万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

危ない菅官房長官の民主主義観

2020年09月10日 11時55分06秒 | 日本政治

 安倍首相の辞任を受けての後継総裁の決定は、自民党内の人事であるとはいえ、事実上、日本国の首相を選出する選挙となりますので、その重要性は計り知れません。否、日本国の政党が、政党助成金をも受け取る公的団体である点を考慮しますと、政党内の専権事項であるとも言い切れないようにも思えます。国民と政党との権利・義務関係については、今後、民主主義の原点に返って考えてゆかなければならない課題とも言えましょう。

 

ところで、総裁選に際して各候補も自らの政策方針や政治観を明らかにしているのですが、その中で、注目されるのは、次期首相の座がほぼ‘内定’とされている菅官房長官の民主主義観です。同氏は、衆議院の総選挙に触れる形で、民主主義について「私のような普通の人間でも努力すれば首相を目指せる。まさにこれが日本の民主主義ではないか」と述べているのです。この発言、どこか、‘ずれ’ているように思えるのです。

 

‘普通の人間’が国家のトップの座を手に入れる事例は、古今東西を問わずに人類の歴史にしばしば現れる現象です。否、戦国時代に頻繁に起きた下克上のように、力がものを言い、国家が乱れていた時代ほど、門地、教育レベル、家庭環境、財産といった生来の要素に関係なく、運と実力(努力?)があれば、‘普通の人’が、出世街道を上り詰めることができました。このように考えますと、民主主義国家=‘普通の人間’が努力すればトップになれる国‘とする等式は成り立たないように思えます(’民主主義=主権者たる国民の意見が政治に反映される制度‘なのでは?)。むしろ、菅官房長官は、田中角栄氏を継ぐ‘第二の今太閤’と表現した方が相応しいようにも思えます(親中派という意味においても…)。

 

 もっとも、同氏の言う‘普通の人間’とは、政治家になるために必要とされる地盤、看板、かばん(資金)の‘三ばん’を親や親族から引き継げない人、即ち、‘世襲議員ではない’という意味なのかもしれません。しかしながら、そうであるからこそ、むしろ、文字通りの“普通の人(凡庸な人)”にはないような‘政治的な才能や能力’、すなわち、政治力学に対する敏感な臭覚、飽くなき出世欲、金銭欲、そして、支配欲、さらには狡猾さを備えている必要があります(現在の日本の政界を見る限り、国家国民や公益のために働こうとしている政治家は殆ど見当たらない…)。むしろ、能力面や欲望面に注目しますと、凡そ自動的にポストが継承される世襲の方が、卓越した才のない人、即ち、“普通の人”でも、有権者による選挙の‘洗礼’さえ受ければ、政治家の椅子に座ることができるのです。

 

 あるいは、‘普通の人間’が、一般的な語法に近い普通の人間であるならば、他の誰かによって、ポストを与えられている可能性もないわけではありません。二階幹事長をはじめ、公明党など、与党内には中国、並びに、同国のバックともなる国際勢力の影響力が浸透しています。日本国の首相を自らの‘操り人形’にしたい側としては、卓越した政治的才能・判断力・思考力など不要であり、抵抗勢力ともなり得るような既存の政治勢力との関係が薄い人物の方が望ましいはずです。そして、こうしたバックによる人選が、日本国の民主主義のみならず、独立性をも脅かすことは言うまでもないことです。

 

 以上の諸点の何れから見ましても、菅官房長官の民主主義観には危うさがあります。かつて、民主党政権時代にあっても、菅直人元首相が‘議会制民主主義は「期限を切った独裁」’と述べて、その民主主義観が国民を唖然とさせましたが、首相の民主主義観は、その政治手法にも反映されるのですから、国民も敏感に反応せざるを得ません。

 

そして、同発言は、むしろ、今日、日本国をより善い国にしていこうとする志を抱く‘普通の人間’が、様々な障壁によって政治家にはなれないという問題点を浮き彫りにしているようにも思えます。選挙に際しての供託金は巨額ですし、政治家養成の仕組みも整っているとは言い難い現状にあります。また、政党内を見ましても、幹事長の意向で立候補者や選挙資金の配分が決まるようでは、国民のための政治を目指して自らの政治的信念や政策を貫くことは難しく、結局、組織内を上手に泳ぎ回るだけの政治屋しか育たないかもしれません(今般の総裁選挙でも、バンドワゴン効果、即ち、‘勝ち馬に乗る’現象が指摘されている…)。

 

 日本国の民主主義を発展させるには、まずは、被選挙権の側面、すなわち、一般の国民に首相を含めた政治家への道を開く政治改革こそ必要なのではないでしょうか。与野党ともに、内心において閉鎖的な空間の維持、即ち、権力や利権等の独占を願い、事前に候補者が巧妙に選別されてしまう現状では、民主的選挙もまた無意味となりかねません(北京政府に選挙がコントロールされる香港の状態に近い…)。政治家は、常々、国民に対しては改革姿勢をアピールしていますが、真の意味において‘普通の人間’が首相に選ばれるような民主主義国家を実現するためには、政界の自己改革、あるいは、一般の国民への開放こそ急務なのではないかと思うのです。

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