草花好きのひとりごと

植物の栽培記録や鉄道・路線バスなどの趣味について記しています。

紅葉ノ橋、紅葉の橋、紅葉橋

2012-02-23 | さくらそうに関するあれこれ
私の手元にある出版物に取り上げられている、さくらそう(日本桜草)に関する明治時代の資料である「宇治朝顔園月報 第六号(明治37年宇治朝顔園発行」、「桜草銘鑑(明治40年常春園発行)」を見ていて気づいたことがあります。

「宇治朝顔園月報」には、紅葉の橋 鴇色地ニ紅砂子絞リ鑼咲中輪
「桜草銘鑑」には、紅葉ノ橋 鴇色地紅小絞鑼咲中輪

他の品種名も含めて、「宇治朝顔園月報」は「の」、「桜草銘鑑」は「ノ」が使われていますが、どちらも同じものと思われる品種名が掲載されています。

そして、花容を示す文字からは、断定はできないものの現存する「紅葉橋(もみじばし)」と同じではないかと考えることもできるかと思います。
仮に同じものだとすると、いつしか「の」が取れたということになります。

「紅葉の橋」「紅葉ノ橋」「紅葉橋」が同じ花を指していると仮定して、話を進めます。

古い資料の品種名には無かった「の」が、後には付けられるようになったという例は少なくないと思うのですが、無くなったものは珍しいと思います。
後から付けられた「の」は、読みを示すために付けられたと考えられます。
例えば「駅路鈴」と書かれていたら、現代人の中でも浅学な私などは、そのまま「えきろすず」と読んでしまいます。

しかし、「宇治朝顔園月報」「桜草銘鑑」の時代になると、平仮名片仮名の違いは別にして、ほぼ現代の品種名の表記と同じように「の」が付けられています。

紅葉の橋、おそらく「もみじのはし」と読むと思いますが、特に発音し難いというわけでもなさそうですし、「の」が消えた理由は私には思いつきません。
突飛な想像かもしれませんが、「紅葉橋」は、「紅葉の橋(紅葉ノ橋)」とは別のものと考えた方が、私としては合点がいきます。
その想像を以下に記します。

1. 明治の末頃に記録されていた「紅葉の橋(紅葉ノ橋)」はその後、絶種してしまった。
2. それよりも後に、現存する「紅葉橋」が実生によって作り出されたか、以前から品種名が無い状態で伝承されていた。
3. 誰かが桜草銘鑑などの記録を見て、「紅葉の橋(紅葉ノ橋)」と上記2.の花と花容が類似していることに気づき、古い記録を参考にして、2.の花に「紅葉橋」と命名した。
4. さらに後の時代の人が、現存する「紅葉橋」と記録に見られた「紅葉の橋(紅葉ノ橋)」を同一と考えて、作出年代を江戸末期と推定して発表した。

古い資料に記載された品種名を見て、あれこれ想像するのは楽しいものですが、実際に時を遡って確認することは不可能で、写実的に描かれた絵図などの資料もほとんど発見されていないと考えられることから、江戸時代に作出されたものかもしれないし、後の時代に作出されて同名が命名されたものかもしれない、と曖昧に捉えておくのが間違いのないことだと私は考えています。

さくらそう(日本桜草)の鉢植え栽培という趣味について、江戸時代以来の伝統を重視し強調される向きもあるようですが、現代の方が栽培者、実生育種家の増加によって品種数が多くなり、さまざまな鉢や用土、肥料などが容易に利用できるようになったことで栽培技術も向上し、おそらく過去には見ることができなかったのではないかと思われる、美しい花を咲かせることが可能になっていると思います。
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