波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「一日を考える」

2018-09-17 10:44:22 | Weblog
「若いときはいくらあっても足りなくて年を取ると余り過ぎて困るものなーんだ?]というなぞなぞをかけられたら、あなたは何と答えるでしょう。
私なら即座に「それは時間です」と答えると思う。それほどに若いときは、いくら時間があっても足りなくてあれもこれもと夜も眠るまもなくうごいた。
(お断りしておくが、必ずしも仕事や学びの時間で過ごしていたわけではなく、遊びの時間も含めむしろ遊びの時間が足りなくてかもしれない)それほどに体も動いて人間関係も多く(必ずしも必要な人間ばかりとは言えなかったが)毎日無駄な時間を過ごしていたような気がしている。
そしてその時間が年を取るほどにあまりはじめ仕事をやめ家族とも離れ離れになると(つまり一人暮らしになると)まるで時間が止まってしまったかのように余り、考えられる予定を済ませてもまだこんな時間か?と思うほどに時間の過ぎるのが遅く感じるのである。(一人暮らしは特別な理由があるわけではなくむしろ自分の意思であるが妻が早世したことが大きいかもしれない)
それ程に自分で自分を動かし出来ることも少なくなってしまうのである。庭の草抜きであっても手入れであってもどんどんできていたのに、少しやっても30分も体を動かすと足腰立たなくなるほどで休憩を余儀なくさせられることになる。
そしてむなしく一日が過ぎていくのである。考えてみると残された時間が少なくなるほどにできることが少なくなるのである。理屈から言えば残された時間が減るごとにしなければいけないことが増えなければいけないと思うが人生は皮肉なものである。
そんな日々を過ごしながらどうしたら一日を「悔いのない一日」にして過ごすことができるか、それは今の私にとって最大の「課題」になっている。
当然ながらその前提には自己の「健康管理」が第一であり、この上に立ってのことであるが、現在のところ医者の薬は欠かせないが最低限の管理ができていると考えられるので、何とかその範囲で充実させたいとしている。
考えられるのは「聖書通読」「ブログ作成」「以後学習」「テレビ囲碁鑑賞」「趣味読書}長時間が持たないが続けたい・
そのほかに家事もある。そして最近始めた「アルバイト作業」となる。
昨日敬老の日にちなんで牧師から祝いの言葉を受けたが「アブラハムは75歳で神の召しを受けモーセは80歳アロンは83歳に召しを受けた」と教えられた。人はそれぞれに召されるまでそれぞれに役目を負わされている。そのことをしっかり考えたいと主思う。

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