読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

何か面白い読み物ないだろうか

2006-07-14 23:14:47 | 日々雑感
6月末から9月にかけては、ジメジメと暑さでゆっくり本を読もうという気がわかないのである。

木陰でハンモックに揺られながら本を読んでは眠り、目覚めては本を読む、という生活に憧れはするが、たぶん2日くらいで飽きるだろう。
ああ、ゆっくりと本を読んでいたい。
と思っているうちが「花」なのである。

とわかっていはいるのだが、わかっていますって、だからわかった・・・兎も角、諦めが悪いようで・・・

さて、では「木陰でハンモック」のとき「何を読もうか?」が次の問題なのである。
いわゆる「古典」もいいかなあ・・・って、これはたぶん夏休みの読書感想文の影響で、なんだかいつも読んでいないよそ行きの本などをよんだりして、挙句、なんだかわからないままにわかったような感想文を書いてたりする。

時代小説に何か面白いものはないでしょうか?
時代小説というと、どうしても山本周五郎の短編を思い浮かべ、あれを勝るものはないだろうなあーと、探すのをはなからやめたりする。

べたべたしない恋愛小説はないだろうか?
しかし、さわやかであっさりした恋愛は面白くなく、ベトベトギタギタな恋愛が傍から見ていると面白いわけであって・・・

痛快なエッセイはないだろうか?
今の世の中、はっきりといえばそれなりに大変なので、まあある一定の、いわゆる自己規制をもって・・・痛快なわけがない。

歴史小説!
もうこの年になると、今までの見解や通説を覆すような物語は、自分の積み上げてきたものを崩すような気がして・・・かといって歴史小説は大どんでん返しなどなく、その歴史の果てに今の私がいるわけであって・・・

推理小説は、人殺しがあまりにも安易に行われている。
まあ現実も安易な人殺しがおおいので、なんともいいいがたいが。
しかも今は、明確な動機がない現実の事件が多いため、推理小説だけが筋を通さなければならないので、なんだか、変な気持ちになったりする。

というわけで、読まない理由、をくどくどと述べさせていただきました。
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倍賞千恵子コンサート

2006-07-13 22:39:14 | 観た、聴いた
倍賞千恵子さんのコンサートに行ってきた。
「深呼吸したら思い出した」
というサブタイトルがついている。
<合田道人>さんという人が書いた「童謡の謎」という本を土台にしたコンサートなのだそうである。

倍賞さんは163本の映画に出演したそうであるが、私が一番印象深いのは「同胞(はらから)」という映画であり、その映画の中で歌われていた歌をうたってくれないかあ、とおもっていたが今回はなく残念でした。

コンサートはピアノ1台の伴奏である。
この伴奏者が<小六禮次郎>なのである。
ええ、巧妙が辻、の音楽担当である作曲家で、ほかにも映画やいろいろな番組の音楽を担当している人です。
なんでだろう?と思いましたら、なんとこのお二人「夫婦」なんだそうであります。「ヒエーッ!」という感じですね。

さて、倍賞さんの歌ですが、これまでの印象は「清純」「澄んでいる」といった感じの正統的というか優等生的というか、そういう「うまさ」だったような気がします。もっといえば「硬い」という印象ですかねえ。

たとえば「さよならはダンスの後に」という歌は、いい歌だしうまいなあと思うのだけれど<色気>のようなものがちょっとなあ・・・という印象でした。
なんといいますか「楽譜どうり」というカンジでした。

しかし、今日聞いて、その印象はずっと昔のものなんだ、ということを強く感じました。

高音は伸びやかで清涼感に満ちていて、低音が迫力がありました。
そしてなんといっても「自由自在」というカンジで、その自由自在が技術的に裏打ちされているんだろうけれどそれは隠れていて、自然に歌われていて、それがいい塩梅にこちらに伝わってくるんです。

昔、古川緑波というひとが
「セリフは歌え、歌は語れ」
といったそうですが、まさしく、今日聞いた倍賞千恵子さんはそうでした。

それが歌と手振り身振りも自然でそれでいてカッコよくて、すばらしいなあ、と改めて思ったのでした。
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釈迦 瀬戸内寂聴 新潮文庫

2006-07-11 22:18:43 | 読んだ
手塚治虫の「ブッダ」を読み、身辺の出来事と相俟って「死とは何ぞや」つまり「生きるとは何ぞや」ということを考えるようになってきた。

「死」というのはいつか必ずやってくるものである。その「いつか必ず」ということについて言えば人は平等である。
しかし、いつ死ぬのか、どのように死ぬのか、ということは人それぞれである。
そして死に至るまでの「生」がどのようであるかもひとそれぞれである。

幸福、という概念も人それぞれである。
他人から見れば何一つ不足のない幸せを絵に描いたような生活をしている人が、自分は不幸だ、と思い込んでいたり、ずいぶん苦労をして大変そうな人が、こんなに幸せなことはない、と思っていたりする。

それでは真の生きるとはどういうことなんだろうか?

この物語で「釈迦」は言う

愛する者に執着する心、愛執する心が産む渇愛、これが人間の苦悩の中の最たるものだ。

そして

こうして生きているわれわれ人間の存在そのものが苦なのだということ

ンー、なんて深い言葉だ。そしてそれらを捨てることは非常に難しい。

瀬戸内寂聴の物語らしく、この物語に登場し、苦悩を訴え釈迦に救ってもらう人々の多くは「女性」である。
女性が愛に苦しみ悩みたどりつき、釈迦に救われる話がその女性の告白や懺悔あるいはひとつの物語となって示される。

それはこの物語の語り手「アーナンダ」を愛したプラクリティ、大富豪の娘パターチャーラー、遊女アンバパーリー、悲惨な愛にもまれてきたウッパラヴァーナ、子供を失ったキサーゴータミー、釈迦の母の妹で養母のマハージャパティー、そして釈迦の妻ヤソーダラ。

彼女たちが語る人生や愛執は「スゴイ」
彼女たちの送ってきた人生の重さ凄みが、釈迦に帰依する大きな要因である。

この物語を読んで、釈迦、を知ったとはいえないが、釈迦の教え、というものの一端を垣間見ることができたといえる。

それで、この物語を読んでこれからどう生きようかなんても思わない。
しかし、不幸というものがあるとして、それが身に降りかかってきたときの、対応、というものについてはある程度覚悟ができたといえる。
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小説十八史略(1) 陳舜臣 講談社文庫

2006-07-10 22:10:32 | 読んだ
もう何度読み返しただろう。
そして読み返すごとに深みにはまっていくようである。

今回はなんだか物憂げな気持ちと「ゼヒ読みたい!」という本がなかったことから、なんとなく手にとってしまった。

この物語は中国の十八の正史をまとめた「十八史略」というものを土台として書かれてある。
本来この十八史には入っていない「神話」時代から始まり、中国の歴史、といったって堅苦しい話ではなくて「小説」と名をうっているように、面白い興味深い話が書かれている。

第1巻は、いわゆる神話の時代を軽く紹介をして「殷」から始まり、「周」から春秋時代・戦国時代、そして秦の始皇帝の中国統一までが描かれている。

私は、このあたりの物語が好きである。
人間が己の欲望のためになりふり構わず行動をとる一方、孔子など儒学が起こり、人間の欲望を抑制しようとする人たちが出てくる。
そして、この時代の人間も現代の人間もそんなに変わらないことに気づく。
人間は何が進歩してきたのだろうか?

紀元前から「平和」を求めてきたのに「平和」はいつくるのだろうか。
そして「平和な世の中」というのは住みよい、暮らしやすいものなのだろうか。

また「人間は死ぬ」ということも変わっていない。
いかに死ぬかということはいかに生きるかということであり、そういうことでは、はるか古代の中国の人たちのほうが今よりも覚悟よく生きていたのではないか。

いかに生きるか、ということを人は知るために歴史を学び、哲学に遊ぶ。
ただひたすら医学に頼るのではないのである。

中国の歴史を読むと、いろいろな語の源がわかる。
それもまた楽しい。
ゆっくりと2巻以降も楽しもうと思うのである。

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北上川源流 弓弭(ゆはず)の泉

2006-07-09 21:22:35 | 日々雑感
本日、北上川源流とされる「弓弭(ゆはず)の泉」にいって来ました。
出るときは小雨模様で心配しましたが、あちらは曇天ではあるものの雨は降らず、まあなんとかがんばってきました。

北上川の源流はいろいろな説があるようですが「ここが源流!」と一番最初に手を上げたこの「弓弭(ゆはず)の泉」が源流とされたようです。

ここは坂上田村麿が建立したという「御堂観音」(天台宗北上山新通法寺正覚院)があり、その社の脇の杉の木の根元から水が湧いています。

源義家が前九年の役のとき、水を求めて弓弭(弓の先端で弦をかけるところ)で岩を穿ち探し当てたとされている泉です。

しかし、弓の先端で探すより矢のほうが穿つのにはいいと思うのです。
したがって、弓をいって矢が到達したところから水が湧き出た、というお話のほうが説得力があるとは思うのですが・・・

また、杉の木の根元から水が湧くというのは、よく知られている話であって、源義家がわざわざ探さなくても・・・とまあ、あまり深く追求しないほうがいいわけで、ともかく伝説を持っているところで他の誰もが出をあげる前に「源流」と名乗り出たことが勝因といえるでしょう。

今は「川の駅」なるものが整備され、私が始めて訪れた20年前とは比べ物にならないくらいになりました。
岩手町ではここを何とかして観光にと思っているのでしょうが、HPで「安部瀬時征伐」と「頼時」を「瀬時」としたり「征伐」といかにも安部一族が悪いように書いているのは「なんだかなあ」と思ったりするのです。

源流の帰りによった、道の駅「石神の丘」に隣接する石神の丘美術館の屋外彫刻場のラベンダーはちょうど見ごろでした。
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心機一転

2006-07-08 22:33:08 | 日々雑感
というようなわけで、本日新しいパソコンの設定がほぼ完了、そして部屋の模様替というか片付けもおおよそ終了した。

本日より新しいパソコンでブログを書くことになる。
今までとは違う環境なので、なんだかまだ慣れないが、その慣れないうちがいいのである。

本店ホームページのほうも早速更新をしたいところであるが、明日なんと休日出勤をして「北上川」の源流に行ってくるのだ!
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リンダ リンダ リンダ

2006-07-07 23:16:41 | 観た、聴いた
昨夜、何もすることもなくテレビのチャンネルをいじくっていたら、WOWOWで映画「リンダ リンダ リンダ」というのをやっているというので観てみた。

物語は、女子高校生が文化祭でバンドをする。とまあ、一口で言ってしまえば実もふたもないお話なのだが・・・

青春時代というのは、やっぱり輝いていて、画面で見るのには一番適している。
そして、青春時代というのは、なんだかんだといいながら自分の気持ちに「まっすぐ」なので、さわやかなんだと思う。

青春時代は「無分別」だからこそいいのである。
それなのに、今の時代、大人は、子供や青少年に対して「分別」を求めすぎる。
これは、大人の数が多くて子供たちが少ないということが要因なのかもしれない。

子供に「かまう」ということは「分別」を求めていることではないだろうか?
もっとほったらかしにしておいてもいいのではないか。

それから、子供たちや他人に対して「分別」を求めるくせに、実は自分が一番分別がなかったりする。
秋田の事件で、母が男と部屋にいる間、子供を外に出す、という話があったが、これは子供に分別を求めている割に自分は分別がつかない、ということではないかと思うのである。

また、奈良の高校生の放火事件でも、子供に「分別」を求め、分別から考えると勉強をしなければならないのでそれを求めた挙句のことではなかったか。

大人たちは、平和な世の中で「逆上」している。それを子供たちは真似ているのではないか。

と、楽しい映画を見ながら考えていたのである。
バンドメンバーの4人、べ・ドゥナ、前田亜季、香椎由宇、関根史織。
いずれも、こんな高校生いるだろうなあ、と思わせてくれた。

彼女たちの、一見大人風な考え方であるが実は幼いまっすぐさ、がこの映画の一番の見所だと、思ったのであった。

追伸
 新しいパソコンがやってきて、セッティングとソフトのインストールをしている。このごろのパソコンは簡単にセッティングができて、いい、というか、つまらないというか。
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模様がえ

2006-07-06 22:37:39 | 日々雑感
いよいよ明日、新しいパソコンがやってくる。(ハズ)

ということで、部屋の模様替えを行った。
といっても、パソコンを置くスペースを確保しただけであるが・・・

それでも、なんだか「一新!」という気持ちになるから不思議である。

で、どうもそのなんというか、この「一新!」という気持ち、或いは出来事が、すごく欲しい、ということに気づいたのである。

そういえば、と振り返る必要もなく、近頃はなんだか同じことの繰り返しで、一瞬或いはみせかけで「一新」のような錯覚に陥ることがあるが、実は、それは昨日までのことがただ今日になっただけのことだったりする。

というわけで、なんだかすこし「ウキウキ」した気分なのである。
これが錯覚でなければいいのだけれど・・・
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青春のうた12 1970年代前期④

2006-07-05 22:16:28 | 読んだ
今号は、わりとマイナーというかマニアックな歌である、という印象

1.ベルベット・イースター/荒井由美 1973年11月発表

なぜ、この曲なの?という感じです。

荒井由美が出てきたとき、雑誌なんかでも「すごい新人」がでてきた、と騒いでいたようなきがするが、あまり興味がなかったし、そんなにすごいとも思わなかった。

歌というか音程とかが不安定なのが、気持ちを揺さぶるようであった。
初期の作品では「12月の雨」「ルージュの伝言」あたりから「フーム」とか思い初めて「あの日に帰りたい」で「なかなか」と思った。

そして彼女が提供した歌、たとえば「いちご白書をもう一度」などで、歌うより作家としてのほうがいいのではないだろうか、なんて思ってもいた。

というわけで、荒井由美(松任谷由美)に関して言えば、私の予想というか見込みは全然あたらなかったわけで、こんなにすごい人になるとは・・・

ベルベット・イースター
よくわからないのである。
このころから、詩も曲も、なんだか難しくなった、というか「凝った」つくりになったような気がしている。

2.メリー・ジェーン/つのだ☆ひろ 1971年3月発表

ああ、いい歌だなあ、と思う。
でも、英語の歌詞では歌えない。がんばっても、というかあまりがんばらないけれど、覚えられないのである。

じっくりとこの曲を聴いたこともなく、ましてや、誰かが得意げにカラオケなんか歌っていると聞きほれることもなく、これまですごしてきたような気がする。

で、なぜなんだろう?この歌をカラオケで歌うヤツってあまり好きでないヤツが多いんだよなあ。
それって、この歌のせいでも<つのだ☆ひろ>のせいでもないんだけれど。
なんだか、この歌を好きっていえないのは、これまで私の前でカラオケしたやツララのせいなのだ。

3.人生が二度あれば/井上陽水 1972年3月発表

どうして、この歌なんだろう?
この歌を初めて聴いたとき、すごい冒険、あるいはチャレンジしているなあ、と思った。
まず絶対にといっていいほど、売れるわけがない。とおもったのだ。

という割にはよくラジオから流れてきたので、なにか人をつかむものがあったんだろうなあ。

この歌が流れていた頃、父も母もまだずっと若く、このような思い(人生が二度あれば)なんて思わなかったし、ましてや自分の人生はこれからだ!なんて意気込んでいたので、なんだか沈み込んでしまいそうな詩に「嫌悪感」さえ抱いていたような気がする。

今なら、ナントナクわかるような気がするが、それでも「人生が二度あれば」とは思わない、というか歌わない。

4.マキシーのために/かぐや姫 1972年4月発表

このうたも、どうしたの?こんなマニアックな歌を選んで!というカンジなのである。

作詞は「神田川」や「赤ちょうちん」の喜多条忠である。
南こうせつがこの歌について語っていたのを聞いたことがあるが、喜多条さんのほんとの初期の頃の詩で、実際にあったことを書いたものだという。

女友達が自殺したことの歌である。
でもわりとサラッとした曲で、ジメジメしたところがなく、それはそれでいい。
が、人生が二度あれば、と同じように、積極的に聞いたり歌ったりしようとは思えない歌である。

南こうせつがこの歌を歌うときは「力」が入っているような気がする。

5.八月の濡れた砂/石川セリ 1972年3月発表

こちらは8月というわりにはジメッとした歌である。もっとも「濡れた砂」であるからウェットなカンジではいいのだろうけれど・・・

で、そのジメッとした感じがわりと好きなのである。

この曲は同名の映画の主題歌である。
その映画がよくわからなかった。というか、登場人物たちに感情を移入することができなかった。

ラストのシーンでこの曲が流れてきたときに、なんだかほっとした。

6.戦争を知らない子供たち 1971年2月発表

こういう歌を歌っていいのか?というのが最初の印象だったような気がする。

「戦争を知らない」ということは悪いことなんだろうか、とあらためて思ったりした。というのは「戦争を知らない」というのは私にとってはあたりまえのことだからだ。
そのあたりまえのことをなんで意味深にうたうんだろう?と思ったのである。

そのうち、いろいろなところで、この歌について語られ、我が父も非難めいた発言をした。
「戦争を知らない」ことが良いことであるということでもなく、知っていることが悪いことでもなく、ただ単に「そういうことなんだろう」と深く考えなかった私は父と言い争うこともなく、戦争について考えることもなく、反戦なんて全然思い浮かべることもなく、ただひたすらに、前奏のギター「F-F#-G」というコードを練習しただけである。

したがって、この歌の詩にこめられたものなどには一切の関心をもたず、ただ単に、この前奏と、この歌を歌うとやたら盛り上がる、ということだけで、この歌を歌ってきたのである。

そして、戦争を知らない子供たちは、戦争をとめることもできず、平和な世界や社会を築きあげることもなく、老いていったのである。
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ブログ 大岡玲  モクソカンの首 東郷隆 小説現代6月号

2006-07-04 21:51:46 | 読んだ
ブログ 大岡玲
 
主婦の和代は2年前から「いちゃもんオバさんの生活実感日記」というブログを始めた。
「匿名」であるということから、見るもの聴くもの、あたるをさいわいにとばかりに社会のさまざまなことに「いちゃもん」をブログで発表していた。

最近の記事では、コメントが239、トラックバックは19、訪問者8802人を記録し、人気ブログのひとつになっている。

日ごろの鬱憤をブログで果たし、あるときはある店からお詫びのコメントまで引き出したりしていたが・・・あるとき・・・

ブログによって、一般人の発言が容易になった。(かくいう私もこうして発言をしているのであるが)その発言の責任は、或いは発言者たちの満足感とは、ということをサラっとまとめてある小説である。

ブログならず、インターネットというかこういう場所での発言というのは、当初自己満足得るために、ついでに誰かが少し共感してくれれば、という気持ちで始まるのだろう。(私がそうである)
しかし、その発言が社会的に大きく取り扱われることになった場合、匿名でいいのか、というのは今後大きな社会的課題になるのではないだろうか?
なんて思ったのである。

モクソカンの首 東郷隆

東郷隆の小説は「定吉七番シリーズ」つまりはジェームスボンドの007シリーズのパロディ小説を読んでいた。これ馬鹿馬鹿しくてよかったのだけれど、なんだか中途で終わってしまった気がする。

ということで、今回は、著者が作曲家の團伊玖磨氏を訪ねることから始まる。
團氏のお宅にある「朝鮮牧使之兜」(ちょうせんモクソのかぶと)を見るためである。

さて、そのモクソの兜とは、いわゆる西洋の中世の騎士たちがかぶっていたような鉄の目の部分だけが開いているようなものである。

このモクソの兜はどうして團氏の家にあるのか、それよりなぜ日本にあるのか?
それは太閤秀吉の朝鮮出兵のときまでさかのぼる。
そしていよいよ朝鮮出兵時の物語が語られる。

朝鮮出兵にかかわる小説というのは少ない。それは多分物語として成り立たないのではなく、いろいろなところに配慮しなければならないからかもしれない。
そういう意味ではこの物語は合格している、そして物語としての面白さも十分である。

東郷隆、ちょいと注目である。
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実録 関東昭和軍  田中誠 -モーニング-

2006-07-03 22:12:22 | 読んだ
週刊モーニングの今週号から、5週連続掲載 だそうである。
著者(?)は田中誠である。以前モーニングで「ギャンブルレーサー」を描いていた人。
ギャンブルレーサーというのは、競輪のお話で「関優勝」という主人公が・・・

で、今回は高校野球のお話。
実録、関東昭和軍、となっているが、関東昭和高校野球倶楽部の野球のお話。
といったって
「もちろん田中誠、一筋縄では参りません」
とあるように、ハチャメチャな内容である。

練習で毎日殴られ蹴られている野球部員たちは一流半、しかし、しごいてしごいて強くする。

己に勝て!相手に勝て!人生に勝て!勝てば官軍!勝てば正義!とにかく勝て!
と監督、コーチは叱咤激励する。

殴ったり蹴ったりすることで、技術よりも何よりもまずは何事にも動じない強い精神力の持ち主に鍛え上げ、そして組織に対する絶対的な忠誠心を植えつけ、戦う。

そして
ヘタに知的好奇心なんぞ持つと 自分の立場や現状に疑問を感じるようになってくっから 知らねぇ事は 知らねぇままでいい!
と断じる。

これによって関東昭和は練習試合で「ハッスルプレー」と「ラフプレー」を連発し、強豪校の脅威になるが、そこに思わぬ落とし穴が・・・

田中誠のマンガは、登場人物たちが我執に満ち溢れて、非常に乱暴な言葉を吐きむちゃくちゃな行動を行う。眉をひそめるようである。
しかし、現実はこのようにストレートではないにしろ、相当ひどいものではないか。奇麗事を隠れ蓑にして、平等だの平和だの愛だの助け合いなんていっているが、現実はこのマンガよりひどいんじゃないのか?
そう皮肉っているように思えるのである。

楽しみなマンガが一つ増えた。
田中誠のマンガは、あまり続くと辟易するところもあるので、5週連続くらいがちょうどいいのではないかとも思う、のである。


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パソコン ハードディスククラッシュ

2006-07-02 22:36:35 | 日々雑感
いつも使っているパソコンが動かなくなった。

「次のファイルが存在しないか、または壊れているため windowsを起動できませんでした。
 <windows root>\system32\ntoskrnl.exe.
上記のファイルをインストールし直してください」


というメッセージが出たのである。
しかも、起動時にハードディスクらしいものが「カタ、カタ」と音がするのである。これは以前のハードディスククラッシュと同じ現象である。

パソコンについての「師匠」に診断と復旧をお願いした。
師匠は、いろいろと回復を試みてくれたが、「Cドライブ」を覗くことができず、やっぱりハードディスクがいかれている、という結論に達した。

これで、何度目のハードディスククラッシュになるんだろう?!
これまでの経験上から、データを失うことは避けられたが、パソコンのソフト類を復旧することはちょいと難しい。(最近、ハードディスクのバックアップを怠っていたため)

直接的な原因は不明であるが、私自身としては壊れたパソコンに仕事をさせすぎた、と反省をしている。
サブノートとして買った「Dyna Book SS」なのだが、メインとなるべきパソコンより性能がよいということから、多くのソフトをぶっこみ使っていた。

もう限界であろうと思い、今度新しくデスクトップのパソコンを買うことを決めたばかりであった。

ということで、今は本来メインとして使おうと思っていたパソコンを使ってしのいでいる。しかし、このパソコンでは嘉壽家堂のホームページの更新ができないので、新しいパソコンがくるまでは、ブログのみ、ということになってしまった。

だいぶ滅入っている今日この頃なのである。

追伸
 本日、瀬戸内寂聴の「釈迦」完読。
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