く~にゃん雑記帳

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<川路聖謨を讃える会> 日露和親条約の交渉で、川路を支えた洋学者・箕作阮甫

2012年10月28日 | ひと模様

【儒学・医術・蘭学を習得、津山藩医から幕府の外交交渉翻訳係に】

 最後の奈良奉行として善政を行い、奈良の恩人として今なお親しまれている川路聖謨(としあきら)。その後、幕府の勘定奉行となった川路はロシアとの粘り強い交渉で、北方四島を日本の領土と定めた日露和親条約を締結する。「その交渉の裏で箕作阮甫という1人の男が深い教養と語学力で川路を支えた」。歴史学者で大和郡山市・川西町文化財審議会会長、長田(おさだ)光男氏は27日行われた「川路聖謨を讃える会」(孝田有禅会長)主催の歴史講演会(会場・奈良県経済倶楽部)で、箕作阮甫(みつくり・げんぽ、1799~1863年)の功績をこう讃えた。

    

 阮甫は今の岡山県津山市生まれ。父の後を継いで藩医となり、殿様お付きの御匙代(おさじだい)として参勤交代のたびに江戸に行く。当時、幕府は飢饉や悪疫の蔓延に加え、外国船の出没という内憂外患に悩まされ、対応に苦慮していた。阮甫は医学の傍ら、儒学や蘭学を学んでいたが、「こうした外国からの圧力がもっと洋学を究めなくてはと阮甫を刺激した」。

 阮甫は「医療正始」を皮切りに外国の医学や地理、天文、造船、兵学、歴史、宗教、語学など、ありとあらゆる分野の書物を次々に翻訳し出版する。その語学力が幕府にも伝わり、海外の文献を翻訳する「蕃書和解(ばんしょわげ)御用」を命じられる。最初の大仕事は嘉永6年(1853年)のペリー来航の時。開港や太平洋で操業する捕鯨船への水・食糧などの補給を要求する米大統領親書の翻訳を担当した。

        箕作阮甫肖像 

 続いてロシア使節のプチャーチンが長崎に来航する。阮甫は幕府使節の1人、川路聖謨から「翻訳随一」として選ばれ、随行して江戸から長崎に赴く。「学者や医者などの随行者をすべて合わせると300人にも上った。東海道では宿場が対応できないため、遠回りになる中山道を選んだため、長崎まで37日を要した」。阮甫の先祖の出身地は近江国箕作城(現在の滋賀県五箇荘町)。駕籠に乗っていた阮甫は関ケ原の辺りで居眠りして付近の様子を見過ごしたことが非常に残念だったと日記「西征紀行」で振り返っているそうだ。

 長崎で阮甫は要求文書の翻訳とともに川路から交渉のやり方などの相談を受けた。「いわば顧問役のような仕事もこなした」。ロシアとは6回交渉したが最終決着までいかず、翌年の下田での交渉に持ち込まれる。ところがちょうど「安政の大地震」が発生、下田の町は地震と大津波に襲われ壊滅状態、プチャーチンが乗ってきた艦船も沈没したという。

 そのため日露交渉は下田の山の上にある長楽寺で行われた。そして9か条から成る日露和親条約が結ばれた。それを翻訳したのはもちろん阮甫。その第2条にはこう記されている。「今より後、日本国と魯西亜(ロシア)国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、夫れより北クリル諸島は魯西亜に属す」。

 阮甫はもともと体が弱く、喘息の持病もあった。このため大仕事を終えた後、安政2年(1855年)いったん隠居するが、幕府の状況はこれを許さなかった。翌年には「蕃書調所教授職」に登用される。その中には勝海舟もいて、一緒に翻訳の仕事に携わったという。この蕃書調所は洋書調所、開成学校と変わり、後の東京大学となる。一方、ロシア使節応接掛だった川路はその後、西丸留守居という閑職になったのを機に蘭学の学習を始める。蕃書調所の教授らに出前講義をしてもらったが、その中には阮甫もいた。「阮甫は川路の師匠となり、勉学を通じて師弟関係が結ばれた」わけだ。

 阮甫はその後、文久2年(1862年)に洋学者としては初めて幕府直参に取り立てられる。しかし翌年、65歳で没した。阮甫には4人の娘がいたが、孫の多くが理学博士や医学博士、人類学者、統計学者など著名な学者になっている。長田氏は阮甫の功績として3つ挙げる。「1つ目は深い教養と語学力で外交交渉を支えたこと。2つ目は膨大な外国の書物を翻訳し、洋学の発展に貢献したこと。そして3つ目は一族一門から多くの学者を輩出し、明治以降の学問・教育に尽くしたこと」。阮甫はいま多磨霊園に眠る。


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