尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

追悼・阿藤周平

2011年04月29日 21時35分12秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 八海(やかい)事件の元被告・阿藤周平(あとう・しゅうへい)さんが亡くなった。4月28日。84歳。
 
 八海というのは、山口県東南部の地区名で、今は田布施町。岸信介、佐藤栄作兄弟宰相の出身地。そこで、1951年に夫婦殺害の強盗殺人事件が起きた。警察は一人ではできない、複数犯だと思い込み、真犯人を強引に攻め、無実の共犯者を作り出した。真犯人は阿藤さんを主犯と「自白」したため、一審で無期懲役が確定した。二人殺害だから当時死刑以外にはありえないから、真犯人と警察の思惑が一致したのである。

 一方、阿藤さんは一審死刑、二審も死刑。他の二人の「共犯」者も有罪となった。
 最高裁になってから、冤罪救援、戦時抵抗で有名な正木ひろし弁護士が担当。無実を確信した正木弁護士は「裁判官 人の命は権力で奪えるものか」を公刊、ベストセラーになった。この著書は今井正監督により「真昼の暗黒」として映画化され、ベストワンになるなど高い評価を得た。今見ても、技術的には難もあるが、非常に力強い冤罪映画の最高峰である。今では裁判中に本や映画を作ること自体が問題になるとは思えないが、当時は「裁判は雑音に惑わされるな」と最高裁がいうなど、進行中の裁判を批判すること自体がとても困難な時代だった。

 最高裁は、1957年に死刑を破棄、高裁に差し戻し、1959年に無罪判決が出た。これで確定しそうなものだが、検察は再上告。ところが1963年に最高裁(下飯坂裁判長)は再び有罪の観点から、無罪判決を破棄、高裁に差し戻し、1965年三度目の死刑判決が下った。決着がついたのは1968年、三度目の最高裁判決で、最高裁が破棄・自判して無罪判決を下したのである。
 
 こういうエレベータみたいな裁判は他にはなく、阿藤さんは無罪になるために、3回の最高裁判決を必要とした。という八海事件は戦後裁判史、人権の歴史に忘れられない事件なのだが、今では知る人も少ないと思い少しくわしく書いてみた。
 
 阿藤さんは、無罪確定後は大阪に住み、冤罪救援運動にも参加していた。僕も2回くらい話を聞いたことがあると思うけど、20年以上前のことでなんだかあまり覚えていない。しっかりと、わかりやく話す人だった記憶がある。

 映画「真昼の暗黒」の最後で、阿藤さん役の青年は、「まだ最高裁がある」と叫ぶ。「まだ」と言えた時代だった。今はなんだか「また最高裁がある」というような裁判が多い。最高裁は人権の砦なんだけど。
コメント
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