goo blog サービス終了のお知らせ 

J-Blueの雑記帳(近場を歩く)

此のBlogを雑記帳代わりにと始めました。最近はハイキング・旅行等の写真を中心に記録性を高めた内容と編集にして居ます。

「千畳閣」

2008年02月10日 | ツアー旅行

豊国神社(千畳閣)は、天正15年(1587年)豊臣秀吉は戦歿(せんぼつ)将兵の
慰霊の為に大経堂として建立されました。本尊は薬師如来ですが明治初年、神仏
分離令により大巌寺(安芸の宮島)に移されました。

着工から10年あまり経ち、完成前に秀吉が死んで仕舞ったため未完成のままで
すが、その為板壁、天井などが無く床も板張りのまんまです。
畳857枚の広さが有ると云う。そこから千畳閣と云われる様に成った様です。
隣に建つ五重塔と共に国の重要文化財に指定されています。
海側から見ると丁度、厳島神社拝殿の背後に屋根だけが見え、隣の五重塔が良く
見える。
本殿は入母屋作りとなっていて破風は古くなったとは云え、とても立派な物だ。

見学には拝観料を徴収されますが、中に入ると天井がないせいで小屋組がよく見
え、屋根の構造が良く解る。棟木には奉納された絵馬などが掛けられて居るが飾
り気は全くなく、ガランとした内部は、スケールの大きさが直に伝わってくる。
さすがに秀吉が作らせただけ有り使われている材料なども立派な物だ。
外側回廊の羽目板などは、京都三十三間堂にも劣らぬ物で頑丈な作りです。
完成していれば、さぞ立派な建物に成って居たはずと思います。

アーカイブ・シリーズ(No7)「広島県鞆の浦・尾道・厳島神社・山口県岩国」

「厳島神社」

2008年01月18日 | ツアー旅行
写真は客神社(まろうどじんじゃ)、厳島神社の参拝入り口から回廊を歩くと此の
神社の本殿を見る事になる。
丁度此処に着いた時は満潮に近く海面が可成り上昇していた。
御本社へは、此処から東回廊を渡って拝殿、本殿に至る、いくつもの建物が全て
回廊で結ばれていて、御本社本殿を中心に東回廊、西回廊と広がり、本殿前には
「高舞台」があり、此処で舞楽が奉納される。
海側から見ると、鳥居、平舞台、高舞台、拝殿、本殿と一直線になる。

ここ厳島神社は宗像三女神(むなかたさんじょしん)(市杵島姫命、田心姫命、湍津
姫命)を祀る「市杵島姫」(イチキシマヒメ)日本神話に登場する「水の神」は江ノ島・
竹生島とともに日本三弁天の一つとも成って居る。
又この三女神は海の神、航海の神として信仰されている事から、熊野灘、瀬戸内海
の海の道の守護神でも有ったのだろう。
イチキシマヒメと云う名前も「厳島」の語源に成ったのでは無かろうか?

厳島神社は世界遺産にも登録されていて1400年の歴史を持つ。
西暦593年推古天皇から始まり平安時代末期(1168年)頃平清盛が現在の社殿
を造営、その後毛利元就(1555年)が厳島一帯を支配下に置き、大掛かりな修復
など行った。
又豊臣秀吉も敷地内に大経堂(千畳閣)を建立しています。

アーカイブ・シリーズ(No7)「広島県鞆の浦・尾道・厳島神社・山口県岩国」


「岩国錦帯橋」

2008年01月03日 | ツアー旅行
錦帯橋は延宝元年(1673年)3代藩主、吉川広嘉の時代に作られその後幾度も
架け替えられていますが戦後昭和25年台風に寄る流失が有り、3年後に再建さ
れ、その後平成3年に本格的に架け替えられました。
そうして、架け替える事により江戸時代の技術が伝承され当時の姿を今に残して
います。
材料なども全て国産材を使用している様で、本体の木組みは独創的で日本三名橋
の筆頭になっている様です。
橋の下から眺めるとその木組みは芸術的で美しい。この橋を渡るには料金が必要
で橋の両側には管理人が常駐し朝8時から夕方まで通行可能になっています。
もちろん自動車などは通れませんが、歩いて居ても段差が有り、景色に見とれて
歩くと少し危ないかも!

川の向こう岸に見える町並みは「岩国城」の城下町で武家屋敷が連なっています。
山の上に山城「岩国城」が有ります。この城は慶長13年(1608年)旧岩国藩主
吉川広家の築城ですが、7年後に徳川幕府の命令で取り壊され、現在の物は昭和
37年に再建された物です。
ここへはロープウェーで行けるのですが、この日は時間が無く、手前に有る「吉香
公園」内を散歩してその日は終わりにしました。

アーカイブ・シリーズ(No7)「広島県鞆の浦・尾道・厳島神社・山口県岩国」


「広島平和記念公園」

2007年12月15日 | ツアー旅行
平和記念公園へ西側から入ると真っ先に目に付くのは、「原爆死没者慰霊碑」
だ。
毎年8月6日の原爆の日にテレビ中継される場所で、ここで記念式典が催される
この公園を中心とする一帯が「太田川」の中州と成って居る様で、橋が幾つも掛
けられている。
公園内には駐車場が無く、当初駐車場が在ると思って公園の外周を2回も廻って
仕舞いました。

丁度 「原爆死没者慰霊碑」の祭壇に向かい見ると原爆ドームが真正面に見え
る。園内には原爆に関する幾つもの施設などがあるので「広島平和記念資料館」
を中心に廻ってみた。その日は、午後に広島市に入った為、時間が少なく見学す
るのに結構時間は掛かりましたが、それだけ重みのある時間でした。

翌々日、(岩国から戻り)再度平和記念公園を訪ね、その一角に「広島城」があ
るので、其処を訪れました。
原爆関連の方が余りにも有名で、観光客も此方の方までは余り来ない様ですが
、資料館の方の賑わいとは打って変わり、静かでした。しかしこの日は最終日
の為新幹線乗車の為、時間が無くなり、城の中までの見学は出来ず残念だった。

この城は1945年原爆によって全壊したが、1958年に再建された(かっては国
宝となっていた)。1589年毛利輝元が築城、5層の天守閣は中々美しく、木造
で再建されている。

広島と言えば「お好み焼き」が名物だそうな、そこで御多分に漏れず自分
達も昼食に「お好み焼き」を食べた、しかし繁華街のためレンタカーの駐車場探
しが大変、公共の駐車場がないか探したのですが見付からず、やむを得ず広島
市役所の駐車場に入れてしまった。。。。。
その近くのビル地下にある「よっちゃん」というお好み焼き専門店で、小さなお店
ですが、昼時で在る為近所のビジネスマンが多く、観光客相手の店と違いボリュ
ームの在るお好み焼きで味が少し濃かった物の中々美味でした。

アーカイブ・シリーズ(No7)「広島県鞆の浦・尾道・厳島神社・山口県岩国」


「尾道・千光寺公園」

2007年12月07日 | ツアー旅行
この写真は千光寺公園展望台から、瀬戸内海の西方向へカメラを向けた物で
天気が余り良くなく、遠景の各島と空がぼんやりとしてしまった。
写真は「瀬戸田」「因島」方向ですが、写っている「島」は一番手前の「向島」と
思います。
この写真の奥の方には四国へつながる「しまなみ海道」が通っている。
左方向を見ると「新尾道大橋」がよく見える。
尾道は、瀬戸内に広がるホンの小さな町で、海岸から山側に架けて一気に
駆け上がり、中腹には各お寺が国道に沿うように連なっている。
海側には尾道本通り商店街がアーケードと成っており、尾道駅から歩けば此も
楽しい。
此の商店街から、国道2号線、山陽本線、千光寺山を眺めると、どことなく映画
に出てくるロケーションの雰囲気で、私は思わず「寅さん」の映画の1シーンを
思い出しました。
どことなく人間くさく、歩いて居る途中道を間違えたのですが、おばあちゃんが
親切に道を案内してくれたり、ロープウェー乗り場の係員の方が親切だったり。

急斜面を階段が続き中腹に住んでいる方は大変だろうと思いますが、素朴な
味わいのある雰囲気がとても、心に浸みます。
千光寺公園から商店街に戻り、昼食に「尾道ラーメン」を食べました。
何件か在りますがガイドブックに出ている有名店を訪ねましたが、満員でお客が
並んで居るので「即」諦めて別なお店にしました。
其処は「たに」と言う小さなお店で女性2がきりもりをして居ましたが、私は昼定食
の「Bセット」鳥から揚げ、白ご飯、ラーメン・・・・・・上手かった!

其れから、腹ごなしに商店街をそぞろ歩き、お酒を買ったりラーメンを買ったり、お
陰で荷物が増えました。。。。。。

ここ数年中小都市へ行くと、日中商店街の人通りが極端に少ない気がします。
ここ尾道も例外ではない様で、商店街の再開発は終わっている様ですが、やはり
人が集まらなければ活性化は難しいのでは無いかなと心配になります。

アーカイブ・シリーズ(No7)「広島県鞆の浦・尾道・厳島神社・山口県岩国」

「鞆の浦」

2007年11月29日 | ツアー旅行
町の家並みは古く道も細い、しかし人々の生活感あふれる街の景観は忘れ
がたい物があり、都会の様にけばけばしさはなく静かで落ち着いている。
自転車で1時間も廻れば町の全ての道を廻れるほどの場所だが歴史を感じ
させる土地でもある。(実際にレンタサイクルで廻った)
町の小高くなった一角に海岸山千手院福禅寺(平安時代天暦年間950年頃
創建されたと在る。真言宗のお寺で、その本堂に隣接して「対潮楼」がある江
戸時代(1690年)「朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内」として国の史跡に指定。

昭和30年以前はここ対潮楼のすぐ下は海岸だったらしいが、今は埋め立て
られ県道に成っている。
今年は朝鮮通信使400周年との事だ。

町の中に3軒程の薬用酒を造る蔵元が有り何れも「保命酒」言う名前で販売
されて居るが、お店の女将さんに聞いたら各蔵元独自の薬草の調合具合や
味が微妙にちがうそうだ。
その日の宿は「景勝館」、海岸縁の建物で鞆の浦港がよく見える温泉宿で
料理も美味しく宿の応対も良く最上階の露天風呂からの眺めは、モ~最高
の気分だった。

アーカイブ・シリーズ(No7)「広島県鞆の浦・尾道・厳島神社・山口県岩国」

「中富良野町」

2007年07月18日 | ツアー旅行
写真手前の赤い花は「ハマナス」この時期に満開に成っていて北海道内
各地にハマナスが有り、赤紫に色づいた花は周囲の景色に溶け込んで
いた。
写真一番手前と真ん中当たりがラベンダーですが、今頃同じ場所で撮影
すれば、「絵」に成る写真が撮れたかも知れません。
この当たり一帯は大規模な畑ですので、植えられた作物により、様々な
色合いとなり、此の季節から秋に掛けて最も北海道らしい景色に成るの
では・・・・
最も、農家の方は観光の為に作付けを行っている訳では無く、この時点
で苗の植え付け等、農作業が大変な様でした。

ファーム冨田は観光農場に成っていますが、場内の売店も充実して居て
中でも香水専門館が有り、其処を見学した際、色々な香をかいだせいで
店を出る頃は何が何だか解らなくなりました。(汗)

「トラピスチヌ修道院」

2007年07月11日 | ツアー旅行
写真の建物は昭和2年に再建された物の様で、一寸目には非常に綺麗で
つい最近建築された様に見える。
写真中央の丸い建物に有る「像」はジャンヌダルク像。 建物内部は一般
に公開されてい無いが、トラビスト会の厳格な戒律により運営されていて。

1日に7回の祈りを捧げ「聖務日祷の時刻には、合図が聞こえるや否や、
どのような仕事に携わっていても即座にこれを差し置き、急いで集合しな
ければならない」(戒律43章)
又日々の労働は「怠慢は霊魂の敵である。われわれは師父たちや使徒
の例にならって、みずからの手で労作し生活してこそ、まことの修道者と
いえるのである」(戒律48章)
「修道者たちは、酪農のほかに、バターやクッキー、バター飴やジャムを
製造し、つつましい仕事の中にも労働の価値を世にあかしする者になり
たいと思っています。」
以上 巌律シトー会公式ホームページより抜粋

自給自足の生活をしながら、神に祈りを捧げる日々・・・・・
娑婆の人間にとってはチョイと堅苦しい生活かも・・・・・・

「夜景」

2007年07月08日 | ツアー旅行
函館山から見た夜景です。一番上の展望台からの撮影ですが人が沢山
居て、三脚を立てられる状況ではなく仕方なく手持ちで撮影しました。
シャッタースピードは1~2sec程と思いますが、他の観光客は携帯や
デジカメを手持ちで盛に撮影していましたが、恐らく殆どブレているので
は無いかと考えられます。
そう言う自分も10枚程撮影しましたが、使えるのは2~3枚でした。

バスツアーでの旅行でしたので、何処へ行っても人が多く、コレは同じコ
ース上に何台ものバスが同時間に到着して同じ様なパターンの行程だか
ら仕方が無いのですが、北海道辺りになるとやはりツアーでの旅行が楽
に成ると様ですネ!

「金子みすず記念館」

2006年04月11日 | ツアー旅行
 観光ツアー2日目、生憎の雨でした。バスは萩市から朝一番で長門市仙崎
金子みすず記念館」へバスガイドさんから「金子みすず」の生き様や生涯の話
を聞き乍ら一路仙崎へ・・・・・・

 其処は数メートル幅の大して広くない通りに在った。その名も「みすず通り」
金子みすず記念館は山口県長門市仙崎に在り、表の大看板は「金子分英堂」
と右から左への横書きだ。金子みすず(詩人)は此処で生まれ育った、建物は
再建された物だが当時のまんまの様だ、棟続きで記念館本館があり詩集など
縁の品々が展示してある。
明治~大正と此の時代御多分に漏れず金子みすずも女性として無権利状態
の中で生き辛い日々の中で最後に自ら命を絶つと言う運命に成って仕舞った、
26歳という若さだった。
彼女に付いて今更此処で解説するまでもないと思うので興味のある方は「金子
みすず」と検索を架けると沢山出てきます、検索して見てください。

写真は「金子みすず記念館」の真向かいに在る「みすずこうぼう」と言うお店兼
ライブハウスだ。此のお店のオーナー「もりいいさむ」さんは、「金子みすず」の
詩に自ら作曲した曲を付け自ら歌い活動して居る方です。
「20年間、金子みすずの心を一筋にうたいつづけて・・・・・・・」パンフレットに在
る台詞です。訪ねた当日は時間も無くお客も居なかったので、残念ながら「もり
いさむ」さんの歌は聴けませんでしたが、お話だけは伺うことが出来ました。


アーカイブ・シリーズ(No3)「山口県萩・津和野ツアー」編

「萩市内と武家屋敷」

2006年04月05日 | ツアー旅行
 この写真は、萩市内の観光案内図。旅行に行くと大体こうした案内図が在り
その写真を撮る、今回の旅行はパックツアーの為決められたコースを回るだけ
の為、自由が効かず今回も武家屋敷の一角をホンの少し回っただけに終わった
其れでも必死に写真だけは撮った、何枚かを「PhotoGallry」にまとめたみた。

 幕末の獅子を排出した「萩市」長州藩。革命と言って良いか悪いかは私には解
らないが、大政奉還を成し遂げ明治政府を作る大きな原動力に成った「松下村塾
塾生」及び「松下村塾門下生」の生まれ育った地だ。
塾生の主だった者は若くして命を落として行ったが、「伊藤博文」「山県有朋」「品
川彌二郎」「木戸孝允」(門下生)等何人もの人物が明治政府の閣僚として残って
いる。
この時代は近代史の為記録や資料も沢山あり、様々な観点から論じられている
が、全体像を史実として明確に捕らえることは難しい、何れにしても近代国家を形
成して行く過程の重要な一里塚と成った塾生達の地だ。

アーカイブ・シリーズ(No3)「山口県萩・津和野ツアー」編

「松下村塾」

2006年04月02日 | ツアー旅行
 この写真は「松下村塾」、建坪30坪程の小さな物だ、当時この塾に日参
して来る塾生達が、やがて日本を変革して行く。
圧巻はこの建物の一本の柱の傷だ、吉田松陰が江戸へ連れて行かれた後の
塾生達が、悔しさ、無念さのはけ口として、「柱」に向かって刀で斬りつけた。
その傷跡が残っている。やがて吉田松陰は帰らぬ人になるのだが・・・・・

 母屋もすぐ側にあり、松蔭が幽閉された3畳程の狭い部屋が在る、日増しに
増える塾生達にその部屋から庭に居並ぶ塾生達に講義をしたと言うのだから
当時の塾生達の勉学熱が如何に凄い物か想像が付く。

 この時代の建物は小さく、床から鴨居まで五尺七寸程しか無く、「木戸孝允」の
武家屋敷を見学した時など178cmの身長の私は、危うく頭を鴨居にぶつける所
だった。
江戸時代から明治時代に掛けての人の体格は随分と小柄だったようだ、戦前迄
の一般日本家屋の作りは大体似たような物だ、神社仏閣やお城などは立派な作
りだが、一般人の生活は非常に質素で慎ましかったに違いない。

アーカイブ・シリーズ(No3)「山口県萩・津和野ツアー」編

「松蔭神社」

2006年03月28日 | ツアー旅行
 「松蔭神社」は全国2カ所に在る、一つは此処「萩市」もう一つは我が町
「世田谷区」に在る、幕末の頃「吉田松陰」の亡骸を小塚原回向院から会葬
したのが「世田谷松蔭神社」これは「高杉晋作」等によって行われた。安政
6年(1859年)の事だった。
「萩松蔭神社」は、世田谷の其れより随分と後に作られた、又「安政の大獄」
を実施した「井伊直弼」の墓も同じ世田谷区内の「豪徳寺」に在る、目と鼻の
先程の近くだ、何と皮肉なことか!・・・・
「世田谷松蔭神社」は長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸が在った事から
墓所を作った、一方「豪徳寺」は世田谷領として寛永10年(1633年)近江
彦根藩主井伊直孝の領地で「豪徳寺」は井伊家の菩提所である。
「豪徳寺」はどちらかと言えば、「招き猫」の方が有名だが・・・・・・

 「萩松蔭神社」の境内には、「松下村塾」が在り、当時の母屋等が在り、塾生
達の勉学に対する情熱が伝わってくる。
明治維新は此処から始まった!当時の松下村塾塾生は皆若く10代から30代
に掛けてで日本の進路を決める若き獅子達を数多く排出した。
中でも「吉田松陰」は11歳の時兵学師として、藩の教育担当をしたのだから驚
きだ、今の日本の若者達の姿と比較すると、大人としての完成度レベルの差が
余りにも乖離して居るので愕然とする。当の現代の「大人」も幼児化しているが?

「散切り頭を、叩いてみれば、文明開化の音がする。」 おっぺけーぺー節より


アーカイブ・シリーズ(No3)「山口県萩・津和野ツアー」編

「津和野」

2006年03月25日 | ツアー旅行
 飛行機は紀伊半島を過ぎた当たりから瀬戸内海沿岸に沿って飛んで行き
「中国山地」を上空から眺め一路「宇部空港」へ。着陸した後、ツアー観光の
バスが待機していて、即乗車、乗客は私達家族だけ。バスガイドさんの話に
よると今日の日程は可成り忙しく余裕が余り無いとの事で、新幹線「山口駅」
で電車からの乗客15~6名を載せて「津和野」へ。

 写真は「津和野」の観光名所「殿町通り」の鯉、ご多分に漏れず自分もこんな
写真を撮ってみた、此処の「鯉」やたらと太っている、糖尿病に成って居るんじゃ
無いかな~・・・・と思える位大きい鯉で1m程も有るだろうか、其れが胴回りの
太いこと・・・・ガイドさんの話によると、観光客の蒔く餌を食べ過ぎるから、との事。
時間も無い事から近辺をほんの少し見ただけで昼食、そして又バスに乗り今度
は「萩市」へ。こうしたツアーはバスに乗車して居る時間がやたらと長い、車窓か
ら眺める地元の風景が楽しみだが写真を撮る事が出来ない。
車中バスガイドさんの案内を聴きながら、見聞を深める、其れも又良し。

アーカイブ・シリーズ(No3)「山口県萩・津和野ツアー」編

「羽田発 午前7時40分」

2006年03月08日 | ツアー旅行
この辺りは相模湾平塚海岸線です、右下に江ノ島が見えます、高度約3000m
程でしょうか、茨城県上空で旋回し一路、宇部空港に向けて上昇中です。
当日は快晴でしたが、風が無く水蒸気も多く、空気が今一濁っていますが、珍しく
陸路、上空を飛行する、飛行機に乗りました。

 飛行機の機種はMD-90150程の定員でしょうか、座席が3列と2列、私は
何時もの様に窓側の席。
宇部空港に到着するまで、雲に邪魔されることも殆ど無く、私は窓に顔を付けた
まんま、窓から下界を眺めていました。(まるで子供むき出しです)

 其れにしても上空から見るとゴルフ場の多い事! 山中至る所に山肌がムキ
だしに成ったゴルフ場が点々と在ります、自然破壊の極致です、全くひどい物です。
ゴルフ人口が増えたからと云って、又儲けになるからと言って・・・・・全くひどい事を
する物だ、今ではゴルフ人口も減って来て閉鎖するゴルフ場も沢山出ていますが。
自然を回復する事には全く関心を示さないのが、利潤を追求する企業の現状、此程
国土を破壊しながら、儲けにならないからと知らぬ存ぜぬを決め込む企業!
其れを許す国の政治、何時かしっぺ返しがキット来ると思うのだが!


アーカイブ・シリーズ(No3)「山口県萩・津和野ツアー」編