尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

都立高校(普通科学年制)の男女別定員制をどう考えるか

2021年06月13日 22時55分54秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 東京の都立高校で実施されている「男女別定員」を廃止すべきだという書名運動が行われている。6月9日に記者会見が行われて報道された。この問題をどう考えるべきだろうか。僕はいつもなら大体都教委を批判する記事を書くことが多いが、実はこの問題に関しては都立高校(普通科学年制)の男女別定員制はやむを得ないのではないかと思う。以下でその事を説明するが、まず東京の高校入試制制度から始めることになる。
(記者会見のようす)
 新聞では「都立高校の男女別定員廃止を」と見出しを付けるが、実はもともと商業、工業などの専門学科の定員は性別に関係ない。普通科でも単位制高校は男女別ではない。だから「普通科高校単位制やコース制以外の学年制高校)」だけが男女別定員なのである。どこかの高校では「男女別の合格最低点の違い」が270点以上もあったと報道された。1000点満点での話だが、100点満点の5教科のテストと中学の調査書を換算して1000点満点にしているのである。

 過去には様々な方法があったが、現在は基本的には「テスト700点」+「調査書300点」になっている。つまり、500点のテストを700点に換算する(1.4倍する)のである。一方、調査書は、テストをしない教科の評定を2倍して合計する。つまり、「オール5」の生徒は、5教科×5+4教科×5×2=65になり、それを300点満点に換算する。その合計点を上から順位付けする。だから、実際のテスト点で200点も離れているわけではない。テストのケアレスミスや実技教科の成績が換算の結果、大きな違いになるのである。
(書名サイト)
 東京の高校入試には全国のどことも違う特殊な要因がある。私立高校が多いのである。だから、都立高校は自分の都合だけで定員を決められない。毎年東京都と「一般財団法人東京私立中学高等学校協会」との間で、「公私連絡協議会」を開いている。今年度に関しては「令和3年度高等学校就学計画について」という文書が発表されている。それによると、都内公立中卒業予定者7万3062人、高校進学率を95%、国立・他県私立・高専等進学者を3600人とする。残りの6万5900人の内、2万6700人を私立が、3万9200人が都立が受け入れるとしている。

 何でそこまでするのか。高等教育である大学なら浪人するのは珍しくないし、地方から来て下宿して大学に通ったりする。しかし、高校の場合(離島などの特別な場合を除き)、大部分の中学生は自宅から通えるどこかの高校に進学したいと考えている。浪人して過年度で高校へ進学する人は非常に少ないだろう。だから、「どこの高校にも入れない」という生徒を出さないようにする必要がある。少子化で都立高校には空き教室があるだろうから、都立でもっと受け入れることも可能だろう。だがその場合、私立高校の経営に大きな影響を与えるので、公私間で細かく受け入れ生徒数を決めるわけである。

 私立高校は21世紀になって、中高一貫化共学化して名前も変えた学校が多い。(例えば、日本橋女学館は2018年度より開智日本橋学園という共学の中高一貫校になった。)それでも男子校、女子校は数多い。進学実績が高い難関校として知られる「御三家」(開成、麻布、武蔵)、「女子御三家」(桜蔭学園・女子学院・雙葉学園)はどれも別学校である。名前に「女」が入っている神田女学園、江戸川女子、滝野川女子学園、藤村女子、潤徳女子、蒲田女子などは当然女子校。私立高校の男女別定員は出ていないが、全体として女子校の方が多いのは間違いない。

 都立高校には「男女別定員制の緩和」という不思議な仕組みがある。「男女別の募集人員の各9割に相当する人員までを男女別の総合成績の順により決定した後、募集人員の1割に相当する人員を、男女合同の総合成績の順により決定」するというのである。男女別定員といいながら、合格線上の生徒は性別に関係なく決めるというのである。区部32校、多摩地区10校が採用している。都立高だって、出来れば成績の良い生徒を合格させたいのである。「男女別定員」とは大乗的見地に立って私学のために枠を空けているのである。
(男女別合格点には差がある)
 これはつまり「女子の成績の方が良い」ということだろう。戦後直後はまだ女子の高校進学率が高くなかった。その時代には「女子枠」を確保する意味もあったらしいが、70年頃にはもう男女とも概ね高校までは行く時代になった。現在は「絶対評価」や「観点別評価」を行っているから、中学の評定も提出物をちゃんと出したりする女子が良くなりがち。発達段階的に第二次性徴は女子の方が早いのは常識で、中学段階までは国語や英語などの成績も良いことが多いと思う。だから、男女別で合格判定を行うと、割を食うのは女子のことが多いと思われる。
 
 そこだけを見れば「女性差別」にも見えるが、一部の医学部入試問題と違って秘かに減点しているわけではない。合格判定方式はすべてインターネットで公開されている。子どもが生まれる時には性別を選べないから、「男子の親」と「女子の親」は同数である。女子の親からすれば「男女別定員」で割を食うのは納得できないかもしれないが、男子の親からすれば「必ず多数の男子生徒が都立高校に落ちる」のはもっと納得できないだろう。中学段階では「出来るだけ行き場のない生徒を出さない」が優先してもやむを得ないと思う。

 ただ、僕はこのままの制度で何の問題もないとは思っていない。まずは「男女別定員」とはいいながら、日比谷、西、立川等の進学指導重点校は大体「男子が10人多い」定員となっている。これは「合理的範囲」を越えるのではないか。多くても「各クラス1名の差」ぐらいだと思うが、特に進学指導重点校で女子合格者が少ないと大学進学でも差が出てしまうわけで、「男女別定員」は許されないと考える余地はある。

 また「推薦」でも男女別定員がある。推薦合格者は「定員の20%以内」なので、男女別定員数が自動的に波及するんだろう。しかし、これは本来おかしいと思う。もっとも普通科高校に推薦入学制度があること自体がおかしいが。「推薦入学」は「どうしてもその高校で学びたい」という強い意欲を持つ生徒を取りたいわけである。そういうタテマエからすれば、定員に性別が入ってくるのは間違っている。推薦選抜では性別に関係ないように変更する必要がある。

 ところで、実際には都立を落ちた女子は、もともと冒険と言われていて「私立の押さえ」を用意していただろう。「都立を落ちたら入ります」と内約を得ているわけである。そうやって都立、私立で相互依存しながら、高校受験が成立している。性別ではなく、すべてを成績で判断すべきという考えも判らないではないが、今度はそれは「成績第一主義」になる。成績が悪くて都立も私立も落ちてしまう中学生(特に男子)を「差別」してしまわないか。両者の兼ね合いの問題だと思っている。
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映画「利休」、権力者と文化人ー勅使河原宏監督の映画③

2021年06月11日 23時10分15秒 |  〃  (日本の映画監督)
 勅使河原宏監督は、1972年の「サマー・ソルジャー」で一端劇映画製作を離れる。1980年には草月流家元になったし、もう二度と映画は作らないのかと思っていたら、1989年に突然「利休」という大作を発表した。3年後の宮沢りえ主演の「豪姫」(1992)が最後の映画になった。どちらも戦国時代を舞台にした重厚な歴史劇である。同時代に見たのはこの2本だけである。今回「利休」を再見して、今もなお意味を持つ現代を描く映画だと思ってしまった。

 1989年には熊井啓監督の「千利休 本學坊遺文」も作られ、千利休(1522~1991)の競作となった。これは利休没後400年を控えて、茶道界の協力や盛り上がりがあったためである。勅使河原監督の「利休」は、野上弥生子秀吉と利休」の映画化で、モントリオール映画祭最優秀芸術貢献章キネ旬7位。一方「千利休 本學坊遺文」は井上靖本覚坊遺文」の映画化で、架空の弟子、本覚坊(映画化に際して本學坊に変更)の目から見た利休を描いた。ヴェネツィア映画祭銀獅子賞キネ旬3位。つまり「千利休」の方が「利休」より若干評価が高かったのである。

 当時の僕の評価も同じだった。「千利休」は熊井監督らしく内省的に問い詰めていく厳しさがテーマに合っていた。一方「利休」は登場人物のキャスティングを見ても、豪華絢爛たる戦国バロック。目指すべき地点が違っていて、まさに勅使河原宏らしい総合的芸術プロデューサーの作品なのである。撮影では実際に当時の茶器や掛け軸が使われ、俳優、スタッフの緊張感は大変なものだったという。大々的なセットに加えて、彦根城、三渓園、仁和寺などでロケされ、目で見る国宝みたいな映像。そこで「権力者と文化人」をめぐる深刻な葛藤が繰り広げられる。
(「黄金の茶室」の秀吉と利休)
 ここでちょっと両作のキャストを比較しておきたい。最初が「利休」で、( )内が「千利休」。
千利休三國連太郎(三船敏郎)、豊臣秀吉山崎努(芦田伸介)、織田信長松本幸四郎(現・松本白鴎)徳川家康中村吉右衛門北政所岸田今日子大政所北林谷栄豊臣秀長田村亮茶々(淀君)=山口小夜子石田三成坂東八十助(故・10代目坂東三津五郎)、古田織部嵐圭史(加藤剛)、細川忠興中村橋之助(現・中村芝翫)、古渓和尚財津一郎(東野栄治郎)、山上宗二井川比佐志(上条恒彦)、りき(利休夫人)=三田佳子…。

 信長、家康、秀長、北政所、淀君、三成などは「千利休」には出て来ないか、出ていても知名度のある俳優ではない。信長の弟の織田有楽斎は、「利休」では細川護熙がカメオ出演。この時点では熊本県知事で、セリフはない。「千利休」では萬屋錦之介が演じて、最後の映画出演の大役となっている。親王役で10代の中村獅童も出ている。歌舞伎界を中心に驚くべきオールスターキャストになっている。歴史上の重要人物を散りばめて、見事にまとまっている。名古屋の高校卒業の赤瀬川原平が脚本に参加、秀吉が妻や母親と名古屋弁でしゃべりまくるのがおかしい。また勅使河原映画の常だが、武満徹の音楽がとにかく素晴らしくて印象深い。
(「千利休」の三船敏郎と奥田瑛二)
 利休は秀吉に取りたてられ、権力者と上手くやっていたが、前田玄以と関係が悪くなる。小田原攻めを控えて、秀吉は伊達政宗取り込みに利休が必要だった。しかし、秀吉の勘気を被って小田原にいた元の弟子、山上宗二を秀吉に取りなすも、頑固な宗二は秀吉の怒りを買って惨殺される。見殺しにしたと非難する向きもありながら、秀吉とは上手く付き合っていたが、豊臣秀長の死後に次第に権力から遠ざけられていく。「唐御陣は明智攻めのようにはいくまい」とうっかりもらして、秀吉の怒りを買うことになる。そんな折に大徳寺山門の木像事件が利休の立場を悪くする。
(淀君の山口小夜子)
 この辺りは歴史上の通説に従って進んでいる。豊臣政権内で秀長=北政所=利休ラインから、淀君=石田三成ラインに権力が移り変わるわけである。そんな中、狭い茶室の中で、秀吉と利休が対決するラスト近くの緊迫感は見る者の心に強いインパクト残す。それは権力者に立ち向かう文化人の志である。「唐御陣」、つまりあの無謀な朝鮮侵略戦争は、多くの大名が内心反対なのに誰もが口をつぐんでいる。「明智攻め」は準備なく臨んで勝った、「唐御陣」は準備万端で臨むから勝つに決まっていると秀吉は言う。利休は「外(と)つ国のことでございますれば」と外国侵略であるから簡単にいくものではないと正論で立ち向かって敗れる。

 利休は敗れて、謝罪も拒否して死を賜る。この歴史解釈は不動の定説ではない。しかし、この映画を見ていると、そんなことはどうでもいいと思える。三國連太郎の覚悟を決めた姿に、今でも勇気を与えられる。これほど一身を賭して対外戦争に反対した人がいたことを誇りに思える。学術会議会員拒否問題を、新型コロナウイルス対策を、「集団的自衛権の部分的解禁」を…思わずにはいられない。残念なことに、今も「利休」という映画のテーマが過去のものになっていない。現代の問題意識につながっている。思えば、2022年は千利休生誕500年だ。来年は「アートの力」を再確認するためにも、この映画をデジタル化して大々的に上映して欲しいと思う。
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「サマー・ソルジャー」、脱走米兵のリアルー勅使河原宏監督の映画②

2021年06月10日 23時04分04秒 |  〃  (日本の映画監督)
 勅使河原宏監督の1972年作品「サマー・ソルジャー」は、キネ旬ベストテン9位に選出されている。しかし、その割に知られてないし、見た人も多くないだろう。勅使河原監督の長編劇映画7本中、唯一ウィキペディアの項目がないぐらいだ(2021/06/10現在)。公開から半世紀近く経って忘れられたということではなく、公開当時もそんな感じだった。当時僕は高校2年生で、すでに映画ファンだったが、この映画には気付かなかった。翌年のベストテン号を見て、そんな映画があったんだと思った。僕が見たのも大分後のことである。

 「サマー・ソルジャー」はヴェトナム戦争の時代に、米軍基地を脱走した米兵をドキュメンタリー・タッチで描く映画である。日本(本土)の米軍基地は後方支援の役割を担っていて、ヴェトナムへ送られる米兵や休暇等で訪れた米兵などが多数いた。(沖縄の基地からは直接北ヴェトナムに出撃していた。)米兵の脱走はフィクションではなく、実際に横須賀に入港した空母イントレピッドから4人の米兵が脱走したケースは有名だ。彼らはベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)系の支援を受けて、ソ連からスウェーデンに亡命した。

 また、基地の周りの酒場や風俗店には多くの米兵が訪れたが、中にはそのまま基地へ戻らない兵士もいた。この映画でも冒頭で岩国基地の米兵ジムが礼子(李麗仙)に匿われている。礼子は明らかに米兵相手の飲み屋の女だが、ジムを溺愛しているらしい。警察が尋ねて来るなど不安が募って、脱走兵援助組織を頼る。これは明らかにベ平連系の「ジャテック」をモデルにしている。そこで教えられて東京に出てきて、ジムは様々な家庭を転々とする。ギターが得意で自分の作った歌を披露することもあるし、社長の知り合いと偽って自動車修理会社で働くこともある。しかし、常に周りの目に怯えていて、日本語が全く出来ないジムに安らぎはない。

 勅使河原監督の長編劇映画では「サマー・ソルジャー」だけがオリジナル脚本である。しかも日本人の脚本家ではなく、日本文学研究者のジョン・ネイスン(John Nathan)が書いている。ネイスンは三島由紀夫大江健三郎の翻訳者として知られていた。「三島由紀夫ーある評伝」(1974)の著者でもある。(翻訳が出た後で、三島未亡人の怒りを買って絶版になったが、没後に新版が出た。)そんなネイスンが何故シナリオを書いたのか。「ニッポン放浪記 ジョン・ネイスン回想録」という本に「サマー・ソルジャー」という章があるが、僕はまだ読んでない。
(ジョン・ネイスン)
 脱走米兵支援運動に関しては、いくつかの証言がある。関谷滋・坂元良江編「となりに脱走兵がいた時代」(思想の科学社)や阿奈井文彦「ベ平連と脱走米兵」(文春新書)などである。それらは支援運動の負の側面にも多少は触れているが、基本的には「人道的な市民運動」として書かれている。僕も基本的には同じ認識を持っている。戦争に負けて20数年の時点で、多くの日本人は二度と戦争は嫌だ、戦争が嫌で逃げてきた米兵を何とか助けたいと思っていた。多くの日本人が米兵を善意のみで匿ったことは誇るべき歴史だと思っている。

 しかし、それは「基本的前提」である。実際にはそんなにうまく行ったことばかりではない。今とは全く違ってほとんど外国へ行ったことのない時代だし、米兵だって日本の知識はほとんどない。異文化理解なんて発想もない時代に、双方が突然のカルチャーショックに見舞われた。特にもう一人の米兵ダリルは性的な飢餓に耐えられず女と知り合いたいと思う。観世栄夫中村玉緒夫妻では万が一を恐れて妻を実家に帰す。小沢昭一黒柳徹子夫妻では深夜に帰ってきたダリルが、妻に襲いかかる。黒柳徹子の映画出演は珍しいので大変貴重なシーンだ。

 ジムはその後訪ねてきた礼子と彼女の実家に逃げる。さらに逃げだし、長距離トラックの運転手(加藤武)に拾われて京都を目指す。運転手は小田原で娼婦をあてがってくれる。京都でも苦労し喫茶店で一人でいると米兵支援の女子学生と出会う。結局岩国に帰って基地に出頭する道を選ぶ。支援組織には「NO THANKS」と書き残す。ジョン・ネイスンは一体何を訴えたいのだろうか。脱走兵や支援運動の否定ではないだろう。善意で行動してもカルチャーギャップがあるということか。米兵も支援日本人も相互に無理解な様子が映像に残されている。
 
 当時の日本人も、どうも毎日米の飯に魚のおかずである。米兵も嫌になるはずだ。今も米飯にあじの開きという夕飯もあるだろうが、毎日魚じゃないだろう。特に子どものいる家ではハンバーグとかポーク・ジンジャーとか肉の方が多いと思う。中華もイタリアンもあるし、もっと珍しい外国料理も食べている。米兵の方だってスシぐらい食べるだろう。それを思うと、当時の中産階級が受け入れているんだろうが、ずいぶん半世紀前はまだまだ画一的な暮らし方だったなあと思う。そういう意味での時代の証言でもある。

 1972年の日本映画は、僕には「旅の重さ」(斉藤耕一監督)の年だった。キネ旬ベスト1は「忍ぶ川」(熊井啓監督)で、評判が高かったので僕は初めて東宝の封切館に行った。また日活ロマンポルノの評判が聞こえてきて、前年の「八月の濡れた砂」が良かった藤田敏八監督の「八月はエロスの匂い」を見に行ったりした。(ホントは成人指定だからダメなんだけど。)神代辰巳監督の「一条さゆり・濡れた欲情」はさすがに封切りでは見てないが、翌年銀座並木座で見て凄い傑作だと感嘆した。主に洋画を見てた時期で、「サマー・ソルジャー」に関心が向くわけない。
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「十二人の写真家」「アントニー・ガウディ」ー勅使河原宏監督の映画①

2021年06月09日 22時22分21秒 |  〃  (日本の映画監督)
 勅使河原宏(てしがはら・ひろし、1927~2001)の没後20年ということで、シネマヴェーラ渋谷で特集上映が行われている。僕は劇映画は見ているが、記録映画は見ていないから貴重な機会だと思って、この機会に見ようと思った。全部終わってからだと大変だから、まず記録映画に絞って書いておきたい。勅使河原宏は1964年に作った映画「砂の女」で世界的に評価された。3年前に見直したときに、「映画「砂の女」(勅使河原宏監督)を見る」(2018.4.24)を書いた。
(勅使河原宏監督)
 その時にこう書いた。「(勅使河原宏は)華道や映画だけでなく、舞台美術や陶芸など総合的な芸術活動を展開した。戦後日本では破格のスケールの芸術家だったけれど、「前衛」的な芸術運動のプロデューサーという意味でも非常に重要な役割をになっていた。映画監督として、あるいは他の活動についても、全体像の再評価が必要じゃないかと思う。 」今回は2週間だけの映画上映だが、来たるべき生誕100年には本格的な大回顧展を望みたい。また前衛芸術運動のプロデューサーとしての関連分野の研究進展も望まれる。

 1960年代の日本映画界では「会社システム」によって多くの娯楽映画が量産されていた。しかし、会社システムの外部で映画を製作し、ベストワンになった映画監督が二人いる。それが「不良少年」(1961)の羽仁進と「砂の女」(1964)の勅使河原宏である。二人とも本人の才能も図抜けているが、「本人よりも親が有名」だった。羽仁五郎・羽仁説子勅使河原蒼風と言われても、今ではピンと来ないかもしれないが当時は誰でも知っていたビッグネームだ。
(勅使河原蒼風)
 勅使河原蒼風(1900~1979)は華道の草月流を一代で築いた人物である。世界に生け花を広め、独自の前衛的作風で知られた。彫刻も多く作っていて、それは「いのちー蒼風の彫刻」(1962)という短編で描かれている。また華道作品や教室の様子は「いけばな」(1956)というカラー短編に残された。この映画は草月流と父親の宣伝映画みたいなものだけど、東京の風景や高度成長直前に華道を学ぶ人々を記録していて非常に興味深い映像だ。

 それ以前に「北齊」(1953)を作っている。これは美術評論家・詩人の瀧口修造が製作していたが資金不足で中断したフィルムを勅使河原宏が完成させたという。葛飾北斎の作品をクローズアップして人物を大きくするなど興味深い。キネマ旬報ベストテン文化映画部門で2位になった。その後1955年に「十二人の写真家」を作った。写真雑誌「フォトアート」創刊6年を記念して製作された映画で、題名通り12人の写真家を追っている。木村伊兵衛三木淳大竹省二秋山庄太郎林忠彦真継不二夫早田雄二濱谷浩稲村隆正渡辺義雄田村茂土門拳である。
(「十二人の写真家」)
 全員は知らないけれど、木村伊兵衛、土門拳、秋山庄太郎、大竹省二らの超有名な写真家の映像が残されている。49分で12人だから、1人4分ほどだから短すぎるけれど、それでも貴重である。三木淳は草月流を撮影していて、宏の妹で後の2代目家元勅使河原霞の若き日の姿が映されている。木村伊兵衛は下町を歩いてスナップを撮りまくる。大竹省二は鵠沼海岸でモデル撮影。林忠彦武者小路実篤の家を訪ねて写真を撮る。土門拳は家から出て子どもたちを撮る。僕にはカメラ機種は判らないけれど、こんな貴重な歴史的映像が残されていたのかと驚いた。

 その後1959年に父親の米国訪問に同行して海外へ行く。当時は映画撮影どころか、海外旅行も普通は出来ない時代だ。それが可能なんだから、やはり恵まれている。その時に今ではホセ・トーレスと表記されるボクサーと知り合い、彼の練習風景を撮影した。それが「ホゼー・トレス」(1959)で、後に「ホゼー・トレスPartⅡ」(1965)も作られた。この人は非常に有名なボクサーということでウィキペディアに経歴が載っている。モノクロのスタイリッシュな映像に、武満徹の素晴らしい音楽が被る。検索すると、武満の音楽をYouTubeで聞くことが出来るが、大変な迫力だ。
(「ホゼー・トレス」)
 1958年に赤坂の草月会館を舞台に草月アートセンターが作られた。1950年代末から60年にかけて、日本では各ジャンルで「前衛アート」が花開いた。現代音楽、ジャズ、実験映画、演劇、美術、舞踏など幅広い分野で多くの作品が発表された。海外からの招待者も多かった。僕は時代的に見ていないが、70年代にはまだ草月会館でコンサートなどが行われていて、行ったことはある。それら「前衛」のアーティストはお互いに知り合って影響を与え合ったが、それには草月アートセンターの果たした役割が大きい。勅使河原宏の大きな仕事と言って良い。

 その後、60年代は主に安部公房原作の映画を作る。その後映画を離れて陶芸に打ち込んだりしたが、1979年に父が死に、後を継いだ妹の霞が1年で急死したため、1980年に3代目家元を継ぐことになった。本当は大組織のトップは嫌だったかもしれないが、華道を越えた総合芸術をプロデュースした意義は大きいと思う。そんな中で1984年に記録映画「アントニー・ガウディ」を作っている。今では知名度の高いガウディとサグラダ・ファミリア教会だが、その頃はまだ知る人ぞ知る存在だったと思う。1992年のバルセロナ五輪をきっかけに知名度が上昇したと思う。僕は当時この映画を見なかったが、下からあおる映像が迫力。ガウディの他の建築も多く取り上げられ、非常に興味深いアートフィルムだった。
(「アントニー・ガウディ」)
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教科「情報」の大学入学共通テストに反対する

2021年06月08日 23時21分14秒 |  〃 (教育行政)
 高校に「情報」という教科がある。そんな教科は知らないという人も多いだろう。21世紀になって始まった科目なのである。1998年告示の学習指導要領で初めて導入され、2003年から実施された。その時は2単位科目の「情報A」「情報B」「情報C」から1科目必修だった。(つまり普通科高校の場合、教科数は11になる。国語、地理歴史、公民、数学、理科、保健体育、芸術、外国語、家庭、情報。)2008年告示の学習指導要領では「社会と情報」「情報の科学」から1科目必修、2017年告示、2022年実施の学習指導要領で「情報Ⅰ」「情報Ⅱ」から「情報Ⅰ」が必修とされた。
(情報Ⅰの教科書)
 何だか面倒くさいことを書いたが、「情報」という教科が始まって20年ぐらい経つが、今回初めて高校生全員が「情報Ⅰ」という同じ科目を勉強することになったのである。今までも「情報」を履修しないと高校を卒業出来なかったわけだが、「情報」の中でどの科目を勉強するかは決まってなかった。(自分で選択できるわけではなく、恐らく学校ごとに決められたどちらかの科目を勉強したはずである。)ところで、この「情報Ⅰ」必修化を機に、大学入学共通テストに「情報Ⅰ」のテストを新設して受験を義務づけるという議論が起こっている。
(大学入学共通テスト変更案)
 そもそも「情報Ⅰ」とは何を学ぶのだろうか。学習指導要領を見てみると、目標は面倒なことが書いてある。次の「内容」を見ると4点が書かれている。まず(1)情報社会の問題解決、(2)コミュニケーションと情報デザイン、(3)コンピュータとプログラミング、(4)情報通信ネットワークとデータの活用となっている。(3)をさらに詳しく見てみると、「コンピュータや外部装置の仕組みや特徴,コンピュータでの情報の内部表現と計算に関する限界について理解すること」「アルゴリズムを表現する手段,プログラミングによってコンピュータや情報通信ネットワークを活用する方法について理解し技能を身に付けること」などと書いてある。

 要するにコンピュータやプログラミングの勉強であるが、こうなると僕にはもう内容を解説できない。でもまあ、これからの大学生には必須なんだろう。それは判るけれども、この「情報Ⅰ」のテストには反対しないといけないと思う。何故かというと、これは英語の民間技能審査導入と同じことになるからだ。英語は大事→4技能が大切→「話す力」は当日のテストで測定することが困難→事前に民間の検定等の結果を活用すればいい、という発想でやってきて最後の最後になって、地方や貧困家庭の志望者が不利になる、公平性は保たれるのかという反対論が噴出した。

 コンピュータ、プログラミングは重要と言われると、それ自体は反対しにくい。しかし、英語は(あるいは記述式導入が議論された国語や数学は)、どんな小さな高校、各学年1クラスの夜間定時制高校だって必ず専任の教師がいる。だから学校で質問したり、受験対策をすることが出来る。実際問題としては、定時制課程や専門高校から大学入学共通テストを受ける人はほとんどいないだろう。(大学へ進学する人はたくさんいるが、ほとんどは推薦入試だろう。)また生徒だって、大学入試を受ける生徒なら予備校や塾に通うもんだろう。

 それはそうだけれど、それでも「情報科」には専任の教師がいない高校が非常に多いという事実がある。しかし、もちろん「情報」を教えないわけにはいかない。じゃあ、どうしているのか。それは他教科の教員が教えたり、臨時免許の教員が教えているのである。難関大学進学を目指す高校だったら、情報科の免許を持つ専任教師がいると思う。でも、そういう高校の方が少ないかもしれない。ちょっと古い資料だが、他教科の教員が教えている数を見ると、下のグラフのように「情報」が圧倒的に多いことが一目瞭然だ。

 さらに下のグラフを見ると、上の円グラフは上と同じだが、下の円グラフでどの教科の教師が免許外で教えているかが判る。それは数学、理科、商業が圧倒的に多い。また他教科や臨時免許の教員が多い県として、2つ目の棒グラフを見ると、長野県、群馬県、栃木県などとなっている。この現実を解消するのが先であって、このまま大学入学共通テストで「情報Ⅰ」を導入すれば、再び不公平ではないのかという声が上がるのは確実だ。
 
 何でこんなに他教科の教員が「情報」を教えているんだろうか。それは「後から作られた教科であること」と「履修時数が少ないこと」があるだろう。「情報」は3年間の中で2単位をやればいい。選択科目でもっとやってもいいけれど、要するに「芸術」と同じ時数である。芸術の先生が音楽、美術、書道などすべている学校はいない。「情報」は1学年全員が同じ授業を受けるから「芸術」より専任教員が必要だ。しかし、それでも二人以上いるはずがない。学校規模が小さければ、非常勤講師などで対応せざるを得ない。

 そもそも最初に「情報」が始まった時はどうしたんだろう。その時は大学で免許を取得した人は誰もいないわけだから、数学、理科、商業、工業などの教員を対象に講習が行われ合格者に免許が付与されたのである。商業、工業などにはそれ以前から、情報処理、プログラミングなどの科目が置かれていた。情報処理科などが設置された高校も多かった。数学や理科の教員は専門から関連性が強く、各学校の成績処理を数学や理科の教師が担当していたことも多い。だから、これらの教科の教員に頼ったわけである。しかし全員の教員が情報免許を取得したわけではない。

 免許取得者が少ない以上、情報免許を取ってしまうと「情報」を教えないといけなくなる。本当は数学や理科を教えたいという人は情報科を敬遠することになる。異動や退職で情報免許を持っている教師がいなくなったりすれば、他教科や臨時免許の教師が教えるしかなくなる。大学で免許を取る人もそんなに多くないのかもしれない。数学や理科専攻の学生がさらに情報免許を取るのは大変だ。一方、コンピュータ、プログラミングの知識が半端ないという学生は、民間で働く方がずっと有利。わざわざ10年期限の教員免許を取る人は少ないだろう。

 ということで、今の段階で「情報Ⅰ」のテストを始めるのは無理があると思う。そもそも推薦入学がこれほど増えている中で、大学入学共通テスト科目を増やすということがどうなんだろう。テストがそんなに重要なら、全員受けさせるべきだろう。あるいは逆に全員を推薦入学にするとか。なお、最後に書いておけば、情報教育を進めるのは大事だろう。「オンライン授業」、卒業しても「テレワーク」、これは今後も進むだろう。その態勢を整えるためにも、情報教育は大切だ。そのために「情報教育環境整備担当教員」などを設置して、民間人の臨時免許も大胆に増やし各校に専任教員を複数配置出来るよう配慮するべきだ。
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「グンダーマン 優しき裏切り者の歌」、東独現代史を生きた歌手

2021年06月07日 23時24分26秒 |  〃  (新作外国映画)
 「グンダーマン 優しき裏切り者の歌」というドイツ映画をやっている。ゲアハルト・グンダーマン(1955~1998)という歌手がドイツにいた。東ドイツの人で、炭鉱でパワーショベルの労働者として働きながら、自分で歌を作りバンドで歌い続けた。「東独のボブ・ディラン」などと呼ばれたこともあるという。そのグンダーマンがドイツ統一後、東独時代にシュタージ(国家保安省)に協力していたことを告白した。その事実を基にして、グンダーマンの人生を考える映画である。

 非常に重いテーマかと思うと、案外映画はスラスラ進む。労働や愛をテーマにした歌がふんだんに出て来ることもある。しかし、それ以上にグンダーマンの「優しさ」を強調し、仲間内の愛のもつれ、労働現場の様子などを描いている。シュタージ問題だけを強調していない。彼は職場の労働強化、危険性を告発し、党幹部が視察に来ると敢然と抗議する。なんで東独車のトラビでなく、西側の車で来るんだとも言う。挙げ句に党を除名されるまでになる。

 彼は社会主義を疑うことはなく、だからこそ間違った幹部を批判する。その素朴な正義感を映画は否定しない。そんなグンダーマンがなんでシュタージに協力し国家のスパイをしていたのか。どうも監視と密告が常態化していた東独社会では、それを相対化して見る視点が持てなかったようだ。党幹部を批判するがゆえに、自分の真実の告発を党に報告することが悪いとは思えなかった。統一後になって、ある人に自分はあなたを報告していたが、正しい行動をしていると書いたと言いに行く。そうすると逆に相手の人もグンダーマンを報告していたと言われる。

 東ドイツは相互に監視し合うような社会だったのである。そのことを告発するような映画は今までにも作られてきた。しかし、この映画は民衆の中で人気があった歌手を取り上げている。グンダーマンは告白後も人気は落ちなかったという。ステージ上で告白したが、かえって潔いと思われたとも言われる。彼自身も加害者であり、被害者でもあって、自分で文書を探しに行くが見つからない。そして労働と歌手を両立させる過労からか、1998年に43歳で急死した。
(元シュタージの文書庫で)
 監督は東独出資のアンドレアス・ドレーゼン(1963~)。東独時代からグンダーマンのファンだったという。告白はショックだったが、歌を通してグンダーマンの人間性を信じていたのでファンを続けたという。党幹部と政策は批判するが、社会主義と東ドイツ国家そのものは支持する。そんな人はかなり多かったらしく、そういう東ドイツ民衆の雰囲気を感じ取ることが出来る。若い人にはグンダーマンの歌が「発見」でもあり、ドイツで大きく評価された。2018年の映画で、ドイツ映画賞の作品賞、監督賞など6部門で受賞した。主演のアレクサンダー・シェーアは全15曲を自ら歌っている。とても興味深く、愛も思想も一筋縄では理解出来ないことを実感する。
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河合雅雄、長尾真、田村正和、若山弦蔵等ー2021年5月の訃報

2021年06月06日 22時39分58秒 | 追悼
 2021年5月の訃報。多くの方の訃報の中で河合雅雄を最初に書きたい。霊長類研究者で、日本モンキーセンター元所長、河合雅雄(かわい・まさを)が5月14日に死去、97歳。心理学者河合隼雄(はやお)の兄だが、名前は「まさを」と表記するという。宮崎県幸島でニホンザルの芋洗い行動を発見した後、アフリカでゴリラやゲラダヒヒ研究を行った。霊長類の様々なユニークな「文化」行動を発見して、日本のサル学の基礎を築き、世界的に評価された。著書に「ゴリラ探検記」「少年動物誌」「森林がサルを生んだ 原罪の自然誌」など。草山万兎の名で児童文学も書いた。
(河合雅雄)
 学問の背景にあったのは戦争だった。戦争をする人間のバカバカしさの根源には何があるのか。「人間性」を探るためにサルの研究を行ったのである。中国戦線に従軍した藤原彰は戦争の反省から近現代日本の軍事史の開拓者となった。三笠宮は同じ動機から人間文明の起源を追究し、古代オリエント学者となった。河合は同じ動機から、歴史学ではなく動物学を専攻したのである。そして、人間の進化は「労働」によるというマルクス主義ではなく、「遊び起源説」を唱えた。また「文化」を持つことで、人間は「反自然」になったと現代に警鐘を鳴らした。

 学者ということで、情報工学者の長尾真を次に。5月23日没、84歳。京都大学総長、情報通信研究機構理事長、国会図書館長などを歴任し、文化勲章。2005年に日本国際賞受賞。多くの役職に就き幾つもの賞を受けたが、そんな人もいたかな程度しか知らなかった。しかし、長尾氏の業績は非常に重要で、現代社会を支えている。自然言語や画像の処理、パターン認識を研究し、手書き文字の認識方式が郵便番号の読み取りに生かされた。また日本語の解析、重要語抽出法、電子辞書などの研究を通し、日本語ワープロ検索システムなどが開発された。またAIによる自動翻訳システムの構築にも貢献するなど、重要な業績を残した人である。
(長尾真)
 俳優の田村正和が4月3日に死去していたことが公表された。77歳。5月に報道された訃報では最大の大きさで、テレビを見てたらニュース速報が流れた。舞台俳優、映画俳優という言葉があるが、田村正和は「テレビ俳優」と呼ぶのがふさわしいと誰かが言ってた。なるほど。映画でデビューし、舞台にも立ったが、確かに活躍のほとんどはテレビだった。「古畑任三郎」「眠狂四郎」などで、僕は名前は知ってるが見てないから書けない。60年代の古い映画を見ていると、時々出ているが映画では成功しなかった。昔から「憂愁の貴公子」なんて言われたが、そこが逆に不利に働いたか。戦前の大スター阪東妻三郎の三男で、よく「田村三兄弟」と言われるが、本当は四兄弟で会社経営者の兄がいる。(他に異母兄弟が一人)。
(田村正和)
 声優ラジオ・パーソナリティ若山弦蔵が5月18日に死去、88歳。あれだけ印象深い声の持ち主だったのに、訃報が案外小さくて気付いてない人もいるんじゃないか。声優といってもアニメではなく、海外のドラマ、映画の吹き替えである。60年代、70年代頃まで声優といえばその方が多かった。「スパイ大作戦」「鬼警部アイアンサイド」だったり、007シリーズのショーン・コネリーだったり。それも印象深いが、それ以上に僕はラジオでの声が好きだった。特に1995年から2009年まで続いた「バックグラウンド・ミュージック」。一体この人は幾つなんだろうと思って聞いていた。70代半ばを過ぎていたはずだが、全く若々しいとしか言えない魅力的な声だった。
(若山弦蔵)
 松山バレエ団を創設した日本バレエ界の草分け、松山樹子(みきこ)が5月22日死去、98歳。日劇クラシックバレエ科1期生で、1948年に夫の清水正夫氏と松山バレエ学校、松山バレエ団を創設した。息子が清水哲太郎、その妻が森下洋子。昔は「白毛女」で訪中公演を行ったりしたが、その後森下洋子が台頭し「白鳥の湖」などが多くなった。清水哲太郎、吉田都などもいるが、結局日本で一番有名なバレリーナ森下洋子を育てたことに尽きるだろう。
 (松山樹子)
 テレビプロデューサーの澤田隆治(たかはる)が5月16日死去、88歳。大阪の朝日放送に入社、テレビで「てなもんや三度笠」「スチャラカ社員」などを大ヒットさせた。74年に東京に移り東阪企画社長として「花王名人劇場」の演出を担当し、この番組からやすし・きよしら80年代の漫才ブームが始まった。また花王名人大賞を設け、その新人賞ざ・ぼんち島田紳助・松本竜介今いくよ・くるよ明石家さんまダウンタウン等が受賞している。戦後大衆文化史に大きな貢献をした人で、その思い出を「私説コメディアン史」「上方芸能列伝」など多くの著書で証言している。
(澤田隆治)
 上方歌舞伎の女形で人間国宝指定の2代目片岡秀太郎が5月23日に死去、79歳。上方らしい雰囲気を出せる役者と言われた。13代片岡仁左衛門の次男で、弟が15代片岡仁左衛門、養子が片岡愛之助。歌舞伎のことはよく知らないし、特に上方歌舞伎は見たことがないけれど。
(片岡秀太郎)
 元国連事務次長(人道担当)、元国連大使大島賢三が5月29日に死去、78歳。外務省経済協力局長を経て、国連事務次長に就任。2歳で被爆し母を失った。国連でもチェルノブイリ事故や北朝鮮核実験問題に関わり、退官後は国会の原発事故調査委員会や原子力規制委員会の委員、アフリカ協会理事長などを務めた。国連内でも非常に知名度が高かったと言われる。
(大島賢三)
 外国ではアメリカの絵本作家エリック・カールが5月23日に死去、91歳。ティッシュや指や色紙を貼り付けていくコラージュで知られる。親の故郷のドイツで少年時代を送ったが、52年にニューヨークに戻った。69年の「はらぺこあおむし」が世界的に評価された代表作となった。その本は実は日本で印刷されたというエピソードは大きく報道された。
 (エリック・カール)
 アメリカの女優、オリンピア・デュカキスが5月1日に死去、89歳。1987年の映画「月の輝く夜に」で主演のシェールの母親役を演じて、アカデミー助演女優賞を受賞した。(シェールは主演女優賞)。他に「マグノリアの花たち」など多くの作品が公開されている。元マサチューセッツ州知事で、88年大統領選の民主党候補となったマイケル・デュカキスは従弟に当たる。(本選ではジョージ・ブッシュ父に敗れた。)Dukakisという名前はギリシャ系である。
(オリンピア・デュカキス)
 アメリカの歌手B・J・トーマスが5月29日に死去、78歳。何といっても69年の映画「明日に向かって撃て!」の主題歌「雨にぬれても」である。アカデミー歌曲賞を受賞し、ビルボードで1位となった。ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、キャサリン・ロスが雨の中で自転車を乗り回すシーンは今も目に浮かぶ。グラミー賞を5度受賞している。
(B・J・トーマス)

江原達怡(えばら・たつよし)が1日死去、84歳。俳優。「鐘の鳴る丘」で子役デビュー、その後若大将シリーズや黒澤明、岡本喜八監督作品などに多数出演した。
内田祥哉(よしちか)、3日死去、96歳。建築家。東大名誉教授。内田ゴシックで知られた内田祥三の次男。建築構法を研究し多くの影響を与えた。佐賀県立九州陶磁文化館など佐賀県に多くの作品を残した。東大の門下に原広司、隈研吾などがいる。
富永一朗、5日死去、96歳。漫画家。「チンコロ姐ちゃん」など大人向け漫画で知られた。
三浦建太郎、6日死去、54歳。漫画「ベルセルク」を1989年から連載していた。
井山計一、10日死去、95歳。山形県酒田市のバー「ケルン」で、世界に知られるカクテル「雪国」を作ったバーテンダー。記録映画「YUKIGUNI」で知られる。
伊藤アキラ、15日死去、80歳。作詞家。渡辺真知子「かもめが翔んだ日」や「南の島のハメハメハ大王」などを作ったが、それ以上にCMソングで知られた。日立「この木なんの木」やカルビー「かっぱえびせん」、丸善石油「オー!モーレツ!」、日本香堂「青雲のうた」など多くの人の心に残る歌詞を書いた。
越智道雄(おち・みちお)、5月26日死去。英語圏文化の研究者、翻訳家で、ものすごく多くの著者がある。アメリカだけでなく、オーストラリア関係の本も多い。政治から大衆文化まで幅広く論じ、翻訳も研究書からSF、児童文学まで幅広かった。朝日選書から出た「アメリカ「60年代」への旅」や「カリフォルニアの黄金 ゴールドラッシュ物語」は読んでいる。
・8代目一龍斎貞山、26日死去、73歳。講談師。娘も講談師で一龍斎貞鏡として活躍。
柴宜弘(しば・のぶひろ)、28日死去、74歳。歴史家。歴史学者。バルカン半島史、特にユーゴスラヴィアが専門で、90年代にユーゴスラヴィアが解体しボスニア内戦が始まる中、多くの一般向け著書も書いた。1996年の岩波新書「ユーゴスラヴィア現代史」などがある。
スペンサー・シルバー、8日死去、80歳。アメリカの化学者で、剥がれやすい接着剤を開発。ポスト・イットの発明につながった。
マルティン・トゥルノフスキー、19日死去、92歳。チェコの指揮者。群馬交響楽団名誉指揮者。日本の楽団で多く客演式をしている。
ダニ・カラヴァン、29日死去、90歳。イスラエルの環境彫刻家。環境造形的な作品を多数制作し、日本の世界文化賞を受賞している。札幌芸術の森や霧島アートの森など日本での作品も多い。
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石井裕也監督「茜色に焼かれる」、尾野真千子渾身の問題作

2021年06月04日 22時17分56秒 | 映画 (新作日本映画)
 石井裕也監督・脚本・編集の映画「茜色に焼かれる」は間違いなく本年屈指の日本映画だ。田中良子役で主演する尾野真千子にとって生涯の代表作になるかもしれない。そのぐらい主人公の存在感は半端ないが、一体この主人公をどうとらえればいいのだろうか。傑作には「ああ傑作を見た」という満足感が残るが、「茜色に焼かれる」はそれよりもまず何か凄いエネルギーを感じる。簡単に評価を云々するよりも、日本社会のいまを生き生きと描き出した「問題作」だ。

 冒頭でオダギリジョーが自転車に乗っていると、元官僚の老人がブレーキとアクセルを踏み間違えて交差点に突っ込んでくる。かくして妻の田中良子尾野真千子)は子どもを抱えてシングルマザーとなった。そして7年。加害者はアルツハイマー病だとして逮捕もされず、最近死んだ。良子は葬式に出かけていき、迷惑だと追い返される。実は良子は事故の賠償金を受け取らなかったという。本人の謝罪がないのにお金だけ受け取るわけにはいかないと、自分なりに筋を通して生きてきた。そんな彼女の口癖は「まあ頑張りましょう」である。

 しかし、経営していたカフェはコロナ禍で閉店せざるを得ず、今はスーパーの中の花屋で働きながら、夜は風俗店でダブルワークせざるを得ない。死んだ夫が倒れて、病院代も良子が負担している。それどころか「トップの中のトップを目指す」が口癖だったロックシンガーの夫には愛人との間に子どもがあって、その養育費まで良子が出し続けている。中学生の子ども、純平(和田庵)はそんな母親が今ひとつ理解出来ない。なんで怒らずに笑って頑張りましょうと言ってるのか。学校でも何故か上級生が「母親が売春婦」と絡んできていじめられる始末。
(良子と純平)
 144分もある長い映画だが、見始めると展開に圧倒されて退屈するヒマもない。特に風俗店の同僚、25歳のケイ片山友希)が印象深い。ケイは糖尿病で幼い頃からインシュリンを自分で打ってる。そんな話をしていると、店長の中村(永瀬正敏)がケイはリスカしないからまだいいと言う。その日良子とケイは飲みに行ってお互いに心を開く。飲み過ぎて純平が呼ばれて、ケイに気に入られてしまう。ここまですべて、お金が掛かる出来事が起こったら字幕で「飲み代○○○○円」などと明示される。そんな時、中学時代の級友熊木と再会する。
(良子とケイ)
 こうして書いていても、もどかしい思いがする。不幸せな者がさらに不幸せになっていく。不幸せな者がバカにされているのに、怒ることすら出来ない。「まあ頑張りましょう」と作り笑いして生きるしかないのか。ラスト近くでそんな良子もついに爆発する。バカにされたと大声を挙げる。勝負服の赤を着て包丁を持って出掛けるから、純平も心配して後を付ける。仕方ないからケイさんを呼ぶと、思いがけぬ展開が待っている。不幸せな者に幸福は訪れず、しかし愛する息子のためにこれからも良子は「まあ頑張りましょう」と生きていくしかない。
(左端石井監督と出演者)
 良子も純平もケイも、「感動を貰える」なんてレベルを越えていて、イタい状況に見ている者も立ちすくむ。あまりのつらさを何とかこらえて、尾野真千子の膝がガクガクと震えている。それがこちらにも伝わって、見ていて思わず貧乏ゆすりをしてしまうぐらいだ。良子はかつて「アングラ演劇」で活躍していた女優だったが、売れないロックシンガーに恋してしまった。そしてダンナが不慮の死をとげるが、それもこれも「神様」は何を考えているのか。ラスト近くで突然良子は一人芝居をオンラインでやるといって「神様」という芝居を作った。純平には全然判らないが、そんな母が好きなのである。尾野真千子のド迫力にビックリ。今年の演技賞確実かと思う。

 石井裕也監督は「舟を編む」(2013)と「映画 夜空はいつでも最高密度の青空だ」(2017)で2回キネマ旬報ベストワンになった。しかし、どちらも僕には今ひとつという感じだった。原作がある「舟を編む」や「ぼくたちの家族」(2014)はまだいいんだけど、監督自身がオリジナル脚本を書いた「川の底からこんにちは」(2009)や「映画 夜空はいつでも最高密度の青空だ」、「生きちゃった」(2020)なんかは、展開が急すぎて付いていけないことも多い。それを面白いと思えるか、理解出来ないと思うか。今度の「茜色に焼かれる」もトンデモ映画的展開ではあるが、尾野真千子の演技で納得感が大きくなっている。ラストの母子が自転車で「茜色に焼かれる」場面は思い出に残る。まさにコロナ禍の中に作られた映画として、是非見て置いて欲しい映画だ。
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映画「ファーザー」、アンソニー・ホプキンス2度目のオスカー

2021年06月03日 22時31分00秒 |  〃  (新作外国映画)
 東京でも大型映画館の上映が再開されたので、今年度の米アカデミー賞主演男優賞アンソニー・ホプキンスが受賞した「ファーザー」を見てきた。さすがの名演だが、完全に「認知症映画」なので若い人受けはしないだろうなあ。原作があって、フランスの若き小説家、劇作家フロリアン・ゼレール(1979~)が2012年に発表した「Le Père」という戯曲である。この戯曲は評価が高く、フランスでモリエール賞を受賞し、世界45ヶ国で上演されたという。 日本でも2019年に上演されていて、主演は橋爪功だったと出ている。なるほどと思うキャスティングだ。

 映画は原作者のフロリアン・ゼレールが監督している。自身で映画化するに当たって、主演にアンソニー・ホプキンスを熱望し、舞台をパリからロンドンに移した。1988年に「危険な関係」でアカデミー賞脚色賞を受賞したイギリスの脚本家クリストファー・ハンプトンと共同で英語脚本に書き直し、二人でアカデミー賞脚色賞を受賞した。そういう作品だから、ほとんどは室内でドラマが進行する舞台劇のような作品になっている。しかし、そういう作りの問題ではなく、これが「老人の目から見た世界」なのかと見る者に気付かせるショックがある。

 アンソニー・ホプキンスは1937年12月31日生まれで、映画は本人に合わせて80歳という設定になっている。登場人物の名前もアンソニーである。娘のアンが世話しているが、昼間は介護士がいる。しかし、いつも揉めているようだ。アンはオリヴィア・コールマン(「女王陛下のお気に入り」でアカデミー賞)がやっている。初めはアンの映像からスタートするから、観客はアンソニーを「発見」することになる。元気そうだが、「時計を盗まれた」などという。その時計はアンが見つける。そういうシーンを見ていると、もう認知機能が衰えているがそれを自分で認められず、「他人のせい」としている段階だなと思う。
(父と娘と介護士)
 アンは交際相手がいるが、結婚するとパリに住むことになるという。週末は帰って来るが、介護士と揉める父をどうしたらいいかと悩んでいる。なんて話が進むが、翌朝になると知らない男が家にいる。誰かと問い詰めると、アンの夫だという。ではアンはどこにいるかと思うと、違う女になっている。アンの下に妹がいたはずだが、何故か現れない。なんだかミステリーではないか。と思うと、再びオリヴィア・コールマンがアンとして現れる。どこかに陰謀があるのではなく、不条理演劇でもなく、問題はアンソニーの認知能力の低下にあったことがはっきりしていく。

 今まで「突然他人が家に入り込む」という物語はかなりあった。それは「人間が入れ替わる」ミステリーだったり、宇宙人が人間を乗っ取るSFだったりした。あるいは世界の謎めいた仕組みを表わすような「不条理演劇」だったりした。最近昔のアメリカ映画「私の名前はジュリア・ロス」という映画を見たが、秘書の求人に応じて田舎の屋敷に行くと薬を飲まされて意識を失う。目覚めると、君は私の妻だが記憶喪失になってしまったと言われる。ジュリア・ロスのそこまでの暮らしが描かれているので、それは何らかの陰謀だと見ている人には判る。結局は「お約束」で合理的な解決が待っているが、これはサイコ・スリラーだった。
(フロリアン・ゼレール監督)
 ここで思ったのは、人生の晩年にやって来るのは「不条理演劇」だったのかということだ。突然知らない人が家族だと名乗るようなお芝居は安部公房とか別役実みたいだ。何かとんでもない陰謀に巻き込まれてしまったのか。周りの人間は泥棒ばかりで、自分が大切にしてきたものが一つ一つ盗まれていくのである。それが認知症の世界観なのかと何だか初めて気付いた気がした。

 アンソニー・ホプキンスは、そう言えば「日の名残り」や「ニクソン」でもアカデミー賞にノミネートされていた。しかし、何といってもハンニバル・レクター博士こそ生涯の代表作になってしまった。僕もまず「羊たちの沈黙」や「ハンニバル」を思い出してしまう。日本公開はもう30年も前になる。それが今になって、このような演技を見せてくれる。ラストは壮絶である。すごい役者だなあと感嘆する。でも、まああまり気分がよくなる映画ではないなあ。監督のフロリアン・ゼレールはフランスでは小説家としてまず有名になったらしい。翻訳はないようだが、是非読んでみたいと思った。
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「常識研修」のススメーより良い教員研修をデザインする②

2021年06月02日 23時09分21秒 |  〃 (教師論)
 「教員免許更新講習」は「教育の最新事情」(必修)と「教科指導、生徒指導その他教育内容の充実に関する事項」(選択)になっている。前者が12時間、後者が18時間という設定である。どちらも大学等が開講する講座を自費で受講することになっている。しかし、前者は校内研修や教育委員会の研修と同じだと評判が悪い。だから、その部分は校内研修などをポイント化して10年間で貯めていけばいいというのが前回の趣旨。

 問題は後者なんだけど、これはなかなか良かった、役だったという声も多い。先に紹介した「教員という人生」(朝比奈なを)でもそういう感想が出ていた。また開設する大学にとっても貴重な収入源になってしまって、いまさら止められては困るというのが実態だろう。僕はこの部分は継続しても良いのでは無いかと思う。ただし、「ポイント化」とともに「内容の拡充」が必要だ。

 教員はの中には多忙の中で学びを放棄したような教師もいると思うが、それでも自費で様々な学会に出席したり、教育研究団体に参加する人は多い。学会に参加するのは「教科指導の充実」に間違いなく寄与する。10年間に何度か参加してポイントを貯めれば、研修をクリア出来る。ただの聴講者ではなく、報告者だったりすれば、ポイントはさらに高く出来る。教育委員会の関連研修、研究授業などもポイントに出来る。そうなれば、ある年に集中的に大変になることなく、教科や生徒指導などの専門的研修を自ら受ける動機付けになるのではないだろうか。

 しかし、ここで本当に書きたいのはそういうことではない。今行われている更新講習は、要するに「研究」である。研修のうち「修養」の部分はどうするのか。「修養」という言葉は、古いイメージがある。「修養団」という名の団体もあって、戦前から続く「日本精神」の右派団体である。伊勢神宮前の五十鈴川で「みそぎ」の企業研修をやったりしている。それは別にしても、「修養」と言われると、山寺に籠もって座禅するようなイメージがある。もちろん、僕はそういうことを勧めているのではない。教師は人と接する仕事だから、自分だけ「悟り」を開いても仕方ない。
(教員の「非常識」) 
 多くの生徒や保護者が教員に望むことは何だろうか。授業や部活の優れた指導者であることは、確かに望ましいことだろう。でも、中学・高校は教科担任制なんだから、教えている10人ほどもの教師が、みんなリーダー教師であるはずもない。授業も大事だけれど、何といっても教師に望むのは「学級担任が相談しやすい」ことだろう。特に進路決定を抱える中学3年、高校3年の時の担任が、話しづらい教師だったら困る。怖すぎる人、いい加減な人も生徒は大変だけど、それ以上に「相談できない」タイプだったら本当に困る。

 そういうタイプの教員、一言で言えば「同僚として付き合いづらい教師」はかなりいるのではないか。どんな学校にも少しはいると思う。まあ事務的にメチャクチャじゃなければ、生徒も学年の同僚教師も何とか我慢してやり過ごしている。精神的に危うい場合も多く、ウツ的な症状が感じ取れる場合は「病気」なんだから、これは仕方ない。学期中に休職になるケースもほとんどの教員が一度は見聞きしているだろう。しかし、そういうことではなく、「マジメすぎる」「硬すぎる」とか、「防御的反応が強い」「生徒を追い詰める」などの教員である。

 教師は成績のいい人ほど、大学卒業後すぐに採用されるから、学校以外の場を知らない。(だから管理職試験合格後に「異業種体験」などのプログラムが組まれたりする。)世の中は大きく変わっているけど、教師だけは学校で勉強すればいいんだと思ってたりする。昔は大学も成績順で試験を受けて合格すれば良かった。今はAO入試、自己推薦など大学入試も多様化した。高卒での就職も、昔は学校でマジメにしてれば一生の仕事をあっせんされた。もうそういう時代は遙か昔である。教師が「人間通」で「相談力」が高くないと、生徒が困る。教師が推薦書を書く機会も非常に多くなっているから、教師の文章力も試される。

 だけど、「付き合いづらい教師」にふさわしい研修はあるのか。それはないだろう。ただし、様々な体験を通して見聞を広げるということは人間の幅を広げる役に立つと思う。多くの教師は自ら「趣味」という形で、自分の世界を広げている。しかし、旅行をしてもそのままになっていることが多い。海外旅行の経験をまとめて(文章じゃなく、映像でまとめてもいい)、授業やホームルームで生かす。それを「広い意味での研修」ととらえてポイント化する。そういう「研修」をある程度義務づける方がいいのではないかと思うのである。(そうすれば「夏休みの自主研修」も昔のように可能になる。)

 どんなケースがあるかというと、災害ボランティア、サマーキャンプ等の引率、演劇や映画のワークショップ参加、地域のボランティア団体への参加、福祉施設や様々な団体への体験参加などなどである。そして大学ばかりでなく、専門学校も「教員向け体験講座」を開いて欲しいと思う。進学校以外では、専門学校への進学が多い。保育士、美容師、調理師などは昔からあるが、今は動物、鍼灸・マッサージ、スポーツや音楽の裏方、声優やミュージカル俳優、ネイルアートなどホントに多くの学校を希望する。教師はあまり知らないと思う。大学での専門研究もいいが、そういう専門学校を体験するのも面白そうだと思う。そういう体験を10年間に2回ぐらいしても良いんじゃないかと思うのである。
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より良い教員研修をデザインする①ー「ポイント制」

2021年06月01日 23時02分17秒 |  〃 (教師論)
 「教員免許更新制」は廃止すべきだと書いた。ではそれに代わる、教員の研修はどのようなものが良いのか。長い教員生活の中で、「キャリアデザイン」をどう考えるか、教員自身にとっても、社会にとっても考えるべき問題だ。まあ僕にはもう関係ないし、何の影響力もないから「余計なお節介」に過ぎない。しかし、アイディアだけはあるので、一応書いてみたい。

 世の中は大きく変わって行く。いつの時代もそうである。もちろん教育のあり方も、子どもたちの世界もどんどん変わって行く。自動車も変われば、銀行も変わる。新聞も変わるし、音楽も変わる。当然教師も新しい世界に適応すべく学び続けなければならない。教師だけでなく、現代ではすべての人に「生涯教育」が求められている。

 教師は「教育公務員特例法」で「教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない」とされている。この「研究と修養」を指して「研修」と呼ぶのである。ここで大切なのは、「研究」だけでなく「修養」が求められていることだ。研究は判るけど、修養とは何だろうか。辞書を調べると「知識を高め、品性を磨き、自己の人格形成につとめること」と出ている。教師なんだから、生徒より「知識」はあるだろう。でも「品性」とか「人格」と言われると、困ってしまう。しかし「修養」の意味を広く考えることで、今後に望まれる研修のヒントになる。

 まず今までの「教員免許更新制」や「10年研修」には負担感が大きかった。当たり前である。何故なら「ある年に集中的に学ぶ」という仕組みだから。しかし、その年にも普通の仕事がある。授業もあれば、部活もある。また、その年が産休、育休、病休、介護休暇などに当たることもある。本人の体調が優れないこともある。だから、その年が大変にならないように、中三、高三の担任を外れるように担任になる時期を調整したりする。妊娠・出産の時期も外すようにする。人生設計という観点から本末転倒というしかない。

 じゃあ、どうすればいいのだろうか。僕が今回思いついたのは「ポイント制」である。研修を受けて報告を提出することで、決められたポイントを付与する。そして、「10年間で○○ポイント」必要と決めるのである。更新にはいくつかの領域に渡る講習が必要だが、その中に「教育の最新事情」が必修項目として入っている。しかし、それが一番評判が悪い。大体「最新事情」を10年に一度学ぶという発想がおかしい。最新事情に関しては、校内や教育委員会でも研修が行われる。内容が重複するという声が高い。だから、校内研修をポイント化すれば良いのである。
(校内研修のようす)
 つまり、「最新事情」を10年に一度まとめて学ぶのではなく、毎年やってる校内研修や教育委員会の研修を10年分積み立てることで良しとするのである。その場合、ただ出席してればいいということにはならないだろう。簡単でもいいから「研修報告」がいる。長期休業中にまとめることで「ポイント化」するわけである。こうすれば、毎年きちんと研修していけば、「最新事情」分野は終わる。そして、最新事情なんだから、その方がいいだろう。最近だったら、「オンライン授業の工夫」は多くの教員が悩んでいるだろう。それをウェブ上で講習して、授業に生かしたことを報告書にまとめる。そういう報告書を10年間で20ポイントぐらい貯める。

 この研修は当然「指導的教員」も受けなければならない。今の更新講習は管理職や主幹教諭は免除される。それは本来おかしいだろう。指導的教員ほど最新事情や専門的知識が必要なはずである。だから、新しい制度では、むしろ指導的教員ほど高い研修ポイントが必要にしなければおかしい。それじゃ、誰も管理職にならないと思うかもしれない。しかし、指導的教員はもともと「教務」「生活指導」「進路指導」などの主任をしていて、そのための研修や連絡会が多い。校長や副校長も同じである。その内容をまとめて職員会議で報告する機会もあるだろう。それをもって研修ポイントに出来るようにすれば問題ない。

 いくつかの分野を決めて、10年間に必要なポイントを獲得するようにする。多少はヒマな年に、負担が大きな(ポイントが高い)研修を受講する。10年程度(産育休や病休期間等を除き)で獲得ポイントが少なければ、2年程度の猶予が与えられる。だけど、その猶予期間にも次の10年分の研修をしなければならないから、「積み残し」は避けたい。そのことが研修を受ける動機になる。また「余った研修ポイント」が出た場合、直近2年間のポイントは繰り越せる。まあ有給休暇と同じ発想である。そんな感じのことを考えて、本当は「研修内容をどうするか」を書きたかったんだけど、長くなってしまったから2回に分ける。2回書くような問題でもないんだが。
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