松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

決められない政治~電池~

2012-04-04 11:44:12 | Weblog
  


  司馬遼太郎著「風塵抄」の中に、「電池」という、短い文がある。1992年(平成4年)のものであるが、今の政治を見事に物語っているようである。その一部を紹介しよう。

 蓄電池、とくに乾電池を想像されたい。「さあ、新しい電池を入れたぞ」坊やが、懐中電灯のスイッチを勢いよく前に押す。
 おおげさでなく、闇黒という地球誕生以来つづけてきた世界に、人間が生み出した可憐なエネルギーが、わずかな面積ながら光明を生み出す。

 自然人に寿命があるように団体や法人にも、まして政党も寿命がある。むろん電池にも。
 私は団体の電池の寿命は、30~40年だと思っている。政党の場合はなおさらで、与野党の党首発言を聞いていてもわかる。電気を感じさないのである。
 とくに政党の党首の場合、吐く言葉の一つずつが電流になり、さまざまなモーターが動き出すべきものなのである。それだけの権限を法や党人や国民からあたえられている。しかし、こんにち、あきらかに電池が切れているか、切れたも同然になっている。光度が消え入るように弱い。
 「抜本的政治改革をおこないます」というはげしい表現が繰りかえされる。こんな大がかりな言をつかわねばならないのは、せめてスイッチを押す音だけでも高くせざるをえないからであろう。電池が生きていれば「政治改革をする」というひとことだけで満堂が粛然とし、満天下が奮う。
 日本の政党は、今後どうなるであろう。政治改革という電池の入れかえをとなえつつも、決して点灯することのない懐中電灯のスイッチを、カチカチと鳴らしているだけである。
電池の切れた政党では、首相の座にだれがついてもそうである。