読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

釈迦 瀬戸内寂聴 新潮文庫

2006-07-11 22:18:43 | 読んだ
手塚治虫の「ブッダ」を読み、身辺の出来事と相俟って「死とは何ぞや」つまり「生きるとは何ぞや」ということを考えるようになってきた。

「死」というのはいつか必ずやってくるものである。その「いつか必ず」ということについて言えば人は平等である。
しかし、いつ死ぬのか、どのように死ぬのか、ということは人それぞれである。
そして死に至るまでの「生」がどのようであるかもひとそれぞれである。

幸福、という概念も人それぞれである。
他人から見れば何一つ不足のない幸せを絵に描いたような生活をしている人が、自分は不幸だ、と思い込んでいたり、ずいぶん苦労をして大変そうな人が、こんなに幸せなことはない、と思っていたりする。

それでは真の生きるとはどういうことなんだろうか?

この物語で「釈迦」は言う

愛する者に執着する心、愛執する心が産む渇愛、これが人間の苦悩の中の最たるものだ。

そして

こうして生きているわれわれ人間の存在そのものが苦なのだということ

ンー、なんて深い言葉だ。そしてそれらを捨てることは非常に難しい。

瀬戸内寂聴の物語らしく、この物語に登場し、苦悩を訴え釈迦に救ってもらう人々の多くは「女性」である。
女性が愛に苦しみ悩みたどりつき、釈迦に救われる話がその女性の告白や懺悔あるいはひとつの物語となって示される。

それはこの物語の語り手「アーナンダ」を愛したプラクリティ、大富豪の娘パターチャーラー、遊女アンバパーリー、悲惨な愛にもまれてきたウッパラヴァーナ、子供を失ったキサーゴータミー、釈迦の母の妹で養母のマハージャパティー、そして釈迦の妻ヤソーダラ。

彼女たちが語る人生や愛執は「スゴイ」
彼女たちの送ってきた人生の重さ凄みが、釈迦に帰依する大きな要因である。

この物語を読んで、釈迦、を知ったとはいえないが、釈迦の教え、というものの一端を垣間見ることができたといえる。

それで、この物語を読んでこれからどう生きようかなんても思わない。
しかし、不幸というものがあるとして、それが身に降りかかってきたときの、対応、というものについてはある程度覚悟ができたといえる。
コメント (2)
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