「代行返上」という題名の意味さえ知らなかった。
幸田真音の小説ゆえ面白いだろうということで読んでみたのである。
現代社会は、われわれの知らないところで、重要なことが決定され実施されている。
ということを実感できる小説である。
特に、経済の中でも「金融」に関する部分は複雑怪奇で、そして直接に関係したことではないので、無関心でもあり、難しいので知ろうともしないでいるのである。
その辺のところを「うまく」やっている連中がいる。
うまくやろうが失敗しようが、こちとらの知ったことではないが、しくじりの帳尻を広く国民に求めることだけはしないで欲しいと思うのである。
さて「代行返上」であるが、つまりは「年金」について企業が国に代って行っていた事務を国に返すこと、らしい。
それで事務の返上と共にその財源もあわせて返上する。
で、財源を作り出すために「株」を放出せざるを得ない。ということは株の流出で株価が下がり・・・
というように、延々とその影響は続いていく、らしい。
現代社会は、あらゆるものが絡み合って機能しているので、何かを変えようとするとその影響は多方面、広範囲に及ぶ。
影響は良い影響と悪い影響があるため、なかなか、決定することができない、また決定しても実施が難しかったりする。
そのあたりを、この物語は描いている。
現代の国の組織や制度は、ある「秩序」に基づいて築かれている、と思うのである。しかし、その秩序はすでに崩壊している、崩壊しているにもかかわらず組織や制度が存在している。
このことが、現代の混迷の原因である。と考える。
したがって、新しい秩序(つまり以前の秩序より大まかで緩やかなもの)にあわせて組織や制度を作り直すか、それとも以前の秩序に戻すか、どちらかが必要なのである。
ホリエモンの事件について読売新聞では、いわゆる有識者たちに取材し連載をしているが、彼らの主張は「秩序」を取りもどせ、ということである。秩序の崩壊のスピードが速すぎる、したがって、組織や制度の破綻が生じて、あのような事件がおきる、というのである。
それは一面正しいかもしれないが、秩序を緩やかなものにしてきた或いは秩序を旧態の如く保つことができなかったことについて、いまさらどうしようというのだろうか?
この物語の最後に
「そう、僕ら、国民一人ひとり、全員の肩にかかっている・・・」
ということを、認識しなければ、秩序を取り戻すことも、組織や制度を新たにすることもできない。
国民の考え方が広がっている今、何を普遍とするのか、問題である。
昔は「道」が細いゆえ、すれ違うとき相手を確認しなければならなかった、また自分は相手に対して危害を与えるものではないことを表さなければならなかった。でないと、警戒のあまり、逆に危害を与えられるかもしれない。
そこで「礼」が存在した。「礼」とは危害を与えないことを証明する手続きである。
しかし、現代は道幅が広がりしかもすれ違うスピードが速くなった。或いはこちら側とあちら側が明確に区切られていたりする。
したがって物理的に衝突しなければ「礼」は不要になった。
こういう世の中で、何を秩序の柱とすべきなのか。
第2次世界大戦の戦争に負けて、というより、戦争に進んでいるときから、日本人が求めていたのは、現代における「自由」だったのだろうか。
この物語を読み、あたりを見回して「暗澹」たる気持ちでいるのである。
幸田真音の小説ゆえ面白いだろうということで読んでみたのである。
現代社会は、われわれの知らないところで、重要なことが決定され実施されている。
ということを実感できる小説である。
特に、経済の中でも「金融」に関する部分は複雑怪奇で、そして直接に関係したことではないので、無関心でもあり、難しいので知ろうともしないでいるのである。
その辺のところを「うまく」やっている連中がいる。
うまくやろうが失敗しようが、こちとらの知ったことではないが、しくじりの帳尻を広く国民に求めることだけはしないで欲しいと思うのである。
さて「代行返上」であるが、つまりは「年金」について企業が国に代って行っていた事務を国に返すこと、らしい。
それで事務の返上と共にその財源もあわせて返上する。
で、財源を作り出すために「株」を放出せざるを得ない。ということは株の流出で株価が下がり・・・
というように、延々とその影響は続いていく、らしい。
現代社会は、あらゆるものが絡み合って機能しているので、何かを変えようとするとその影響は多方面、広範囲に及ぶ。
影響は良い影響と悪い影響があるため、なかなか、決定することができない、また決定しても実施が難しかったりする。
そのあたりを、この物語は描いている。
現代の国の組織や制度は、ある「秩序」に基づいて築かれている、と思うのである。しかし、その秩序はすでに崩壊している、崩壊しているにもかかわらず組織や制度が存在している。
このことが、現代の混迷の原因である。と考える。
したがって、新しい秩序(つまり以前の秩序より大まかで緩やかなもの)にあわせて組織や制度を作り直すか、それとも以前の秩序に戻すか、どちらかが必要なのである。
ホリエモンの事件について読売新聞では、いわゆる有識者たちに取材し連載をしているが、彼らの主張は「秩序」を取りもどせ、ということである。秩序の崩壊のスピードが速すぎる、したがって、組織や制度の破綻が生じて、あのような事件がおきる、というのである。
それは一面正しいかもしれないが、秩序を緩やかなものにしてきた或いは秩序を旧態の如く保つことができなかったことについて、いまさらどうしようというのだろうか?
この物語の最後に
「そう、僕ら、国民一人ひとり、全員の肩にかかっている・・・」
ということを、認識しなければ、秩序を取り戻すことも、組織や制度を新たにすることもできない。
国民の考え方が広がっている今、何を普遍とするのか、問題である。
昔は「道」が細いゆえ、すれ違うとき相手を確認しなければならなかった、また自分は相手に対して危害を与えるものではないことを表さなければならなかった。でないと、警戒のあまり、逆に危害を与えられるかもしれない。
そこで「礼」が存在した。「礼」とは危害を与えないことを証明する手続きである。
しかし、現代は道幅が広がりしかもすれ違うスピードが速くなった。或いはこちら側とあちら側が明確に区切られていたりする。
したがって物理的に衝突しなければ「礼」は不要になった。
こういう世の中で、何を秩序の柱とすべきなのか。
第2次世界大戦の戦争に負けて、というより、戦争に進んでいるときから、日本人が求めていたのは、現代における「自由」だったのだろうか。
この物語を読み、あたりを見回して「暗澹」たる気持ちでいるのである。