三條実美の三條家は、藤原公実の二男実行(1080~1162年)を祖とし、孫の実房の嫡流が京都三条の北、高倉に邸を構えたことから、家名が定まったようである。
三條実美を祀る梨木神社の拝殿
実房の後、嫡流は長男の公房が継ぎ三條を称したが、三男の公氏も三條を称したため、公氏の流を正親町三條と呼び区別した。
戦国時代となる1551年 、三條公頼(1495~1551年)は、山口の大内義隆の元に滞在中、義隆家臣の陶晴賢の反乱に巻き込まれ、殺害されてしまった。
梨木神社の南門
三條公頼の3人の女子は、細川晴元、武田信玄、本願寺顕如という当時権力のあった名家に嫁いでいるが、息子がいなかったため、一時三條家は断絶してしまう。
顕如の大谷本願寺にあった梵鐘(文禄5年=1596年の銘があり大阪南御堂に現存)
しかし、正親町三條実教、次に三條西実綱、さらに三條西公広(1577~1626年)が本家の三條家を継いでいる。
三條西家は、正親町三條家の分家で、分家でありながら家格は本家をしのぎ、室町時代から江戸時代初期にかけ右大臣をたびたび輩出したため、その家格は本家の本家となる三條家とほぼ同格とみなされていた名家であった。
三條実美を祀る梨木神社の由緒書
この三條西家は、家光の乳母・春日局(1579~1643年)の祖母の実家に当たり、明智光秀の家老であった父を亡くした幼少期の春日局を引き取って養育していたので有名である。
三條公広の兄は、徳川家光の時代に武家伝奏を努めていた三條西実条(さねえだ1575~1640年)で、春日局と4歳年長の実条、2歳年長の公広は、1582年頃から同じ屋根の下で育った幼馴染であったようである。
春日局が起こした大名家、稲葉氏の居城「淀城跡」
武家伝奏とは、室町時代から江戸時代までにあった朝廷の職名で、武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役目を果たし、江戸期には学問に優れて弁舌が巧みな大納言級の高位の公卿が任じられていた、言わば内閣官房長官というような重要なポストであった。
御所の紫宸殿
1629年、春日局が上洛した際、御所へ昇殿する資格がなかったが、当時内大臣に就任していた三條西実条の義理の妹(厳密に言えば祖父と祖母が兄妹)という資格で参内し、後水尾天皇に拝謁を許されている。
幕府からこの功績を評価された実条は、以降も幕府の意向に従い、1635年には従一位、1640年には家光の左大臣に次ぐ右大臣に任ぜられている。
参内する人が御所に昇殿する車寄せ
その三條西実条の実弟、本家の本家を継いだ三條公広が亡くなってから176年後に昨日紹介した三條実萬(1802~1859年)が、さらに実萬の子息、三條実美が誕生するのである。
| Trackback ( 0 )
|