波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

            思いつくまま  

2010-07-14 09:52:04 | Weblog
お盆の季節になった。(新)旧盆でされる人はあと一ヶ月先だが、私は昨日墓参に出かけた。小雨の降る少し涼しい中で、蚊にも刺されず墓石を洗い、草を抜き周辺を掃除する。
花を差し墓前に手を合わせると自然に亡くなった父や母、兄、義姉、妻、叔母の顔が浮かび共に生活をしていた頃を思い出す。そして教えられた数々、思い出が自然によみがえってくる。
自分が今日こうしていることの幸せは、自分ひとりの力ではなく身近な家族、先人の尊い恵みの上であることを思わされるのである。
しかし最近ではこのような習慣は年々風化しつつあるようで場所によっては墓地自体の管理が行き届かず、それぞれが墓参の習慣を止めるようになって荒れ放題になっているところも増えているようである。つまり二世代、三世代となるごとに「墓参り」をすることは無くなりつつあるようだ。その所為か最近では墓を必要とせず、「散骨」で済ませてしまう人も多くなっているということも聞く。これも時代の流れで止むを得ないことかと理解しつつも
亡くなった家族、先人を思う心が失せつつあることをやはり淋しく思わざるを得ない。
それは人間として最も大事な心の形成の上に大切なことだと思うからである。
確かに生存していた時のこの世での生活の中での、喜び、悲しみだけでなく、憎しみ、恨みなど人間としての感情は残る場合もあると思う。しかし、交わりを持ち、かかわりを持って
共に生きたことは当然自分も助けられ、生かされてきた証でもあるはずである。
そのことを考える時、一年に一度心静かにその事を覚えて感謝の祈りを捧げたいものである。ある本にこんな事が書いてあった。「私は死者のことを考えるときに不思議とその死が
陰隠滅滅なものではなく、明るくほんのりと感じられる。どんなにささやかであろうと身近な人に寛大で優しくそれらの人々に希望を与えるために努力し働いた人の死は暗いものが無い。愛は人間の問題を解決するエネルギー源であり、どのような生涯をも哲学的な意味づけを行いうる「叡智」である。人間が人間として完成した形で生かされるのは心が添えられた時である。いい、悪いの問題ではなく、自然の現実である。」
墓参の帰りに、道の駅に立ち寄り買い物をし、偶然見つけたコーヒーショップでコーヒーを楽しみ、死者を思いつつ、自分の人生を顧みるひと時を持った一日であった。