成、登録有形文化財)である。



大阪ガス本社ビルは、1966年に北側部分が増築されているが、ポルティコのあるデザインはそのまま踏襲され、言わばポルティコビルの長男というべき立場であろう。



ガスビルのすぐ北側の武田御堂筋ビル(1991年完成)にもポルティコがあり、御堂筋の歩行環境に貢献したとして、1993年に大阪まちなみ賞「奨励賞」を受賞しているポルティコビルの次男である。



さらにその北側のランドアクシスタワービル(2001年完成、2002年大阪まちなみ賞「奨励賞」受賞)にもポルティコがあり、これをポルティコビル3男とすれば、御堂筋のポルティコビル3兄弟ができあがるという訳である。



御堂筋を北上し、堂島川を渡るとある三菱UFJ信託銀行大阪支店の「大阪三菱ビル」にもポルティコがあるが、近く建替えられるのではとの噂がささやかれている。



御堂筋から西の四ツ橋筋に目を移すと、1958年に完成し、昨年建替計画が発表された新朝日ビルにもポルティコがある。



この新朝日ビルは、来年から解体され、2013年に高さ200mの超高層ビルとなるというが、ポルティコはどうなるのであろうか。



四ツ橋筋を挟んだ西側には、朝日新聞大阪本社ビル(1968年完成)があり、このビルにもポルティコがある。

この朝日新聞社が保有する2棟のビルのポルティコのおかげで、雨の日に堂島方面から中之島の南に向かう通勤者は、このビルの下では傘をさす必要が無い。



大阪のビルには、こうした歩行者に対する思いやりの伝統があったようであるが、これから建築されるビルにもぜひ引き継いで貰いたいものである。


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朝の御堂筋を徒歩通勤していると、外壁の清掃作業をしているビルをよく見かけるが、ときにはドキッとする光景を目にすることもある。



この写真を見て、どのビルかがすぐに判る人は、かなりの御堂筋通(ツウ)である。

このくらい引くと、判る人がかなりいると思うが、ベネトン心斎橋メガストアの南側外壁なのである。



2003年2月にオープンしているこのビルは、2003年度のグッドデザイン賞(建築デザイン部門)を受賞している由緒正しいビルであった。

さらに、大阪府建築士会が主催する第50回大阪建築コンクール大阪府知事賞も受賞しているので、御堂筋のビルの中ではひときわ高く評価されているビルなのである。



このビルの低層部分には、大面積のガラスが使われていて、それが夜にはライトアップされ、この近くの御堂筋を明るくしている。

ビル南側のガラス壁の中には、大阪最大級の巨大ポートレート写真が掲示されているが、これほど巨大な写真は全国でも珍しいのではなかろうか。



また高層部分の窓の外側には、ルーバーが設置されているので、高層階の窓の清掃作業は、屋上からロープにぶら下がってすることとなる。



このベネトン心斎橋メガストアの売場面積は、日本のベネトン メガストアの中でも一番を誇り、ベネトン社の販売する全ブランド1600アイテムが揃っているという。

実は、このベネトンビル以外にも、朝の御堂筋で外壁の清掃作業をしているビルは結構あり、この建物などはロッククライミングをしているかのようである。



この外壁は、2004年に完成したエトワール心斎橋ビル(隈研吾氏設計)のもので、夜になると高層階の外側全体が光るので有名である。



1階にはショーメ、フェンディ、ディオールのブランド看板が3つもあると思ったら、高級ブランドの集合体であるモエヘネシー・ルイヴィトン社のビルであった。




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御堂筋と道頓堀の交差点、道頓堀橋の北東角にあるグルカスシティビの2階に串揚げ(串カツと同じ)で有名な銀扇本店がある。



食べログの記事を読むと評判が良く、値段もリーズナブルだったので、いつのもイタリアンを止め、串カツを食べてみることとした。



この店のメニューの中から選んだのは、おまかせ食べ放題コース(2680円)で、魚の串として、車海老、貝柱、かに爪、鱧チーズ、きすの5種類、肉の串として、牛ヒレ、豚ロース、牛肉のごぼう巻、あらびきソーセージの4種類。



さらに野菜の串として、アスパラ(豚肉巻き)、れんこん、たまねぎ、とうもろこし、オクラ、ヤングコーン、じゃがいもベーコン、椎茸えびミンチ詰め、チーズトマトの9種類その他、おもち、うずら卵、こんにゃく、フルーツ揚げの4種類あわせて22種類の串揚げが出てくるという。



さらに、この22種の中から一串につき一回(つまり全部注文すれば22種類)追加リクエストできるので、全部食べると44品、1品あたり61円という単価となる。



実はこのコース以外に、特別食べ放題コースとして、魚の串にふぐ、穴子アーモンド揚げ、たこ、子持ち昆布、サーモンいくら等を追加したものもあり、ネットのクーポン持参で3280円なので、1串あたり単価は59円と格安であった。



定番ものから季節ものまで揚げたてを一つ60円そこそこで食べられるならリーズナブルな食事である。



前日にテーブル席を予約して6時頃に店に入ると、まだ客はまばらである。



早速コースを注文して串と格闘したが、さすがに44品食べるのは無理で、30品でギブアップしてしまった。



ちなみに食べログの評価では恵比寿町にある「だるま本店」が3,53、「銀扇本店」が3,48、「だるまジャンジャン店」が3,42なので「銀扇本店」と「だるま」は甲乙付け難いということか。

フルーツ揚げ(中味はバナナ)



「元祖串カツのだるま」は、遠方からの客も集まることで有名であるが、道頓堀の銀扇本店は足の便が良いので、私としては次に行くのもやはり銀扇であろう。


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先の大戦による空襲の無かった京都市内で「先の戦争」といえば、応仁の乱(1467~1477年)のことなので、古い建物が今も数多く残っている訳である。

四条辺りから見た京都北部



しかし、戦国時代末期には本能寺の変(1582年)があり、江戸期においても京都の市街地は火災がたびたび発生していて、市の中心地に残る古い建物は意外と少ない。



今回は、三條家と三條西家の家名の由来となった京都三条通を寺町通から烏丸通まで散歩してみることとした。



三条通は、明治時代に京都のメインストリートだったため、中京郵便局、旧日本銀行京都支店(現在は京都文化博物館の別館)、日生京都三条ビルなど耐火構造のレトロビルが今も建ち並び、「歴史的界隈景観地区」に指定されている。



建築年代順で紹介すれば、烏丸通との交差点の近くにある中京郵便局が1902年に建設されていて、赤レンガ造りの外観が特徴である。

中京郵便局舎は、日本で最初に外壁を残したままで内部のみを新築する建築手法を用いて改築されたビルで、外観はレトロであっても内部は新しいビルに変身している。

中京郵便局



次に1906年に日本銀行京都支店として竣工した煉瓦造りの旧日本銀行京都支店(現在は京都文化博物館の別館)で、設計者は辰野金吾(1854~1919年)である。

旧日本銀行京都支店



明治建築界の第一人者であった辰野金吾は、日本銀行本店(1896年)、日本銀行大阪支店(1903年)の設計も担当、日銀のお抱え建築家のような立場であった。

日銀大阪支店



後に辰野と共同で設計事務所を創立する片岡安(1876~1946年)は、1897年に東大を卒業して日銀の建築技師となっているので、大阪支店、京都支店の建築で二人が出会い意気投合したのであろう。

旧日本銀行京都支店



辰野金吾と片岡安の二人は、日銀京都支店が完成する前年の1905年、大阪に辰野片岡事務所を創設して建築設計事務所としての活動をスタートさせている。

1918年に完成した大阪中之島の中央公会堂の実施設計も二人が担当しているので、日本銀行京都支店と大阪中央公会堂の外観は非常に良く似ている。

中央公会堂



1914年に完成した日本生命京都三条ビルも、辰野片岡建築事務所の設計で、外観には片岡が得意とする石貼りを多用した直線的な意匠を用いている。

日本生命京都三条ビル



このビルは、辰野金吾ならぬ辰野「堅固」と呼ばれる彼の面目躍如たる頑丈なデザインのまま、94年後の今も三条通で存在感を示している。


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三條実美の三條家は、藤原公実の二男実行(1080~1162年)を祖とし、孫の実房の嫡流が京都三条の北、高倉に邸を構えたことから、家名が定まったようである。

三條実美を祀る梨木神社の拝殿



実房の後、嫡流は長男の公房が継ぎ三條を称したが、三男の公氏も三條を称したため、公氏の流を正親町三條と呼び区別した。

戦国時代となる1551年 、三條公頼(1495~1551年)は、山口の大内義隆の元に滞在中、義隆家臣の陶晴賢の反乱に巻き込まれ、殺害されてしまった。

梨木神社の南門



三條公頼の3人の女子は、細川晴元、武田信玄、本願寺顕如という当時権力のあった名家に嫁いでいるが、息子がいなかったため、一時三條家は断絶してしまう。

顕如の大谷本願寺にあった梵鐘(文禄5年=1596年の銘があり大阪南御堂に現存)



しかし、正親町三條実教、次に三條西実綱、さらに三條西公広(1577~1626年)が本家の三條家を継いでいる。

三條西家は、正親町三條家の分家で、分家でありながら家格は本家をしのぎ、室町時代から江戸時代初期にかけ右大臣をたびたび輩出したため、その家格は本家の本家となる三條家とほぼ同格とみなされていた名家であった。

三條実美を祀る梨木神社の由緒書



この三條西家は、家光の乳母・春日局(1579~1643年)の祖母の実家に当たり、明智光秀の家老であった父を亡くした幼少期の春日局を引き取って養育していたので有名である。

三條公広の兄は、徳川家光の時代に武家伝奏を努めていた三條西実条(さねえだ1575~1640年)で、春日局と4歳年長の実条、2歳年長の公広は、1582年頃から同じ屋根の下で育った幼馴染であったようである。

春日局が起こした大名家、稲葉氏の居城「淀城跡」



武家伝奏とは、室町時代から江戸時代までにあった朝廷の職名で、武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役目を果たし、江戸期には学問に優れて弁舌が巧みな大納言級の高位の公卿が任じられていた、言わば内閣官房長官というような重要なポストであった。

御所の紫宸殿



1629年、春日局が上洛した際、御所へ昇殿する資格がなかったが、当時内大臣に就任していた三條西実条の義理の妹(厳密に言えば祖父と祖母が兄妹)という資格で参内し、後水尾天皇に拝謁を許されている。

幕府からこの功績を評価された実条は、以降も幕府の意向に従い、1635年には従一位、1640年には家光の左大臣に次ぐ右大臣に任ぜられている。

参内する人が御所に昇殿する車寄せ



その三條西実条の実弟、本家の本家を継いだ三條公広が亡くなってから176年後に昨日紹介した三條実萬(1802~1859年)が、さらに実萬の子息、三條実美が誕生するのである。


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京都御苑の東側を歩いていると、南北に細長い敷地があり、梨木(なしのき)神社とある前を通りかかったのでちょっと立ち寄ってみた。



梨木神社は、贈右大臣正一位 三條実萬(さねつむ)とその子息である、内大臣正一位 大勲位公爵三條実美(さねとみ)の二柱を祭神としている。

三条実萬(1802~1859年)は、江戸末期に菅原道眞の生まれかわりと崇められた博覧強記の人で、早くから王政復古を唱えていたという。

京都御所と梨木神社



三条家は、藤原北家閑院流の嫡流、太政大臣まで昇任できた清華家のひとつで、三條実美の母は土佐藩主山内豊策の娘であった。

土佐藩10代藩主の山内豊策は、15代藩主山内容堂(1827~1872年)の祖父なので、三條実美と容堂は従兄弟同士となる。



若き三條実美(1837~1891年)は、1862年に勅使として江戸へ赴き、14代将軍の徳川家茂に攘夷を督促したり、翌年公武合体派の中川宮らの公家や薩摩藩らが結託したクーデターに加わっているので、20代半ばまでは、かなり過激な人物であったようである。

1864年の第一次長州征伐では、亡命先の長州藩から福岡藩へ預けられて3年間の幽閉生活を送り、その間に西郷隆盛や高杉晋作らとの交流を通じて明治天皇が信頼するに足る人物に成長している。

南門



実美は、1868年の王政復古に際して31歳で政治の表舞台に復帰し、翌年には新政府の右大臣、さらに太政大臣、内大臣となり生涯、政権の中枢にあり続けた人物である。

実美が内大臣に就任した1885年、没後26年を経た父、実萬は旧梨木町の三條家邸跡に創建された梨木神社の祭神となっている。

舞殿



1889年には、黒田清隆総理の辞任をうけて総理大臣を代行、1891年に55歳で死去した際には正一位大勲位公爵として、日本国の最高の礼「国葬」で送られている。

実美の没後24年を経た1915年、大正天皇の即位式にあたり、第二祭神として梨木神社に合祀されたので、三条親子がこの梨木神社の祭神となっている。

梨木神社の場所は、源氏物語ゆかりの土地



三條実美が神として祀られている神社が京都の真ん中にあることを知らない人は多いのではなかろうか。


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ネットのクチコミグルメサイト「食べログ」を見てみると、兵庫県のパンランキングの栄えある第1位は、芦屋のベッカライ・ビオブロートとなっている。



パンの先進地区である神戸市を含む兵庫県で第1位とは、全国トップと言っても過言ではないと思うので、評判の高いクロワッサンを買いに芦屋まで出かけていった。



阪神打出駅から歩道の整備された道を西に10分くらい歩くと公園があり、その隣のマンションの1階が、赤いテントのベッカライ・ビオブロートである。

公園



11時過ぎに店に入り、ショーケースを見るとクロワッサンは、たった5個しか残っていないではないか。

しかも、店内には既に3組の先客がいて、店員はそちらの客の方を向いている。

店内



この先客に先を越されたら、大阪からわざわざ芦屋まで出かけて来た苦労が水の泡になってしまう。

そのとき、偶然女店員と目と目が合ったので、「クッ、クロワッサンを全部下さい」と咳き込むように叫び、幸運にもこの日最後のクロワッサンを全部ゲットしたのである。

ドイツのパンマイスター証書



先客がどのパンにしようかと目移りさせていたほんのチョットした隙が、私に幸運をもたらした訳である。

毎日90個しか生産できないクロワッサンは、殆ど午前中には売り切れるので、どうしても欲しい人は電話で予約してから買い行くと良いという。



評判の高いクロワッサンを、店の外に出てから早速食べてみたが、外側がパリッとしたパイのような生地、中がモチモチした生地でできたクロワッサンであった。

中の生地によくあるバターのしつこさが無く、口に含むと適度な甘さと小麦の香ばしい香りがフッと鼻に抜ける。



ベッカライ・ビオブロートのパンには、その日に挽いたばかりの小麦の全粒粉を使っているので、いやな酸味が全く無いパンができるという。

ベッカライまでの緑の道



このこだわりが、この美味さを引き出すのであろうが、残り4個を自宅に持ち帰り、じっくりと味わってみると、やはり兵庫県第1位と皆さんがネットで評価するだけのことはある。


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明智光秀(1528~1582年)が何故本能寺の変を起こしたかという動機には、さまざまな説があるが、信長に対する怨恨説は、近年否定される傾向にあるようである。

本能寺



当時、信長、光秀と何度も面会していた宣教師ルイス・フロイス(1532~1597年)は、光秀を「裏切りや密会を好み」「刑を科するに残酷」「偽装に抜け目が無く」「計略と策略の達人」等と酷評していて、伝承とは別の人物であったと記録している。

本能寺にある信長廟への通路



三代将軍家光の時代、光秀の家老斎藤利三(1534~1582年)の娘である春日局(1579~1643年)が老中も一目置く、絶大な権力を持ったせいで、家光時代以降の徳川期から今日まで、光秀が教養の高い文化人と伝わったようである。

実は、本能寺の変とは、前将軍の足利義昭(1537~1597年)が、かつての家臣光秀に信長暗殺を持ちかけ、フロイスの言う通り裏切りを好んだ光秀が、信長にとって代わろうとしたクーデターではなかろうか。

信長廟



NHKの「その時歴史が動いた」の取材によれば、本能寺の変の直前に光秀が上杉景勝(1556~1623年)に、身分の高い人物(足利義昭)へ協力するよう要請していたという。

また本能寺の変の直後、光秀が紀州雑賀衆・土橋重治へ送った書状に、身分の高い人(足利義昭)からの「上意」であるという言葉が使われているので、光秀と義昭はかなり以前から打倒信長の策略を練っていたようである。

信長の墓石



当時義昭は、毛利氏に身を寄せていて、義昭と光秀の信長攻撃計画は、義昭を鞆の浦で匿っていた毛利元就の三男小早川隆景(1533~1597年)も知っていた可能性がある。

備中高松城攻撃中の秀吉(1537~1598年)から突然和議の提案が毛利側にあった際、隆景は、「信長に代わって天下を治めるのは秀吉であるから、今のうちに恩を売るべきである」と総大将の毛利輝元(1553~1625年)に進言しているほどである。

左は信長家臣の墓石



隆景は、光秀が信長を殺しても彼らに協力する勢力は少なく、すぐに秀吉に討たれてしまうであろうと読んでいて、この際秀吉を追撃しようとする兄の吉川元春(1530~1586年)を止めたのである。

秀吉は、天下を統一した後、隆景に羽柴姓と北九州に37万石を与え、徳川、毛利、前田、宇喜多と並ぶ5大老に推挙するなど恩人として大いに処遇しているのである。

本能寺の境内から見た山門



小早川隆景は、早くからルイス・フロイスと同じように光秀を「裏切りや密会を好む」「計略と策略の達人」で、信長の後継者にはなれない人物と判断していたのである。


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