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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



世界文化遺産に登録されている清水寺は、広隆寺、鞍馬寺とともに、京都では数少ない平安京遷都(794年)以前からの歴史をもつ古い寺院である。

仁王門



寺伝によれば778年、大和国の僧・延鎮上人が、夢のお告げの霊泉を訪ね、たどりついたのが、清水寺の建つ音羽山であった。

西門



2年後の780年、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758~811年)が、修行中の延鎮に出会っている。

三重塔



当時22歳の田村麻呂は、妻の病気の薬になる鹿を求めてこの山に来たが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して自邸を本堂として寄進したという。

三重塔、経堂、田村堂(手前から)



田村麻呂は、796年東国の蝦夷を平定して征夷大将軍となって帰京し、798年には清水寺本堂を大規模改築しているので、境内には田村堂という開山堂がある。

田村堂



清水寺は、810年に嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となっているので、坂上田村麻呂の亡くなる直前に本格的な寺観が整ったようである。

回廊



清水寺は、平安期を通じて源氏物語、枕草子、更級日記、梁塵秘抄などの古典文学にも多く言及されている。



今から千年前に書かれた清少納言の枕草子には、「さはがしきもの」の例として清水寺の縁日を挙げており、平安時代、既に多くの参詣者を集め、騒がしく賑やかであったことが伺われる。

清水寺の伽藍は、創建以来たびたび火災にあっており、現在の本堂は1633年、徳川家光の寄進による再建である。



境内は、音羽山中腹に石垣を築いて整地され、多くの建物が断崖に軒を接するように建ち並んでいる。



本堂の前半部分は、山の斜面にせり出すようにして建てられ、多くの長大な柱が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えているが、このような構造を懸造(かけづくり)と言い、観音菩薩は補陀洛山に現われるという謂れに基づくものである。



したがって清水同様観音霊場として名高い長谷寺、石山寺の本堂も「懸造」となっていることは以前紹介したことがある。


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