波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「役に立つ存在」

2018-10-08 10:22:13 | Weblog
人は人生の後半(終わりが分からないので)になると、自分自身の人生を顧みるようになる。そして自分が何のために生きて何をして何の役に立ったのだろうかと不図考える時がある。果たして自分が生まれてこの世に生きていることが意味があったのだろうかとも思う。そんな時
それは言い換えると暗い夜道をただ一人で歩いて心細い思いの中にいる時、そばに誰かが佇んでいることが分かり、ほっとして安心することに似ていて
人は「存在する」だけでも知らずに人の役に立っていると考えてもよいのかもしれない。
私はこの年(83歳)になるまでに何回か「死」に直面する時を経験している。「死」といえば大げさかもしれないが「気を失い、意識がなくなる」ことを経験している。最初は5歳くらいの時で(その時の意識は今でもあるが)3階の物干し場から路地裏に墜落した時、落ちて立ち上がり、驚いて2階から降りてきた母親の胸に抱かれ、その瞬間に気を失ったこと。そしてもう一度は79歳の時、(ちょうどクリスマス)教会で祝会が終わり、お客様を見送り
休憩をするために集まろうとしていたことまでは覚えているが、そのあとのことは記憶にない。気が付いたのは救急車の中で名前を呼ばれて、目が覚めたように気づかされたときである。ほかにも立ち眩みやめまいで瞬間記憶が消えてエスカレーターから転がり落ちたこともあり、何度か危ない経験をしている。そのたびに大きなけがや後遺症の影響などを心配したが命はおろか、けがも最小限で済んでいまだに健在で生かされている。
人の運命は(人生)は自分で左右しているようで、そうではなく生かされ用いられていることがよくわかる。私ももしこの世で必要がなければ神のもとへすでに招かれていただろうし、この世での存在は消えてだれの記憶にも残っていない存在だろう。
しかしこうして家族とともにこの世にあって、少しでも存在することができる事は何か生きていることで何かに役に立っていることになることを知るべきであり、知らず知らずに何かをしているのである。今シルバーセンターの紹介で週一回の作業ができていることも幸せである。
そして突然古い知人からの電話や面談のお誘いを受けることの幸せをかみしめるのである。


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