波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

泡粒の行方   第15回き

2015-07-18 11:31:28 | Weblog
少年時代から青年へと変わるときでもあり、環境も村から町へと変わり人数も多くなり無意識のうちに世界が変わっていることに驚いていた。男女共学も中学から始まっていたが、男子生徒と女子生徒との協和は何となくぎごちなく不自然だった。そんな中で新聞部に在籍していた女子部員が欽二には妙に気になっていた。決して美人だったからではない。大柄で太めで凡そ女としての美観からすれば遠いものだったが、その容姿とは裏腹にその存在から生まれる知的な雰囲気と何ともいえない魅力に惹かれていたのである。「山本光」60年前の名前が今でも忘れられない。クラブ活動は部長の「藤原雄」をトップとして活発な活動をしていた。(参考に言えばこの藤原雄氏は後にジャーナリストを経て備前焼の陶芸家として成功している。)
欽二はこの中にあって相変わらずチビで目立たない存在であった。そんなある日岡山から一人の青年が訪ねてきた。そして彼との話の中で自分も慎重を高くしたいがどうしたら良いかと話すと「バスケットボールをすることを薦められた。早速学校で調べるとバスケット部は存在しないことが分かった。そこで希望者を募り始まったのだが、女子が多く男子の希望者が少なく、あまり活動できない状態だった。しかしこれで身長が伸びるならと続けていた。そして二年が過ぎた。その頃になると大学受験の話題になり、各自いつの間にかクラブ活動を避けて受験の準備に入っていた。しかし欽二は大学受験には興味が無く相変わらずの生活を続けていた。その頃「生徒会」と言うものが始まり、会長選挙が行われることになった。欽二は誰からの推薦とも無く立候補していた。どうやらこの辺にも目立ちたがりの性格が無意識に働き始めていたようだ。
何人かの候補が次々に講壇にあがり、自説を発表し選挙に入った。当人は会長を目指していたわけではなく、したい事をしたと言う思いだけだったのだが、結果は副会長になっていた。またその地区の高校弁論大会が開催されると聞くと、自ら出場を決めて出る準備に入っていた。原稿を書いていると10歳年上の兄がその原稿を覗き「そんなものじゃあ話にならないよ」といい、「教えてやる」と原稿に手を入れた。
その原稿を丸写しに覚えて壇上でぶち上げた。「青春とは顧みるときの微笑であるとゲーテは言った。」はその一説である。

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