読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

ローマ人の物語20 悪名高き皇帝たち4 塩野七生 新潮文庫

2005-11-07 23:23:09 | 読んだ
いよいよ「ネロ」です。
「悪名高き」といえばネロ。
といっても、なにが悪名高きにさせたのかはよくわかっていない。
ネロは16歳10ヶ月で皇帝に就任した。

著者は言う
皇帝の責務の二大重要事は「安全」と「食」の確保である
ネロが皇帝に就任した当時はこの二つとも保証されていた

とも。
だから、若い皇帝をローマ市民は歓迎した。

つまり、
人間は、問題がなければ不満を感じないというわけではない。枝葉末節なことであろうと問題を探し出しては、それを不満の種にするのは人間性の現実である。
ということなのだそうだ。

今の日本でも、日常生活を送るうえでの「安全と食の確保」には大きな不満はないと思われるが、そのことへの感謝などは一顧だにされず、多くの不満が渦巻いている。
そういうときには「気分一新」を願うものらしい。

小泉さんが歓迎されたのもそういうことかも知れず、今もって支持率が下がらないのは気分を一新させてくれるのではないか?という期待が大きいからではないか、なんて思ってしまう。
しかし、人間は気分を一新することは望んでも、暮らしを新たにすることはあまり望まないらしい。

したがって、ネロに期待したのは「気分の一新」だった。

セネカがネロを補佐していた。
そしてその政治方針は「アウグストゥスの政治」であった。
しかし、著者は問う。
アウグストゥスの政治の本質は<デリケートなフィクション>であるが、これを機能させていくには冷徹さが必要。それが充分であったか?
答えは「No」である。

セネカはネロに対して「寛容について」という書を著し寛容の精神を説いた。しかし、著者は寛容であり続けるには絶対の必要条件として冷徹が必要だとしている。
そして
(セネカという)何ともスゴい教師に恵まれていたと言うしかないネロだが、教育の成果とは、教える側の資質よりも教わる側の資質に左右されるものである
としている。

ネロが悪名高き皇帝となったのは、多くの要因があるが、若いことが最も大きなものだったような気がする。
若いということは「口出し」をする者が増え「言うことを聴かない」者も増え「ちやほやする」者が増え、なにが正しくなにが誤りなのかわからなくなることである。
そこに「寛容」の精神では、道をあやまるのは自明の理ではないか。

ということもその結果がわかっているからいえるのであってねえ。

ネロは結局「安全」と「食」を保証できなくなり失脚する。
そしてローマ市民は「アウグストゥス」の血に訣別した。しかし、帝政とは訣別しなった。

このローマ人の物語を読むと「政治」とは何か?ということを改めて考えさせられるが、政治とはもしかしたら究極の「パーソナリティ」によるものではないだろうか?なんて思い始めている。
誰もが満足できる政治はありえない、ゆえに「デリケートなフィクション」であらねばならず、それに納得性を付け加えるには「パーソナリティ」がもっとも大きなファクターになるんではないか。
なんてね。

ローマ人の物語はマダマダ続くらしい。
コメント (2)
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