黒田如水軍必勝祈願の若籏神社

2007-05-21 16:27:13 | Weblog

先日小生の講演会に来られていた秋満氏から凄い情報を頂いたので早速訪ねて来ました。中津市植野にある「若籏神社」です。慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦の前、黒田如水軍が大友軍征討勝利を祈願、別府市石垣原にて大勝、神田20町歩、新酒株50石、雄弓2張を奉納し祈願書となし、、、。と「若籏神社御由緒」の古記にあり、弓も残っているそうです。如水が戦勝祈願したのはこのほかに薦神社、鶴市神社、宇佐神宮、闇無浜神社の5箇所とのこと。また、黒田が中津に入封した天正15年(1587年)黒田軍が犬丸城攻略の本陣がここに置かれた。「城井軍記実録」に「加来の城には三宅三太夫を籠め置き、寄手の総勢犬丸原に引き取り、若幡山に陣を構え、、犬丸城を攻められけるが、、、」とある。この話は余り知られていないようです。植野に行ったら寄ってみてください。ちなみに当神社は「豊前岩戸神楽発祥の地」でもあるのです。石碑があります。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講演会

2007-05-20 11:57:28 | Weblog
昨日中津市南部公民館で豊前中津の黒田武士の題で講演をしました。たっぷり2時間余われながら熱弁でした。中津における黒田武士の素晴らしさを皆さんに伝えたく頑張りました。今、ホットしてます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

還暦祝

2007-05-19 10:35:25 | Weblog
昨夜は小生の無二の親友、石田諭二氏の還暦祝を仲間15人ほどでスナックに集まり和気藹々のうちに行いました。小生の贈った色紙は「石友の 田園にありて交われば 諭徳まさしく 二天を生ず」と彼の氏名を短歌に織り込んだものです。喜んでくれたようです。料理は友人達の持ち寄った鹿を刺身に、猪を鉄板焼きに、小生の本場仕込のチィーズフォンデュ、そしてドイツワインとケーキ。仲の良い友人達とは何かあると集まります。ふぐの会、カニの会、手巻き寿司の会等々。今、還暦はそう珍しくありませんが、黒田如水は還暦まで生きられませんでした。1546年11月29日姫路城に生まれ、戦国時代を駆け巡り、1604年3月20日京都伏見の黒田藩邸で波乱万丈の生涯である59歳の天寿を全うしました。石田氏には今後も末永い健康と健勝を皆で祈念し、また一人ひとりより激励の言葉を戴きたいへん嬉しそうでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

如水と太宰府天満宮

2007-05-18 16:17:09 | Weblog
太宰府天満宮(写真)はかって兵火により消失したのを小早川隆景が神殿を再興したが、そのほかの造営には及ばなかった。如水はこれを嘆き米九十石七斗、銀一千七百匁を投じて楼門、廻廊、末社や橋などを整備した。そして社領二千石を寄進したので天満宮は如水を中興の祖とあがめ毎年正月、五月、九月の月忌二十日には如水の好きな連歌会を催し明治に至るまで続けた。クリスチャンの洗礼を受けていた如水だが、廃れたものを見ると不憫に感じたのであろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大宰府の如水井戸

2007-05-17 08:40:42 | Weblog
如水は豊前中津より筑前52万石へ入封後、しばらく大宰府に住んでいました。長政公が福岡城内に如水に相応しい屋敷を建築しようと申し出ましたが、如水は簡素なものを希望しその分戦乱の世に荒廃していた大宰府を再建するように伝えた。今、如水井戸としてその旧居跡が天満宮本殿そばに残っています。国立博物館へ行かれる方もお寄りになることをお勧めします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ああ海鮮丼!

2007-05-16 03:25:19 | Weblog
下関の友人が宝石店を出店したのでお祝いに行った。折角だからと料理屋に誘われ名物海鮮丼を食べさせてもらった。ウニ、イクラ、あわび、海老、鯛、ヒラメ、マグロ、ぶり、赤貝、イカなど18もの新鮮な魚介類がてんこ盛りで、な、な、なんと料金は1000円!思わずビックリ。多分東京では7000円はするなー。いやこんな新鮮なものは無理だろうということで皆さんも下関の海鮮丼はぜひ。魚好きにはこたえられません。また、鯨の尾のみ、腸、タンなども。久しぶりに魚料理を堪能したひと時でした。明日は大宰府へ。如水旧居跡を見てきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒田と長岩城の野仲氏

2007-05-14 11:00:42 | Weblog
秀吉が九州平定後、黒田如水は豊前六郡を領し中津に入封した。中津城の造営を豊前の諸豪族に下知するも殆んど聞かず。如水は宇佐高森城の加来氏、中津犬丸城の犬丸氏、上毛の鬼木城の鬼木氏といった二十余の下毛、上毛、宇佐郡内の反黒田の諸城を次々に攻略して行った。宇都宮氏の縁戚である津民郷長岩城(写真)の野仲重兼が最後まで抵抗したが遂に落城。その折豊前今様(黒田節の元歌)を歌いながら自刃したという。逃れた人々は身を隠し、密かに永らえた。しかし名前が野仲では残党とわかるので名前を変えたという説が伝わっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤香会

2007-05-13 10:35:30 | Weblog
博多どんたくの折、籐香会の中島副会長様にご挨拶する機会に恵まれました。このほどご丁寧な御礼状とともに籐香会だよりを送ってくださいました。藤香会は明治維新後黒田藩縁りの方々が旧藩主の恩誼に報じ、お互い黒田藩士としての矜持を何時までも保持していこうという主旨で出来た「報古会」が第二次大戦後「藤香会」と改称され現在に至っています。明治維新当時旧藩士は六千名もいたそうですが日の本一の勇猛な黒田武士の血を末永く大切にしていって欲しいと思うものです。この10月20日の福岡城完成400年、光雲神社遷座100年記念大祭には全国から藤香会の方々が参集され黒田武士の名を再び天下に轟かされんことを切に祈念するものであります。全国の黒田武士フアンの皆様も10月20日はぜひ光雲神社にお出でくださいますように。勿論、豊前中津黒田武士顕彰会も馳せ参じますぞ!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤原正彦先生と中曽根康弘元首相

2007-05-12 11:19:03 | Weblog
6日の報道2001に「国家の品格」の著者藤原正彦先生が中曽根元首相と対談されていた。日本の現状を憂い歯にものを着せぬ言質は見ていてすがすがしい。多くの日本人が共感したその著書のとうりブレの無い姿勢に尊敬の念がいよいよ膨らんでくる。古来より持っていた日本人の美徳が失われつつある。弱いものいじめをするな、惻隠の情、恥の文化、、、、。カネより大事なことがある。軟弱な若者が氾濫している今の現状を変えていかねばならない。人は易きに流されてしまう。楽なほうがいいのだ。しかしそれでは人として何事にも耐えうる強さ、自立していく根性といったものが失われていく。親にも政府の教育行政にも責任はある。森羅万象すべての物事において『2:6:2』の法則があてはまる。上位の2割は何も言わないで組織を引っ張っていく集団。下の2割はぶら下がりの集団、時には足を引っ張る。中の6割は上位や下位の勢力に影響される集団。教育とはそのうちの6割の集団の能力を向上させるためのもの。その6割の能力、品格が向上したとき日本は変わる。組織も変わる。今こそ黒田如水の堪忍の生涯を学ぶべきであろう。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

首がつながった伊達政宗

2007-05-11 20:08:31 | Weblog
小田原北条氏が「豊前中津の鱧の糟漬け」を陣中見舞いに贈った黒田如水の説得で開城し、秀吉が天下統一を果たした。その折、秀吉は全国の大名に小田原城攻め出兵の下知を出し、20万の軍勢で小田原城を取り囲んだが、奥州の伊達政宗(写真)は逡巡していた。その後、時流を悟ったのか小田原開城直前に駆けつけた。秀吉は政宗の首に杖を当て「首がつながったな」と皮肉を込めて言い放った。もし、遅かったら政宗は切腹、伊達藩は取り潰しになっていたところだ。世の中の流れを読めねば過酷な運命が待っている。北条氏は読めずに滅んだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする