波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

白百合を愛した男    第5回

2010-07-05 10:07:24 | Weblog
小さく見えていた陸が次第にはっきり見えてくる。朝もやのような霞の中からぼんやりとしていた桟橋もくっきりと見えてきた。「着いたんだ。来る事が出来た。」美継は万歳を叫びたい思いだった。気持ちが悪かったことも、良く眠れなかった寝不足も気にならなかった。
船は大きく汽笛を鳴らし、岸壁への接岸の準備を始めた。乗客は思い思いに荷物を片付け
降りる支度を始める。やがて船は静かに止まり下船が始まった。たいした荷物も無かったがしっかりと風呂敷を背中に背負い、手にも荷物を持って岸壁への階段を下りる。
ふらふらする身体をタラップの手すりに捕まりながら、そろそろと降りる。しっかりと下へ降りると何となく身体が落ち着く。どこに伯父さんがいるのか慌ててきょろきょろとする。
周りは見たことの無い衣装の人たちで、聞いた事のない言葉で大声で話しているが、何を言っているのか全く分らない。どうしようかと立ち止まり、辺りを見回していると、大きな声が突然聞こえてきた。「美継か。良く来たな。船は大丈夫だったか。」大きな声だ。
見ると頭に金縁の線の入った帽子を被り、腰には長いサーベルのような刀をさげ、顔には立派な髭をつけ、立派な長靴をはいた人が立っている。慌ててぴょこんと頭を下げ「美継です。よろしくお願いします。」と小さい声で言う。すっかりその威厳に圧倒されていたのである。「降りてきたお前を見て、心配したぞ、青い顔をして小さい身体で荷物を持ち、ふらふらしながら降りてくるので、倒れるじゃないかと」と言うとあははっつと豪快に笑い出した。それを聞くと美継も嬉しくなり、伯父の顔を見ながら少しほっとする事が出来た。
やがて船着場を少し離れたところまで歩くと、其処には黒塗りの自動車が止まっていた。
荷物を載せて一緒に乗る。田舎にいたときは滅多に車も見たことは無かった。町に出たときに偶に通るトラックを見たことがあるが、こんな立派な車は始めてであった。ましてそれに乗ることができるなんて夢にも考えられず、まるで雲の上に乗っている気持ちだった。
町の中に入り、車は止まった。降りると其処には立派な警察署があり、人が出たり入ったりしていた。「おまえはこれから官舎へ行き、其処で休んでいなさい。後でゆっくり話すから。」そう言うと、さっさと行ってしまった。美継は言われたとおり小さな部屋へ通されて
そこで待つことにした。
いよいよここで新しい生活が始まることになる。親を離れ、日本を離れ、誰の力にも頼らず、歩き始める第一歩だった。美継15歳の春である。