波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

泡粒の行方   第13回

2015-07-04 11:01:09 | Weblog
岡山県は瀬戸内海に面した欧米で言う地中海沿岸に似た民度の高い地域である問い割れている。しかし欽二少年が父親と家族で疎開したところは岡山のチベットともいわれている
県北の僻地であった。それは工場立地として郊外の危険があると敬遠されて民家から疎外した山の谷あいにあったからである。小学校5年生でそこから学校までは4キロは佑にあり、都会育ちの子供にはかなりの遠距離であった。欽二は弟と朝早く家を出て冬も夏もその4キロの道を歩いて通ったのである。途中でへこたれて休むこともあり、農家の井戸水でのどを潤し、道端の草を食べ時には川で泳ぐこともあり、半日係の通学生活であった。しかし、子供心に都会生活から開放された好奇心と遊び心でまいにちをたのしくすごしていた。ただ苦痛だったのは「疎開っ子」としての地元の子供たちからのいじめだけはつらく、特に物資の無い時代とあって何かと家から持ち出すことを強制されたことは、親にも言えずずいぶんつらい思いをすることになた。
そんな中で唯一慰めになったのは同じ学級に東京から疎開してきた友達が居たことであった。可愛い女の子でひときわ目立った子であった。欽二少年は何かと話しかけて東京の話をしながら慰められたり、励まされたりしてそのときだけが心の休まるときであった。
中学は新制中学として男女共学となり、新しいクラスが出来て新しい友達も出来てきた。
そしてその頃から少しづつ自分自身を取り戻し学校生活を確立することが出来た。
運動会で男女で手を組んでダンスをしたり、学芸会で独唱をしたり放送部でアナウンスをしたり、出来ること、したいことを積極的に参加していたのもこの頃であった。
食料は不足気味で母は自分の持ち物を農家へ行っては食糧に変えて育ち盛りの三人の男の子に食べさせ、小さな土地を開墾しては家庭栽培をしながら食料の足しにしていた。
そんな時はいつも母と一緒に畑仕事をしたのは欽二であり、兄も弟もすることは無かった。社宅のある家の下は川あ流れていて釣りをしたり泳ぎも出来るのは楽しいことのひとつだった。水泳は誰に教えてもらったわけではなかったが、毎日泳いでいるうちに25メートルの川を泳ぎきることが出来るようになっていた。それは大人になってからも大きく役にって居た。