く~にゃん雑記帳

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<特別展「宸翰 天皇の書」> 聖武天皇から昭和天皇まで その時々の〝歴史〟を物語る!

2012年10月19日 | 美術

【強引な信長への無念さがにじむ書、秀吉の朝鮮出陣を諫める書……】

 京都国立博物館で特別展覧会「宸翰(しんかん)天皇の書 御手が織りなす至高の美」(11月25日まで)が開催されている。聖武天皇から昭和天皇まで歴代の天皇の書など100点余。いずれも高い品格と風格を備えているが、その書の美しさとともに、書き記された歴史の一こま、一こまが強く印象に残った。正親町天皇は天下第一といわれる香木を切り取って織田信長に下賜せざるを得なかった無念さを記し、後陽成天皇は豊臣秀吉の朝鮮出陣を諌める書を残していた。

 正親町天皇(1517~93年)が信長に下賜した香木は東大寺三倉(正倉院)に収められていた中国伝来の「蘭奢侍(らんじゃたい)」の一部。下賜に当たって関白の九条稙通(たねみち)に宛てた散らし書き(1575年)が展示されているが、文面に強引ともいえる信長の要請に応じざるを得なかった無念さがにじむ。その思いが「ふりよに」の言葉に表れていると説明にあったが、これは「不慮に」のことか? 後陽成天皇(1571~1617年)の書(1592年)は朝鮮半島へ自ら出陣しようとする秀吉に対して思いとどまるよう諭すような文句をちりばめ、最後に「太閣とのへ」と結んでいる。

   

 展示された天皇の書の中には自ら朱の手形を押したものが3点あった。後鳥羽天皇(1180~1239年)の「御手印置文」と後宇多天皇(1267~1324年)の「御手印遺告」、そして後白河天皇(1127~92年)の奥書がある「文覚四十五箇条起請文」(写真)。いずれも天皇の強い意志が手印に表れている。このうち後鳥羽天皇の書は承久の乱で敗れ隠岐に流された天皇が近臣の水無瀬親成に宛てて書き残したもの。天皇はその13日後に崩御しており、まさに絶筆になった。

 高倉天皇(1161~81年)は兄に当たる仁和寺の守覚法親王に宛てた「宸翰消息」(1178年)の中で、守覚の孔雀経法の霊験によって中宮・徳子が無事に皇子(のちの安徳天皇)を出産したお礼を述べている。これは現存する高倉天皇唯一の遺墨。このほか嵯峨天皇(786~842年)の「光定戒牒」(823年)や後嵯峨天皇(1220~72年)の「宸翰消息」(1246年)も唯一の遺墨で、いずれも国宝に指定されている。

   

 聖武天皇(701~756年)のものは「御画勅書」(749年)が出展されていた。某寺(東大寺?興福寺?)に一切経を転読・講説するための財源として、綿などのほか墾田地を施入(奉納)した際の勅書で、年月日の上に自ら大きく「勅」と書き入れている。実に力強い筆致。11月中旬からは期間限定で正倉院にある「聖武天皇宸翰雑集」(731年)も展示される予定だ。

 後陽成天皇の揮毫「龍虎」と「梅竹」(上の写真)は迫力に富む大字が印象的。伏見天皇(1265~1317年)は書の達人と知られる書聖。「三蹟」の1人、小野道風が書いた「屏風土代」(928年)と、それを臨書した伏見天皇の書が並んで展示されているが、字の形から墨の濃淡まで驚くほど忠実に再現していた。花園天皇(1297~1348年)の風格のある筆致、大正天皇(1879~1926年)の柔らかな書体の一行書「仁智明達」、昭和天皇(1901~89年)の堂々とした大字の「無相」も印象的だった。

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