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明智光秀(1528~1582年)が何故本能寺の変を起こしたかという動機には、さまざまな説があるが、信長に対する怨恨説は、近年否定される傾向にあるようである。

本能寺



当時、信長、光秀と何度も面会していた宣教師ルイス・フロイス(1532~1597年)は、光秀を「裏切りや密会を好み」「刑を科するに残酷」「偽装に抜け目が無く」「計略と策略の達人」等と酷評していて、伝承とは別の人物であったと記録している。

本能寺にある信長廟への通路



三代将軍家光の時代、光秀の家老斎藤利三(1534~1582年)の娘である春日局(1579~1643年)が老中も一目置く、絶大な権力を持ったせいで、家光時代以降の徳川期から今日まで、光秀が教養の高い文化人と伝わったようである。

実は、本能寺の変とは、前将軍の足利義昭(1537~1597年)が、かつての家臣光秀に信長暗殺を持ちかけ、フロイスの言う通り裏切りを好んだ光秀が、信長にとって代わろうとしたクーデターではなかろうか。

信長廟



NHKの「その時歴史が動いた」の取材によれば、本能寺の変の直前に光秀が上杉景勝(1556~1623年)に、身分の高い人物(足利義昭)へ協力するよう要請していたという。

また本能寺の変の直後、光秀が紀州雑賀衆・土橋重治へ送った書状に、身分の高い人(足利義昭)からの「上意」であるという言葉が使われているので、光秀と義昭はかなり以前から打倒信長の策略を練っていたようである。

信長の墓石



当時義昭は、毛利氏に身を寄せていて、義昭と光秀の信長攻撃計画は、義昭を鞆の浦で匿っていた毛利元就の三男小早川隆景(1533~1597年)も知っていた可能性がある。

備中高松城攻撃中の秀吉(1537~1598年)から突然和議の提案が毛利側にあった際、隆景は、「信長に代わって天下を治めるのは秀吉であるから、今のうちに恩を売るべきである」と総大将の毛利輝元(1553~1625年)に進言しているほどである。

左は信長家臣の墓石



隆景は、光秀が信長を殺しても彼らに協力する勢力は少なく、すぐに秀吉に討たれてしまうであろうと読んでいて、この際秀吉を追撃しようとする兄の吉川元春(1530~1586年)を止めたのである。

秀吉は、天下を統一した後、隆景に羽柴姓と北九州に37万石を与え、徳川、毛利、前田、宇喜多と並ぶ5大老に推挙するなど恩人として大いに処遇しているのである。

本能寺の境内から見た山門



小早川隆景は、早くからルイス・フロイスと同じように光秀を「裏切りや密会を好む」「計略と策略の達人」で、信長の後継者にはなれない人物と判断していたのである。


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