万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

木村容疑者の問題提起の波紋

2023年04月19日 12時43分07秒 | 統治制度論
 先日、和歌山県で発生した岸田首相襲撃事件は、実行犯として逮捕された木村隆二容疑者が黙秘を続けているため、様々な憶測が飛び交っています。その一方で、同事件は、思わぬ方向に波紋を広げているように思えます。

 本ブログでも述べたように、偽旗作戦や謀略の実在性が証明されている今日では、統一地方選挙にあって自民党が勝利を収めるための自作自演であった可能性も否定はできなくなります。現場の様子や政府の対応に既に準備されていたかのような不自然な点があったことに加え、現に、事件直後に低下傾向にあった岸田内閣への支持率が50%近くまで急上昇しました。世論調査の結果としながらも、岸田政権への国民の不満が渦巻く中での不自然な支持率上昇が、かえって茶番説を裏付けてしまった感さえあったのです。また、日本ファクトチェックセンターが突然に出現し、自作自演説に挙げられていた根拠を悉く否定する動きを見せました。立て続けに‘誤り’と判定する‘慌てぶり’も、火消しに奔走しているかのようで、怪しさを倍増させてしまったとも言えましょう。なお、ファクトチェックによって疑惑が晴れたとは言えず、今日なおも茶番であった可能性は燻っています(元統一教会への批判的な態度も山上容疑者と共通しており、何らかの組織性が疑われる・・・)。

 国民の多くが岸田首相襲撃事件には何か‘裏’があると疑う一方で、マスメディアの多くは、木村容疑者の個人的なテロとして扱っています。このため、報道の大半は、同被告の生い立ちや家庭環境、家族、親族、友人、知人の証言、爆発物の能力、警護体制などによって占められています。もっとも、組織的な背景のない一国民による犯行ともなりますと、政府が国民監視体制を強化する口実にも利用される怖れもあります。今後、選挙の街頭演説に際しては、監視カメラや顔認証装置が設置され、聴衆の一人一人がそのアイデンティティーを含めて密かにチェックされるかもしれません。メディア等による単独犯行の強調も、自作自演説が疑われる理由ともなりましょう。

 そして、黙秘を続けている木村容疑者による犯行の動機が、現行の選挙制度等に対する不満であったのではないか、とする報道も、国民の懐疑心を深めるに十分な情報でした。何故ならば、国民に負担ばかりを強い、国民を蔑ろにする岸田政権に対する国民の不満を自らの動機としてアピールすれば、木村容疑者は、山上容疑者以上の一種の‘民衆的なヒーロー’になれたかもしれなかったからです。暴力行為やテロは犯罪ですが、鼠小僧や石川五右衛門、あるいは、ロビンフッドといった、‘義賊’のような立ち位置となりましょう。‘国民を救うため‘と言われますと、少なくない国民が心を動かされ、木村容疑者に同情することでしょう。それが喩え犯罪であったとしても、人とは、得てして自らを犠牲にしても苦境にある人々を救おうとした行為に対して悪い感情を持たないからです。敢えて自らに有利となる供述をせず、黙秘に徹する木村容疑者の態度も自作自演説を強める要因の一つなのです。

 ところが、個人的な動機を選挙制度への不満と報じたことで、議論は、思わぬ方向に転がっていったように思えます。去年の7月に、木村容疑者は年齢や供託金制度など、選挙での立候補に際して制限を設ける現行の選挙制度を違憲として本人訴訟を起こしています。裁判記録が残されていますので、この情報は事実なのでしょう(同訴訟により、木村容疑者は何らかの組織によってマークされていた可能性も・・・)。容疑者本人は黙秘していることから、メディアによる動機の説明は過去の木村容疑者の政治的発言や行動に基づくものとならざるを得ないのですが、同動機もまた、現行の制度的問題を指摘しています。そして、それが民主主義の根幹に関わるものであっただけに、現行の制度によって護られてきた政治家にとりましては、痛烈な痛手となり得るのです。

 日本国民の多くは、憲法にも謳われているように、自国は自由で民主的な国家であると信じています。しかしながら、テロという行為を抜きにして、純粋に木村容疑者の主張を改めて考えてみますと、民主主義とそれを実現する制度との不可分な関係に思い至らざるを得ません。憲法等において自由や民主主義といった諸価値を掲げながら、それらが統治システムに組み込まれ、制度的に保障されなければ、‘人民民主主義’のように絵に描いた餅となってしまうからです。被選挙権の年齢制限には知識や経験の蓄積といった一定の合理的な根拠はあるものの、木村容疑者の問題提起にも一理があり、同感する国民も少なくないことでしょう。同容疑者が指摘した諸点のみならず、IT技術の発展した今日では、国民は、不正選挙や与野党共演の茶番、そして、世界権力による政府の傀儡化といった脅威にも晒されているからです。

 岸田首相襲撃事件は、結果として日本国民に対して民主主義の形骸化という現実をも突きつけることとなりました。価値の先取りが二重思考を是とする全体主義の手法の一つであるならば、民主主義や自由といった諸価値は掲げられた看板に過ぎず、日本国をはじめとした民主主義国家、あるいは、自由主義国家の実態も、人民民主主義の諸国と変わりはないこととなりましょう。主権者であるはずの国民は、政治の現状に失望しつつも、国民の利益となり、国民を護る方向に政治を変えてゆく民主的な手段も経路も失いつつあるのです。

 そして、岸田首相襲撃事件が自作自演であれば、現行制度の欠陥の表面化は、首謀者にとりましては予期せぬ‘やぶ蛇’となったのかもしれません。テロリストの主張とはいえ、必ずしも全面的に間違っているとは言えないからです。そして、テロといった暴力的な手段に訴えるのではなく、如何にして自由や民主主義を制度的に保障し、統治機能が国民のために働くように設計するのか、という問題は、同事件の真相の如何に拘わらず、日本国民が自らを救うために真剣に取り組むべき課題なのではないかと思うのです。

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