小説新潮に連載されていた「仮想儀礼」(篠田節子)が最終回を迎えた。
連載38回、3年2ヶ月であった。
物語は、人生に挫折した二人の男がひょんなことから宗教で身を立てようとするところから始まり、遊び半分でつくった宗教団体が、あれよあれよという間に大きくなり、大きくなったゆえに数々の問題が生じ、とうとう世間は「邪教」と認知し、一人の男は解散をしようとするが、狂信的信者たちに阻まれ、そして破滅する、というあらすじである。
宗教というものは、大きな教義にもとづき人を導くものである。
生きていくということは矛盾の連鎖であり、そして現代における一人ひとりの人生というものは多種多様に過ぎるのである。
それを、深く考えずにつくった宗教では、救えない。
「宗教というのは<教義=理論>を支えるものが<神秘>である」という矛盾を最初から内包しているのである。
何か大きな問題が生じたときには、理論ではなく<力づく>で押さえ込まなければならない。<力づく>という部分が<神秘>なのだろうと思うのである。そして神秘というのは<熱>なんだろうと思うのである。
それがこの物語の主人公・正彦は<理論>で押さえ込もうとし、演技としての<神秘>で納得させようとする。
彼の芯の部分は「醒めている」のである、そして彼は「常識の人」である。
それが、うまく回転したときには成功し、一端つまづくとバタバタとしてしまうのである。
最初、宗教が成功していく部分は単純に面白いと思っていたのである。
ところが、失敗していくところから、物語は深みを帯びていくのである。
ここからを描きたいがために、著者は大きな前段を用意したのではないのかと思ってしまうほどである。
今まで読んだことのない題材であり、楽しめた3年間であった。
今後、単行本化されるだろうが、文庫になったときに読み返してみようと思っているのである。
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連載38回、3年2ヶ月であった。
物語は、人生に挫折した二人の男がひょんなことから宗教で身を立てようとするところから始まり、遊び半分でつくった宗教団体が、あれよあれよという間に大きくなり、大きくなったゆえに数々の問題が生じ、とうとう世間は「邪教」と認知し、一人の男は解散をしようとするが、狂信的信者たちに阻まれ、そして破滅する、というあらすじである。
宗教というものは、大きな教義にもとづき人を導くものである。
生きていくということは矛盾の連鎖であり、そして現代における一人ひとりの人生というものは多種多様に過ぎるのである。
それを、深く考えずにつくった宗教では、救えない。
「宗教というのは<教義=理論>を支えるものが<神秘>である」という矛盾を最初から内包しているのである。
何か大きな問題が生じたときには、理論ではなく<力づく>で押さえ込まなければならない。<力づく>という部分が<神秘>なのだろうと思うのである。そして神秘というのは<熱>なんだろうと思うのである。
それがこの物語の主人公・正彦は<理論>で押さえ込もうとし、演技としての<神秘>で納得させようとする。
彼の芯の部分は「醒めている」のである、そして彼は「常識の人」である。
それが、うまく回転したときには成功し、一端つまづくとバタバタとしてしまうのである。
最初、宗教が成功していく部分は単純に面白いと思っていたのである。
ところが、失敗していくところから、物語は深みを帯びていくのである。
ここからを描きたいがために、著者は大きな前段を用意したのではないのかと思ってしまうほどである。
今まで読んだことのない題材であり、楽しめた3年間であった。
今後、単行本化されるだろうが、文庫になったときに読み返してみようと思っているのである。
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