波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

泡粒の行方   第16回

2015-07-25 09:46:38 | Weblog
高校時代は「青春時代」と歌われたように青春真っ只中だった。何の心配も不安も覚えず
好きなことを何であれ全身でぶつけ爆発することが出来た。贅沢は無かったが、家族もそっと見守っていてくれて、何も言うことはなかった。大学を受験することを意識するものは岡山の学校へ転校したり受験のための勉強に取り組んでいた。
そんな時、学校同士の合併の問題が起きた。それは「閑谷分校」と呼ばれ兵庫県との県境に近い山の中にあった。その昔は男子校としてかなり名も通り生徒も優秀なものが出たのだが、交通の便が悪いことや生徒数が減ってきたことで持ち上がった問題であった。
そしてその分校への希望者が募られた。欽二は真っ先に手を上げていた。何も分からなかったが、何でも新しがり屋で好奇心の強い性格が無意識に動いていたのだろう。
町から20キロほど山に入った静かな所である。成るほど「閑谷」とは良くつけた名前だと思わされた。
校舎はあるが、それは後から出来たもので元は岡山池田藩の家老をはじめ子弟の学問所としてわざわざ山の奥深くのところへ作り「孔子廟」もあり、国宝とされる講堂もあった。宿舎も言い訳ほどのものが一棟あり、いつも地震かなと思うほど生徒が走ると揺れるほど古く、何時倒れてもおかしくないほどであった。高校三年の春、欽二は20名ほどの仲間とその宿舎へ入った。本来なら勉強には最高の環境であり、集中できるはずであったが、生来ののんきな性格と自由な生活の中で欽二は開放感の中でのんびりと過ごしていた。
僅かに女子も居たが、前の校舎と違い男子だけの教室である。授業が終わると好きなバスケットの練習に明け暮れ、その成果として身長も人並に伸びてきた。
バスケットは練習試合があり、岡山市内や郡部へ遠征に行くこともあった。試合はいつも補欠でボール拾いの役でしかなかったが、時折、交替選手として試合に僅かな時間に選手として出ることもあり、それで満足できていた。その時つけたナンバー11は忘れられない番号となった。
国宝とされた講堂では「漢文」の時間だけに限り使用が出来た。何百年の歴史を刻んだ
総檜作りの講堂での時間は今でも貴重な思い出として残っている。
あの静寂さは嘗ての武士たちの魂が残っており、まさにタイムスリップした異様な雰囲気があった。(現在も存在しているが、使用は禁止されている。)

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