尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

応仁の乱とは何だったのか

2018年03月06日 23時14分49秒 |  〃 (歴史・地理)
 忘れないうちに「応仁の乱」について書いておきたい。2016年10月に出た呉座勇一「応仁の乱」(中公新書)は昨年ベストセラーになって話題となった。僕も一度読んだんだけど、どうも今ひとつよく判らなくて、ここでは紹介しなかった。今度、石田晴男「応仁・文明の乱」(吉川弘文館、戦争の日本史9)も読んでみて、また呉座氏著書も読み直してみた。そうすると、前に判りにくかった点もかなり理解できた。
 
 「応仁の乱」は名前は有名だが、中身が理解しにくいことでも有名だ。まず、「応仁・文明の乱」という題名について。最近の教科書では、半分ぐらい(?)が「応仁・文明の乱」と書いている。当時は「一世一元」ではなく、戦乱や災害が起これば改元する。京都を焼け野原にした縁起の悪い元号はさっさと変えたい。1467年(応仁元年)に大乱が勃発し、応仁は2年で終わる。1469年が文明元年。乱が正式に終わるのは、1477年(文明9年)だから、10年以上続いた大乱の大部分は文明年間だった。でも、乱が起こった元号で「応仁の乱」と言い慣わしてきた。ここでも面倒だから「応仁の乱」とする。
(当時の絵巻に見る応仁の乱)
 応仁の乱が判りにくいのは、実は当時の人も同様だった。第一次世界大戦や現在のシリア内戦などと同じく、そこまで戦乱が大きくなるとは誰も思わない戦争がある。室町時代には、将軍に次ぐ管領(かんれい)は斯波・畠山・細川の3家、侍所長官は赤松・一色・京極・山名の4家しかなれなかった。応仁の乱の中心となったのは、東軍が細川勝元、西軍が山名宗全で、どっちもこれらの家柄だった。それらの家の多くは戦国時代を生き抜けなかった。それも判りにくい理由だと思う。(江戸時代の大名に残ったのは京極家だけ。細川氏も管領を出す本流は没落し、熊本藩の細川家は傍流である。大名としては続かなくても旗本などで続いた家が多いが。)
(山名宗全)
 どっちの本も乱の前後がくわしい。今まではよく「応仁の乱をきっかけに戦国時代に入る」と言われた。しかし、今はそれは否定されている。1493年に起こった「明応の政変」(10代将軍義材から11代義澄に将軍を交代させたクーデター)こそが重大だったというのが現在の通説だ。応仁の乱の原因が、8代将軍義政の後継者争いだったというのも、後の時代に作られた説らしい。一番重大なのは、多くの守護大名家が家督争いをしていたことである。管領家の斯波氏も畠山氏も壮絶な家督争い中。細川勝元の正妻は山名宗全の養女だったから、両者はもともと敵ではない。だけど、あちこちの家が分裂して守護大名が二分されると、双方とも大将に祭り上げられていった。

 1428年に4代将軍義持が死んだとき、長男の5代将軍義量はすでに亡く、後継者は決まってなかった。そこで3代将軍義満の子、つまり義持の弟の中から、くじで選んだ。それが6代将軍義教だが、やがてものすごい専制政治になった。(個人的資質に加え、「神に選ばれた」という意識が強かった。)個人的好悪で家督を取り替えたり、守護を辞めさせたりした。その挙句に、次に狙われると危機感を持った赤松満祐が、1441年に義教を家に招いた席で謀殺した。(嘉吉の変)その後、山名氏を中心に赤松氏を滅ぼすとともに、義教に遠ざけられた人物は復権させた。こうしてお家騒動はますます複雑になってしまったわけである。

 呉座氏の本は第一章が「畿内の火薬庫、大和」となっている。「ヨーロッパの火薬庫、バルカン半島」のもじりだ。確かに第一次世界大戦はサラエボの銃声で始まった。だが第一次大戦史でバルカン情勢ばかり詳しすぎたら、全体像がつかみにくいだろう。呉座氏の本も大和の記述が多く、そこが面白いけど中央政界の全体像が判りにくい。そこで石田氏の本を読むと、300頁ほどの本で200頁位まで乱が起こらない。当時は日本中で争いが絶えず、その帰結が応仁の乱だった。大和も出てくるが、関東情勢が詳しい。呉座氏は関東情勢の影響を限定的に考えるが、石田氏は関東情勢が中央政治への影響を重要視する。関東のことは書きだすと細かくなりすぎるので省略するが、その違いは興味深い。

 大和国、今の奈良県は当時特別の地域だった。守護不設置の国で、事実上興福寺(藤原氏の氏寺)が守護を務めていた。寺と言っても、多くの荘園を支配し、僧兵という武力を抱える領主勢力であることは同じ。神仏習合の時代だから、春日大社も一体だが、興福寺に属する僧兵を「衆徒」、春日大社に属する非僧の武士を「国民」と呼んでいたという。興福寺が強いから、大和では強大な戦国大名が産まれず、僕も大和情勢はほとんど知らなかった。しかし、京都に近い「南都」として特別の重みがある大和は、南に南朝の「聖地」である吉野、東に南朝よりの北畠氏が強い伊勢、西に分裂した畠山氏の本拠地である河内という「地の不利」があったのである。

 呉座氏の本で「主人公」格の僧侶が二人いる。どっちも興福寺別当を務めた経覚(きょうかく)と尋尊(じんそん)である。二人とも日記が伝わった。尋尊の日記は戦前に公刊されたので、よく通史などで使われる。僕も名前は聞いたことがあったが、くわしい経歴は知らなかった。どっちも「大乗院」の「門跡」(もんぜき)。興福寺は藤原氏の寺だから、藤原氏の子弟がトップになる。大乗院は九条家と二条家系の次男以下の男児が入寺すると門跡と呼ばれ、将来のトップが約束される。僧侶が世襲でもいいのか。一応試験みたいなものもあったけど、貴種の場合は事前に答えが教えられているんだという。

 ところで、その経覚の方が将軍義教の覚えが悪くなり、クビになった。興福寺は「官寺」扱いだから、トップ人事は政治が決める。そして嘉吉の変後に復活した。そんな立場だから、同じような境遇の方に同情する。そういう経覚と尋尊の見方の違いが随所に現れ興味深い。そして、ここに大和の名門、筒井氏から成身院光宣という武将が出て、勝ったり負けたりするが、特に畠山氏の内紛に大きく荷担し、西軍の畠山義就と争う。光宣は東軍方の畠山政長に肩入れした。応仁の乱が始まったころはまだ守護大名の大軍が来てなくて、光宣のような機動力が大きな意味があったらしい。そこで尋尊はこの光宣が応仁の乱の元凶だと日記に書いてるそうだ。そこまで言えるかは微妙かなと思う。
(細川勝元)
 さてもう長くなってしまったので、大乱勃発後のくわしい説明は止める。屋敷を塹壕で囲んで持久戦を戦い、その間に敵地近くに放火する。その間に京都は焼け野原になってしまった。そんな一進一退の戦況が続くが、やがて将軍義政がいる東軍が優勢になっていく。昨日の敵が今日の友のような状況で、補給路を断たれた西軍が個々別々に本拠地に去っていき、なし崩しに終わっていく。10年も続き、総大将の山名宗全も細川勝元も同じ年に亡くなり、もう皆どうでもいい感じだったのである。でも厳しい家督争いをしている当事者は、乱を終わりにはできない。そういう畠山氏や斯波氏の争いは続くけど、他は勝手に講和してしまうのである。

 大乱後すぐに将軍権力が弱体化したわけではなかった。でも、守護大名が京都にいると現地の支配が揺らぐので、京都を引き上げるようになった。斯波氏なんか、守護を務めていた越前は守護代の朝倉氏、尾張もやはり守護代の織田氏が実権を握ってゆく。畠山氏は両派で争いが続くが、山城国では1485年に「山城国一揆」が起き、両軍の勢力が「国人」(在地領主層)に追放された。両書で山城国一揆の評価もかなり違っている。いずれにしろ、「民衆共和国」といったものじゃないが、いろいろと見方があることが判る。こうして室町幕府はゆるやかに「畿内政権」化していった。
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