遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



......日曜日、娘たちと買い物をしたり、遠くの町の公園に行ったりしました。車のなかで、長女が「おかあさん なぜ 外に出ると ぼーっとしているの」と訊くのです。そんな風に見えるのかしら?........考えているうちにはっとしました。ひとたび外に出ると、さまざまな情報や刺激が飛び込んできます。わたしはその処理に追われていて、それがぼーっとしているように見えるのではないか.....

   たとえば、さきほどボタンを買いに行った手芸品店で、わたしは隣にいたご夫婦の存在を強く感じていました。おふたりが家のリビングにいるようす、日頃の生活振りが垣間見えたような気がした。.....店員さんの応対の声音に、親切だけでない、おもしろがっているようす、かすかな傍若無人さを感じたりもしました。

   人間ばかりではありません。シャッターの降りた店、お寺の鐘つき堂、古びた会所の暖簾.....通りすがりの景色から伝わってくるものがある、余分なものはろ過する、或いは無意識のうちに危険を感じてシャットアウトする.......ときに深く味わう。そういう操作をわたしたちは無意識のうちにしているのではないか.....

   そして、10日前、彗星の探索者・木内鶴彦さんの講演会で訊いたことを思い出しました。木内さんは一度病院で死亡の確認をされて、30分後蘇生した方です。その30分のあいだに木内さんは過去・未来にわたる膨大な場、膨大な時間のながれにふれたそうです。木内さんは「人間には、ありとあらゆる生き物が地球で心地よく生きてゆくための調整をする役目があった」と言いました。そして「生き物にもすべてのモノにも意識があり、テレパシー能力がある。人間だけがその能力を失ってしまった」と....。

   以上のことから、わたしが推論したのはこんなことです。.....想像力とはなにもないところから生まれるのではなく、人間が本来持っている感応力と深く関わっているのではないか.......外部から目に見えないある情報や刺激をうけとることでイマジネーションの翼が広がるのではないか.....なぜといって想像力の高いひとでいて感受性の低いひとをわたしは知りません。

   とすると語り手としてのわたしが拠って立っている場所が見えてきます。目に見えないモノ...との交感、交流......(意識を)”ひらく”こと。そういえば演劇のワークショップなどで最初にするのが ”ひらく”ためのエクササイズです。わたしがひらいてきた語りのためのワークショップでもそうでした。ひとがかって他の生き物やモノの意識を感じ取ることができたとすれば、あらゆるひとに能力とそれをひろげるチャンスがある。しかしなかには、先祖がえりのように感応力が鋭い子どもが生まれます。

   打てば響くように理解してゆくひとがいるのは、そういうことかもしれません。いくらことばをつらねても、思わぬところで立ちどまるひともいる、理解されないこともある.....それぞれの資質によって、どこをどう押してゆくか考える余地がまだあります。けれども、根本はそのひとの意識です、学ぶにしても、伝えるにしても。なにを目指しているのか? ということ。 深追いはやめよう、”自分の特性、資質を信じること、充実させること、方法と場は違っても志を同じくするひとたちとゆるやかな輪をつくることにシフトをうつす時がきた”と感じた一日でした。

   そして思うのです。ひとがかつて持っていた感応力、想像力を取り戻すことが、地球をよみがえらせる原動力になるのではないか......他の生き物..動物たち、木や草や花々.....虐げられているひとびと......地球.....そして宇宙..........それらの意識を感じる、受け取る......その一部である自分を感じる........そうしたら生活は変わるはず、思いは変わるはず........わたしは語り手には、そこに聴き手をいざなう....使命があるのではと思います。みなさまは......どう思われますか?.......古語、カツ、ウツ→カタル、ウタウの真義は魂フリ 魂シズメ.....魂を生き生きと甦らせること。ここに円環が、螺旋が出現します。






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