波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

      思いつくままに

2013-01-08 14:40:52 | Weblog
「七草粥」が終わると急に正月気分もなくなり元の気分に帰るような気がする。
でも落ち着いて自分を振り返ると少しづつ疲れやすくなった肉体と、ともすれば折れやすくなっている心に気づいて、変わりつつあることを自覚できる。
しかしこうして健康を持って生かされていることは大切であり、貴重な時間でもある。そう思い直すと日常生活を如何に充実して過ごすか、そのために何を柱にして生きるかを
きちんとして、忘れずに生きることが肝心だと自戒している。
初詣に出かけて願うことが正月(年の初めの)恒例になっている。この時ばかりは神(各人異なるが)の前に神妙に祈り、ささげもの(お賽銭)をする。その願い事であれ、望みごとがかなうことを願うのである。しかし、それはその時だけであり、その願い事や希望が適わないと、殆どの人がその神も祈ったことも忘れて自分の力、考えで行動している。
神はその時点ですっかり消えてしまっていることになる。
しかし本当の神に近づき神に語り、向き合うこととは本当の祈りにあるのだ。それは
その求めや願いが叶うとか、叶わないと言うことではない。祈りは神の求めに応えて語り合うことにある。決して自分の思いを聞いてもらう(それは良いのだが)叶えてもらう事にあるのとは違う。従ってまず自分が生かされ神と語り、神に求められることに「感謝すること」が第一にならなければならないと思う。
現実的にはこの世における様々な苦しみ、悲しみ、悩みはなくなることはない。時には
欠乏、喪失を味わうこともある。自分自身の悲しみや苦しみも当然生まれてくる。
それらを消してもらいたいと求め願うこともあるが、その中にあってもまず感謝して
祈る姿勢が求められているのだ。自分がどんな状況、状態に置かれてもこの姿勢を忘れず
この姿勢のうちで心の嘆き、願いを注ぎつつ生きることが大事だと考えたいのだ。
この一年にどんなことが待ち受けているのか、何が起きるのか、誰もわかっている人はいない。政権が変わっても大きく自分たちの生活が変わるわけでもない。
とすれば、自分自身でどんなとき、どんな状況におかれても「感謝して祈る」ことを
忘れずに守ることができれば、不安な時を持たないで生きることができるとそう信じて
そう願っている。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿