く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<高木栄子紙わらべ展> 会場を埋め尽くす愛らしい紙人形、懐かしい祭りの屋台…

2012年10月17日 | 美術

【90歳の卒寿記念、大丸ミュージアムで開催中】

 和紙人形作家、高木栄子さんが作る作品は昔の懐かしい情景を再現したものが多い。人形は高さが10cm余り。これを「紙わらべ」と呼ぶ。今年8月に90歳を迎えたばかり。「卒寿記念 高木栄子紙わらべ展」が京都市の大丸ミュージアム(大丸京都店)で開催中(22日まで)だが、会場には郷愁と温かさがあふれていた。

 

 この展示会は大丸京都店四条烏丸出店100周年記念事業の一つ。会場入って正面には昭和初期の同店屋上にあった「滑り台」と「鳥かご」をテーマに新しく創作した作品が展示されていた。楽しげな「紙わらべ」たち。小さな小鳥やおにぎりなどは実に精密なミニチュアで、おもわずため息。会場内は子どもたちの四季、手のひらの世界、お祭りの日、遊びの広場、童謡などのコーナーに分かれている。

 「紙わらべ」はおかっぱ頭で着物姿のものが多いが、どの顔にも目や口は描かれていない。要するにのっぺら顔なのだが、手や体の動き、顔の角度などで表情が生き生きと伝わってくる。高木さんが本格的に人形づくりを始めたのは約45年前。最初のころは顔を描いたこともあった。だが、見た人が自分の好きな顔を思い浮かべることができるように、と描かないことにしたそうだ。「ただ〝目線〟は見ている相手に合わせるようにしている」という。

  

 高木さんは1922年名古屋生まれ。結婚を機に満州(現中国東北部)に渡ったこともある。4人の兄のうち次兄は戦死、四兄も戦後まもなく亡くなった。幼い頃からきれいな紙を集めては「誰も持っていない私だけの人形」を作り続け、いわば趣味が高じて人形作家になったが、「どの人形にも平和と命の大切さを込めてきた」。(上の作品は「ひなまつり」と「鳩」)

 人形だけでなく石に和紙を貼り付ける方法で、猫や犬、鹿、猿などの動物も作っている。河原で丸まった猫そっくりの形の小石を見つけたのがきっかけ。現在、福井県敦賀市在住。そこには敦賀まつり(気比の長祭)という豪華な山車6台が練り歩く祭りがある。会場にはその「長祭」で気比神宮の前に並ぶ山車の様子を再現した大きな作品も展示されていた。山車の上には白馬と武者。その山車を引っ張る法被姿の「紙わらべ」たち。

 「七つの子」「春よ来い」「虫のこえ」など童謡をテーマにした作品の数々も「紙わらべ」たちの愛らしい仕草で再現されていた。その中に詩人、金子みすゞの作品が3つ。「ばあやはあれきり話さない、あのおはなしは、好きだったのに。『もうきいたよ』といったとき、ずいぶんさびしい顔してた……」。みすゞの詩「ばあやのお話」では、寂しそうなばあやの顔をのぞき込む2人の女の子で、その場面を見事に表現していた。

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<フジバカマ(藤袴)>万葉の頃から親しまれたが、野生は激減し準絶滅危惧種に!

2012年10月16日 | 花の四季

【乾燥すると芳香を放つため「香草」「香水蘭」とも】

 キク科の多年草。山上憶良が万葉集で秋の七草の一つに挙げたが、フジバカマを詠んだ歌はその1首だけ。そのこともあってか、原産地は中国で奈良時代以前に薬草として日本にやって来たという帰化説がある。その一方で、もともと日本にも分布していた自然野草という自生説もある。日本最古の薬用植物辞典「本草和名」(10世紀初め)には「蘭草、和名布知波加万」と記されている。

 藤色の筒状の花を袴に見立てて藤袴の名が付いた。生葉は無臭だが、乾燥してくると桜餅の葉に似た芳香を放つ。クマリンという香り成分によるもので、中国ではフジバカマのことを「香草」や「香水蘭」と呼ぶ。平安時代、女性は干した葉や茎を水に漬けて髪を洗ったという。

 古今集にはフジバカマが4首詠まれているが、いずれも香りを詠んだもの。「宿りせし人の形見か藤袴 わすられがたき香に匂いつつ」(紀貫之)、「なに人か来てぬぎかけし藤袴 来る秋ごとに野辺をにほはす」(藤原としゆきの朝臣)。源氏物語30帖「藤袴」の巻名は夕霧が詠んだ歌「同じ野の露にやつるる藤袴 哀れはかけよかことばかりも」にちなむ。

 草丈が1m近くになり薄紫の花が風にそよぐ様は秋の風情を漂わせる。立ち姿が同じ時期に白花や薄紫の花を付けるヒヨドリバナ(鵯花)に似ているため、混同されることが多いという。フジバカマはかつて各地の河原などに自生していたが、護岸や造成工事などに伴って野生種は急減、今では環境省のレッドリストに準絶滅危惧種として掲載されている。「熔岩を置く小みちは濡るる藤袴」(杉山岳陽)。

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<奈良県大和郡山市> 第31代女王卑弥呼に大学生の田渕三香子さん(19)

2012年10月15日 | メモ

【準女王2人も19歳大学生、今後1年間「金魚が泳ぐ城下町」をPR】

 奈良県大和郡山市の「第31回女王卑弥呼コンテスト」が14日、やまと郡山城ホールで開かれた。大阪教育大学名誉教授だった故鳥越憲三郎氏が著書「大いなる邪馬台国」の中で、邪馬台国は大和郡山市北西部の矢田地区にあったと主張。この学説を基に同市がまち起こしの一環として1982年に卑弥呼コンテストを始めた。出場資格は県内在住・在学・在勤の18歳以上の女性で、今回は書類選考を通過した25人が参加、新女王に大学生の田渕三香子さん(19)が選ばれた。

  

 出場者は高校3年生から50歳までと幅広く、地元郡山高校で英語を教える来日1年目という外国の女性も含まれていた。審査はまず1分間自己PR。得意のフルートやバイオリンを演奏する人、筆で大書した「大和撫子」を掲げる人、バレー衣装で踊りを披露する人、ホワイトボードに絵を描きながら歌う人……。中には180度開脚し胸を床に付けて般若心経を唱える女性もいて、会場の笑いを誘っていた。

 

 審査はこの自己PRで25人を10人に絞り込んだ後、審査員と一問一答オーディションを行って、女王1人と準女王2人を選んだ。準女王2人には女王と同じ19歳で大学生の植田純加さんと鈴木沙也香さんが選出された。3人は今後1年間、大和郡山市や観光協会が行う行事に観光キャンペーンレディーとして参加、「平和のシンボル、金魚が泳ぐ城下町」大和郡山をPRする。審査の合間には国立奈良工業高専吹奏楽部の演奏などがあった。

【厳しい経済環境を反映? 副賞の中身も次第に変化】

 このコンテストも始まってから早30回を超え、今や大和郡山の秋の風物詩にもなっている。今回の第31回では新女王に副賞として10万円相当の旅行券、準女王には5万円相当の旅行券が贈られた。女王には協賛企業から液晶テレビや美容チケットなども。その他の出場者全員にも協賛企業の製品詰め合わせなどが贈られた。

 毎秋このコンテストを楽しみに見てきたが、その副賞の中身をたどると興味深いことが分かった。国内景気が低迷する中で副賞の中身も次第に変わってきたのだ。第20回の2001年までは女王にハワイ旅行、準女王4人にシンガポール旅行がプレゼントされていた。だが第21回には女王に20万円相当の海外旅行券、準女王に10万円相当となる。

 その後、第25回の2006年の時点では女王が15万円相当に。準女王4人に10万円相当は変わらないが、翌年の第26回には初めて準女王の人数が4人から2人に削減された。そして今では女王が10万円相当の旅行券、準女王は5万円相当に……。協賛企業もひところに比べ減っているようだ。企業を取り巻く環境の厳しさを反映しているといえよう。同時に副賞の変化から主催する市観光協会の担当者のご苦労もしのばれる。

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<近世の旅と大和めぐり>江戸中期に観光が主産業に 奈良晒・酒・刀剣など伝統産業は衰退

2012年10月14日 | 考古・歴史

【往来手形は住職・庄屋など地域の有力者が発行!】

 「近世の旅と大和めぐり」をテーマにした天理大学公開講座が13日、奈良県中小企業会館(奈良市)で開かれた。講師は文学部歴史文化学科の谷山正道教授(写真)。江戸時代になって世の中が落ち着くと庶民の旅が盛んになり、奈良をはじめ大和各地の名所旧跡を訪ねる人が増えた。とりわけ東大寺大仏の修復(1692年)と大仏殿の再建(1709年)による効果もあって、江戸時代中期には南都・奈良にとって観光が基幹産業になった。一方で伝統産業だった奈良晒(さらし)や奈良酒、刀剣、具足(甲冑やあぶみ)などは次第に衰退していった。

     

 庶民の旅行が盛んになるのは17世紀半ば以降。奈良県内最古の道標は伊勢本街道沿いの檜牧村(現宇陀市萩原区檜牧)で見つかっているが、建てられた時期は寛文4年(1664年)になっている。旅行するには「往来手形」が必要だったが、発行したのは奉行所などの役所ではなく、寺の住職や年寄、庄屋など地域の有力者だった。上の往来手形は5人家族のものだが、万一病死した場合、当地の作法で処理してくれるようお願いしている。経済的に恵まれない人にとっても「御蔭参り」の年には伊勢への旅が可能で、街道のあちこちで手厚い接待を受けたという。

 江戸時代には大和各地の名所旧跡の案内記が多く発行された。中でも人気だったのが貝原益軒の「和州巡覧記」(1696年刊)。「養生訓」で有名な福岡藩の儒学者・植物学者だ。貝原は大和に魅せられ9回も訪れて、この紀行文的な案内記をまとめた。吉野のふもとにある「六田」の項には「童共桜の木高二尺ばかりなるを多くうる。往来の人、是をかひて、うゑさせて通る」といった詳細な描写も。「文人に重宝された優れた袖珍本」で、これを携帯し名所を回る人も多かったそうだ。

  

 このほかにも「大和名所図会」「南都名所集」「大和めぐり道法絵図」など道中案内記や絵地図が次々に出版された。絵図には見所の南都八景から主な祭事、名産まで地図の端で紹介したものもあった。ただ当時の絵図の多くが、不思議なことに本来東側にある春日大社や若草山などが上部に描かれていた(上の写真は1844年刊行の「和州奈良之図」)。つまり90度左に傾け、本来の北を西に、西を南にして描かれているのだ。谷山教授は「奈良を訪れる旅行者の多くが西の大阪方面からやって来たため、理解しやすいために大阪からの視点で描いたのではないか」と推測する。

       

 庶民の旅の盛行に伴ってガイド役の「名所案内人」も生まれた。1692年の大仏開眼供養時にはその存在が文献の中に記されており、幕末の奈良奉行川路聖謨の日記「寧府記事」によると、嘉永元年(1848年)には70人余を数えたという。案内人は宿屋や土産物屋と連携して活動する者のほか流しの案内人もいた。その中にはまだ日が高いからと回り道して時間をかせいで奈良の宿に泊まらせるといった不心得者もいて、トラブルも度々あったそうだ。駕籠かきが談合して値段をつり上げて、それを取り締まるお触れ書きが出たこともあった(上の写真)。

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<キンモクセイ(金木犀)>芳香と整った樹形から多くのまちが「市の木」に選定

2012年10月13日 | 花の四季

【中国原産。雌雄異株だが日本にはなぜか雄株だけが渡来!】

 モクセイ科モクセイ属。通常モクセイというとギンモクセイ(銀木犀)を指し、キンモクセイはギンモクセイの変種といわれる。だが、花が橙色で芳香が強いキンモクセイの人気は高く、庭木や公園木として広く植樹されている。白花のギンモクセイはキンモクセイより少し遅れて開花する。

   

 モクセイ属にはこのほかウスギモクセイ(薄黄木犀)やヒイラギ、ヒイラギモクセイ、シマモクセイなどがある。シマモクセイは自生地によりサツマモクセイ、ハチジョウモクセイ(八丈島)などとも呼ばれる。キンモクセイやギンモクセイは中国原産で雌雄異株だが、日本にはなぜか雄株しか渡来していない。果実ができないため、挿し木や接ぎ木で増やす。金木犀と名前に「犀」が入っているのは、モクセイ属の幹の手触りがゴツゴツしたサイの皮に似ていることによる。

 「黄葉(もみち)する時になるらし月人の 楓の枝の色付くみれば」。この万葉集の歌の中の「月人の楓(つきひとのかつら)」は実在しない植物との説が有力だが、キンモクセイやギンモクセイ、カツラ、ニッケイなどではないかという説もあるそうだ。最近ではポピュラーなキンモクセイを単にモクセイということも多く、俳句でも「木犀」を詠んだ歌が多い。「木犀の香にあけたての障子かな」(高浜虚子)。

 静岡県は県民の公募で1位だったキンモクセイを「県木」に指定している。ちなみに2位はサクラだった。静岡では掛川市と袋井市も「市の木」に選定している。キンモクセイをまちのシンボルに指定しているところはこのほかにも西日本を中心に多い。茨城・牛久市、千葉・八街市、大阪・豊中市、滋賀・草津市、兵庫・明石市、和歌山・紀の川市、福岡・田川市、大分・別府市、佐賀・鹿島市、熊本・山鹿市と宇土市など。

 「毎年キンモクセイの匂いがすると血が騒ぐ。条件反射で祭りを思い出しワクワクしてくる」と言うのは愛媛県西条市出身の歌手、秋川雅史さん。100台を超える山車(だし)が繰り出す西条祭はあす14日から。その西条市にある王至森寺(おしもりじ)のキンモクセイは国の天然記念物に指定され、同時に環境省の「かおりの風景百選」にも選ばれている。まさにキンモクセイの香りが祭りの到来を知らせてくれるわけだ。

 静岡県三島市の三嶋大社、群馬県伊勢崎市の華蔵寺、熊本県甲佐町の麻生原、宮崎県延岡市の北浦町古江の巨樹も天然記念物に指定されている。ただ、このうち華蔵寺を除く3カ所は正確にはウスギモクセイという。「かおりの風景百選」には西条市のキンモクセイとともに、神奈川県藤沢市の「鵠沼、金木犀の住宅街」も選ばれている。

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<国立民族学博物館> 「記憶をつなぐ―津波災害と文化遺産」展

2012年10月12日 | 祭り

【祭り・芸能、鎮魂とともに地域の人々の心の拠り所!】

 東日本大震災から早くも1年半余になるが、地震・津波・原発事故による傷はなお深い。その間、東北地方では祭りや芸能の奉納が例年以上に活発だったという。「祭りをしないと、散りぢりになった村のみんなが集まる機会がない」――。祭りが鎮魂・祈りとともに、地域のコミュニティーを守るうえで果たした役割は大きい。国立民族学博物館(大阪・万博公園内)で開催中の「記憶をつなぐ―津波災害と文化遺産」展(11月27日まで)は、文化遺産の意義を改めて見直すとともに、災害の経験をどう継承していくかを考える契機にしてほしいと企画された。

  

 会場に入ってすぐ左手に大きな獅子頭。宮城県南三陸町の戸倉神社に伝わり春の神事「春祈祷」で使われてきた。神社がある波伝谷(ばでんや)地区は今回の津波で集落全体が水没した。その地名には過去の被災の記憶が刻まれている。幸い、丘にある神社は獅子頭とともに被災を免れた。今年4月、この獅子頭を使って震災後2年ぶりに「春祈祷」が仮設住宅の前などで行われた。

 津波は各地の祭りや芸能を直撃、壊滅的被害をもたらした。岩手県を代表する民俗芸能、鵜鳥(うのとり)神楽もその一つ。毎年1~3月、沿岸部に点在する「宿」を訪ね公演してきたが、宿の大半を失った。そこで、追手門学院大の橋本裕之教授らが東京都歴史文化財団と連携、宿の新設など再生に向けて支援活動を続けている。今月21日には民族学博物館で復興支援の一環として公演も予定されている。

 東北では祭礼や盆行事で鹿踊(ししおどり)がよく演じられるが、津波で岩手県大船渡市などの3団体が衣装や道具類を保管庫もろとも流された。鹿踊に欠かせないのが鹿の角だが、なかなか入手が難しい。そこで立ち上がったのが京都や兵庫の人たち。「愛deerプロジェクト」と銘打って、丹波や福知山の猟師や鹿肉加工業者から角の提供を受け各団体に送った。

 「記憶の継承」コーナーでは安政の南海地震(1854年)の際、稲むらに火を放って村人を救った浜口梧陵の「稲むらの火」などを紹介。この「稲むらの火」は国内だけでなく、アジア8カ国・9言語とフランス語に翻訳され防災教育教材として活用されているという。1941年発行の「小学国語読本」やこれらの翻訳本も展示されている。

 今震災は地震予知やスーパー防波堤などハード面の限界をまざまざと見せつけた。古文書や地名などに刻まれた過去の教訓もいつの間にか忘れ去られていた。それだけに被災体験を風化させず、いかに後の世代にしっかり引き継いでいくか。そのことがいま改めて問われているといえそうだ。

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<BOOK> 「松下幸之助からの手紙―大切な人たちへ」(PHP研究所編)

2012年10月11日 | BOOK

【体は弱く9歳で丁稚奉公「それがぼくにとって逆に幸いした」】

 丁稚から身を起こし一代で松下電器産業(現パナソニック)を築いた松下幸之助(1894~1989)。享年94歳で亡くなってすでに23年になるが、なお言行録などの出版が相次ぎ、多くのファンの心を捉えている。生前の1970年代半ば、その松下の考え方に賛同する人たちで自主的な勉強会「PHP友の会」が結成された。本書は松下がその機関紙「若葉」に寄せた〝手紙〟と編集者との質疑応答から成るが、その中で繰り返し強調しているのが「和」と「素直な心」「感謝の心」の大切さ。含蓄のある言葉が随所に盛り込まれている。

   

 松下が郷里の和歌山を出て、大阪・船場で奉公を始めたのは9歳の時。「ものの言い方からお辞儀の仕方、出入りの動作まで細かく教えてもらった。そのような教えを厳しく受けたことが、その後の人生にどれだけ役に立ったか分からない」。こうした経験を踏まえ「暮らしが豊かになればなるほど、一方で厳しいものをおとなが意識して子どもに与えていく必要があると思う」。

 独立したのは22歳の時。自分で考案したソケットの製造販売を始めるが、当初はほとんど売れす、明日の生計をどうするかまで追い込まれる。好不調の繰り返しから「成功とは、成功するまで続けること。途中でやめてしまうことが失敗だ」と考えるように。同時に「自分だけの欲望、私心にとらわれることなく自他ともに生きるということを大切にする、そういう心が素直な心だと思う」。

 松下は小学校を中退、体も弱かった。「学問がない、身体が弱いということは、常識的に考えれば短所であり不幸なこと。けれども、ぼくの場合、そのことがかえって幸いした」。学問がないから社員は偉く見える。だから皆の意見に耳を傾ける。「それで衆知が集まって経営がうまくいった」。体が弱かったから人に頼り、仕事を任せてやってもらう。すると皆持ち味を生かしてやってくれた。「幸不幸、長所短所は人間の心の動きによって変わっていくものであるということを考えると、〝幸福よし、不幸もまたよし〟という淡々とした心境が生まれてくる」。

 「素直の心」といえば、何でも人の言うことを聞くというふうに受け止められがちだが、松下は「たとえ上の立場の人から言われたことでも、それに盲従しない、正邪善悪を自分なりに検討し疑問の点があれば素直に伝えて善処してもらう。本当の素直な心というのはそういう厳しい強さを持ったもの」と指摘。さらに素直な心は「物事の真実、真理が分かる心。乱世になればなるほど企業にしても国にしても、ますます素直な心が大切になってくる」。

 松下は行動実践のあと自ら省みることの大切さを強調する。これを〝自己観照〟と呼ぶ。「特に民主主義の時代においては、国家全体の自己観照、いいかえれば国民1人ひとりの自己観照がますます必要になってくる。その欠如によってさまざまなひずみ、混乱が生まれてきている。今ほど、われわれお互いが、そして国自体も、自省の心を培わねばならないときはない」。また当時の政治状況について「根なし草の政治というか、絶えずフラフラしている」。1978~79年のインタビューの中でこう語っているが、当時の世相をいかに憂えていたかがひしひしと伝わる。「松下政経塾」を創設した背景にもそうした危機感があったのだろう。

 戦後日本の教育については「多くの弊害を社会に及ぼしているのではないか。その端的な例が知識偏重の教育、学歴尊重の社会」と指摘、〝暗記教育〟に警鐘を鳴らす。義務教育の役割は「知育と同様に、いやそれ以上に大切だと思うのは徳育教育、言葉をかえていえば真の人間教育」と強調する。相変わらず点数至上主義のように見える日本の教育界、とりわけ〝学校序列化〟との批判も強い大阪府と一部市町村の動きを、松下だったらどのように評価を下すのだろうか。

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<シュウメイギク(秋明菊)> 別名「貴船菊」 菊と付くけどアネモネの仲間!

2012年10月10日 | 花の四季

【古く中国から渡来? 花びらに見えるのは実は萼片】

 キンポウゲ科の耐寒性多年草。白やピンクの一重咲き、紅色の八重咲きなどがあり、秋に菊に似た花を咲かせるからこの名がある。別名「キブネギク(貴船菊)」。京都・北山の貴船周辺で多く見られたことに由来する。漢名は「秋牡丹」で、古く中国から渡来した帰化植物といわれる。

 貝原益軒の「大和本草」(1709年刊行)にも秋牡丹として登場する。その項には「近世異国よりも来れるにや 和名タウギク(唐菊)又はカウライギク(高麗菊)」の記述の後、「されども鞍馬、箕面、また西州諸山にあり 本邦に昔より之有る草なるべし」とある。ただ、今では原産地はやはり中国で、日本に入ってきて各地で野生化したとみられている。そのためか、自生地も寺の周辺や人里に多い。

   

 一重咲きの花びらのように見えるものは実は萼(がく)片で、花弁を持たないのがシュウメイギクの特徴。これを「単花被花」と呼ぶそうだ。クリやイヌタデの花も同様に花弁がない。八重は多いものでは30枚にもなるが、これも萼片と雄しべが花弁化したものという。

 シュウメイギクの英名は「ジャパニーズ・アネモネ」。18世紀後半に来日したスウェーデンの医師・植物学者が名付け親といわれる。その後、19世紀中頃から英国などで盛んに交配によって多くの園芸品種が作られてきた。シュウメイギクの名所は関西では京都に多い。貴船神社、善峰寺、宗蓮寺、宇治三室戸寺……。「菊の香や垣の裾にも貴船菊」(水原秋桜子)。

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<合唱王国福島>Nコン中学の部で金銀独占 初出場の会津若松四中が金賞!

2012年10月09日 | 音楽

【郡山二中は銀賞、5年連続の金賞ならず】

 第79回全国学校音楽コンクールの中学校の部全国コンクールが8日、東京のNHKホールで開かれ、福島県の会津若松市立第四中学(写真=NHKテレビから)が初出場で金賞を射止めた。5年連続金賞を目指した同じ福島県の郡山市立第二中学は銀賞に終わったものの、金銀の独占で〝合唱王国〟といわれる福島県の合唱水準の高さを改めて示した。銅賞の2校は東京都の町田市立鶴川第二中学と埼玉県の春日部市立豊春中学。

  

 今回のコンクールには全国8ブロックの大会に1206校が参加。8ブロック各1校(参加校の多い関東・甲信越は2校)に加え、昨年の金賞・銀賞ブロックにシード枠として1校ずつがプラスされた結果、関東・甲信越は3校、東北ブロックは2校となり、計12校11組(うち四国代表の1組は2校の合同参加)が全国大会に進出した。

 第71回の2004年以降の中学校の金賞校と銀賞校(カッコ内)は、04年札幌・真栄中(出雲一中)、05年狛江四中(信州大付属長野中)、06年札幌・真栄中(出雲三中)、07年札幌・真栄中(郡山二中)、08年郡山二中(熊本大付属中)、09郡山二中(熊本大付属中)、10年郡山二中(松戸一中)、11年郡山二中(豊島岡女子学園)。

 今回は出場11校の中で、4連覇している郡山二中をはじめ、過去3回金賞を獲得し常連校だったのに昨年全国出場を逃した札幌・真栄中、昨年2回目の出場で銀賞だった豊島岡女子学園、初出場の会津若松四中、筑紫女学園の2校などに注目が集まった。郡山二中は2007年の初出場以来、銀―金―金―金―金。その快挙を支えたのは指導・指揮を担当した小針智意子、佐藤美奈子両先生。一方、真栄中は三沢真由美先生の指導で実力を伸ばし、04年以来、金―銅―金―金―失格(タイムオーバー?)―銀―銅と受賞が続いたが、昨年は北海道2位で全国出場を果たせなかった。

 郡山二中は今回5年連続の金賞はならなかったものの、課題曲「fight(ファイト)」(YUI作詞・作曲)でも自由曲でも、歯切れの良いさわやかな歌唱で混声の魅力を存分に聞かせてくれた。真栄は課題曲を混声、自由曲は無伴奏の女性合唱でハーモニーの美しさを強調したが、昨年銀の豊島岡女子とともに銅以上の受賞に至らなかった。銅は関東・甲信越ブロックの2校が獲得したが、豊島岡女子、真栄とかなり接戦だったのではないだろうか。銅の豊春中は参加校の中で最も合唱を伸び伸びと楽しんでいるように見えた。

 初出場で金賞を獲得した会津若松四中は課題曲でも力強く伸びやかな歌唱が印象的だったが、それ以上に自由曲の「Viragsirato(花の哀歌)」(ジュジャ・ベネイ作曲)は秀逸だった。とりわけ途中で数回織り込まれた女性2人のユニゾン(斉唱)の美しさには圧倒され、思わず中継テレビに向かって身を乗り出すほどだった。とてもNコン全国初出場とは思えない実力校だった。

 福島県勢が金銀を獲得して、来年の全国コンクールの出場枠は一体どうなるのだろうか。今年同様に金賞、銀賞受賞ブロックにプラス1校ということになると、来年は全国の代表11校のうち東北ブロックが本来のブロック枠1にプラス2で合計3校となる。その3校を全て福島県勢が占めるということがあり得るのだろうか。一方、今年3校出て2校が銅賞だった関東・甲信越ブロックは2校に戻ることになりそうだ。

 ※ブログを見ていただいた「ゆうか」さんから末尾の段落部分について以下のご指摘を頂きました。ありがとうございました。それによると、Nコンの規定により金賞銀賞が同ブロックの場合、銅賞の上位校の所属ブロックがシード枠になります。そのため来年も関東甲信越3枠、東北2枠で今年と変わらないということです。失礼しました。

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<大津祭>「コンチキチン」曳山13台 雅な巡行の合間にからくりを披露

2012年10月08日 | 祭り

【大人気の「ちまき投げ」 囃子方に向かって「放って~!」】

 湖国の秋を彩る大津祭が7日行われ、13の曳山町から繰り出した曳山13台が「コンチキチン」のお囃子に乗って雅に巡行した。京都・祇園祭の風情に似ているものの、精緻なからくり人形や厄除けの「ちまき投げ」は大津祭ならでは。曳山は江戸時代の前期から中期にかけて創建された年代物で、東海道の宿場町だった大津の商人の経済力と文化力の高さを今に伝えている。

  

 大津祭はJR大津駅のすぐ北側にある天孫(四宮)神社の祭礼。曳山は午前9時すぎ、神社で巡行の順番を確認する「くじ改め」(下の写真左)を受け、からくりを奉納した後、次々に出発。毎年巡行の先頭を行くのは「くじ取らず」の西行桜狸山。祭りの発祥に由来する狸面を持つ鍛冶屋町の曳山で、創建時期も寛永12年(1635年)と最も古い。

 

   

 曳山は祇園祭の山鉾より小ぶりで、車輪が3輪なのが特徴。だが車輪の直径は1.8mほどもあり、巡行中に軋む音は祇園祭と変わらない。進む方向を修正したり曲がったりする時には前輪を持ち上げる。曳山の後ろを飾る見送り幕など装飾も見どころの一つ。月宮殿山と龍門滝山の見送りは16世紀ベルギー製のゴブラン織りで国の重要文化財に指定されている。

 全曳山の屋台前面にからくり人形が据えられているのも大津祭の特徴だ。題材は中国の故事や能・狂言から取ったものが多い。からくりを演じることを「所望」と呼び、町の辻々で自慢のからくりを披露する。所望場所は棒の先に付いた紅白の和紙が目印。からくりを披露する時には巡行中の「コンチキチン」から笛中心のお囃子に変わる。

 

 

 からくりが終わると、観客から大きな拍手とともに「放って~」「頂戴~ぃ」の大きな声(上の写真左下)。囃子方が乗っている屋台の上に向かって、厄除けのちまきや曳山町のタオルを投げてくれるよう催促するのだ。地面に落ちると奪い合い。曳山は巡行中にも緋毛氈を掛けた2階の窓際に向かって、ちまきなどを投げ込む。それが届かず下に落ちてくるのをうまくキャッチする人も。1階の屋根に落下防止用のネットを張ったお宅もあった(写真右下)。「まるで落ちアユ漁のヤナだな」と中年の男性。中にはちまきを10個近く抱えた小学生高学年?の男の子もいた。

 曳山は正午すぎに中央大通りに勢ぞろい。昼休みの休憩を挟んで、夕方暮色が漂うまで巡行し、中心街では終日「コンチキチン」のお囃子が鳴り響いた。各曳山の回りや後ろには「ちまき投げ」を期待してか、最後まで多くの人がぞろぞろ。私もその1人だったが結局おこぼれゼロ。JR駅前ではそのちまきが500円で売られていた。雅な中にも大衆的な雰囲気が漂って、京都の祇園祭とは一味違うお祭りだった。

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<往馬大社火祭り・宵宮> 祈願木を焚き上げ 若者は褌姿で禊ぎ

2012年10月07日 | 祭り

【本祭では松明担ぎ石段を一気に! 別名「勝負祭り」】

 奈良県生駒市の往馬(いこま)大社で7日、長い伝統を持つ「火祭り」が行われる。2011年3月に県の無形民俗文化財に指定されてから2年目。6日夜の宵宮では境内の広場で子ども神輿や祈願木の焚き上げ、宮太鼓の奉納などがにぎやかに行われた。境内下手にはまばゆいばかりの献灯の提灯。本祭で神輿を担ぐ若者たちは広場脇の禊ぎ場(みそぎば)に入り、褌(ふんどし)姿で水をかけ合って禊ぎを行った。

   

 往馬大社は古くから火の神として崇められ、歴代天皇の大嘗祭で用いる火燧木(ひきりぎ)を献上してきた。火祭りの起源は不明だが、古く天武朝まで遡るともいわれる。7日の本祭は午後3時すぎから御供上げ、大松明、神楽、弁随(ベンズリ)舞、火取り神事などが行われる。火取り神事は神前から火を取り出すもので、祭りのクライマックスを飾る。

 

    

 往馬の火祭りは「勝負祭り」の異名も持つ。氏子区域が上座と下座の2つに分かれ、全てを競争するためだ。御供上げでは神饌を供える速さ、大松明ではススキを突き刺す速さ、そして火取り神事では燃え盛る松明を担いで石段を駆け下りる速さを競う。神事の花形は火取り役。火出し役から松明を受け取るやいなや、介添え役のワキビ(脇火)伴って一気に石段を駆け下りる。(下の写真は往馬大社HPから)

   

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<琉球アサガオ> 見よ!この脅威の繁殖力 滝のように下って道を覆い尽くす

2012年10月06日 | アンビリバボー

【緑のカーテンに最適らしいが、こうなるともう雑草状態!】

 深い青紫色の花が印象的な琉球アサガオ。もともと熱帯~亜熱帯育ちとあって、なかなか情熱的だ。だが、その旺盛な繁殖力はまさに「アンビリバボー!」。7月ごろから霜が降りる11月末ごろまで花を咲かせ続けるが、特に草勢が盛んなのが10月のこの時期。この先が行き止まりで人が通らないのをいいことに、幅4mほどの道を毎年わが物顔で埋め尽くす。高さ3~4mのブロック壁からもまるで滝のように下り、また上っていく。このアサガオ、もともとは上の庭で栽培されていたものが勢力範囲を広げているらしい。

 琉球アサガオはヒルガオ科の多年草。沖縄原産のノアサガオの園芸品種といわれる。園芸店では宿根アサガオや西表アサガオ、ケープタウンアサガオ、オーシャンブルーといった名前で販売されている。1年草の一般的なアサガオに比べ、強健で花期が長く葉も大きいため、日除け用の〝緑のカーテン〟として人気を集めているそうだ。だけど、これほど繁殖すると時々〝監視〟も必要になってくる。油断すると、ランナー(つる)を伸ばし近くにあるアジサイの枝にからまって覆いかぶさってくるのだ。琉球アサガオ、恐るべし!

  

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<山の辺の道> 記紀が編纂された8世紀初めにはすでにあった!

2012年10月05日 | 考古・歴史

【天理大学公開講座「山の辺の道の考古学」】

 奈良盆地の東の山裾を南北に走る山の辺の道。今では東海自然歩道の一部となり、ハイキングコースとして人気が高いが、この古道はいつごろでき、その周辺にはどんな遺跡が残されているのだろうか。「山の辺の道の考古学」と題する天理大学の公開講座がこのほど奈良県中小企業会館(奈良市)で開かれた。講師の小田木治太郎氏(天理大文学部歴史文化学科准教授)によると、山の辺の道は古事記、日本書紀が編纂された8世紀の初めごろにはすでに存在していたという。

 山の辺の道は三輪山の南西麓から春日断層崖の西縁を縫って北上、奈良山丘陵に至る古道。断層崖は直線的で、山麓を少し上がれば奈良盆地全体を眺めることができる。その南端にある海石榴市(つばいち)は東西の交通の要衝。こうした地理的な好条件が「ヤマト王権がその地に誕生した理由の一つかもしれない」。ただ、古代のルートそのものはよく分かっていない。「時代によって様々なルートが選ばれたのではないか」という。

 8世紀にこの古道が存在したことは古事記などの記載から証明されている。第10代崇神天皇陵の場所について古事記は「山辺道勾(まがり)之崗上」、日本書紀は「山辺道上陵」とあり、第12代景行天皇陵についても同様に古事記に「山辺之道上」などと書き記されている。両天皇陵の近くには卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳がある。山の辺周辺にはこの古墳をはじめ実に多くの古墳がある。「日本列島で巨大古墳の造営が始まった地、古墳時代が始まった地といえる」。時代を切り開いたのは大集落の纒向遺跡を母体とする纒向古墳群。箸墓古墳を中心に6つの古墳から成る。

  

 山の辺地域ではこれらの古墳だけでなく、発掘調査によってそれを支えた集落の様相も徐々に分かってきた。城島(しきしま)遺跡からは木製土掘り具が大量に出土しており、桜井茶臼山古墳築造のための臨時集落とみられる。脇本遺跡では5世紀前半の大型掘立柱建物群の跡から雄略天皇の泊瀬朝倉宮ではないかといわれる。さらに乙木・佐保庄遺跡からは玉杖に類似したさしば形木製品が見つかっており、王権中枢との関連がうかがわれるという。「山の辺地域はまさに歴史の宝庫」(小田木氏)というわけだ。

 上の図「畿内における大型古墳の編年(白石太一郎氏作成)」が示すように、大王墓とみられる巨大古墳を抱える古墳群は時代が下るにつれて場所も移動する。箸墓古墳(全長280m)中心の纒向古墳群から行燈山(242m)、渋谷向山(300m)の両古墳を中心とする柳本古墳群へ。この山の辺地域から奈良市北部の佐紀古墳群へ。この大王墓の移動について「ヤマト王権の政権中枢の移動を示すものではないか」と推定する。巨大古墳の所在地はさらに大阪の百舌鳥古墳群、古市古墳群に移動していく。

 各地で遺跡の発掘調査が進むが、最近では技術の進歩で掘らなくても実態が分かる方法が開発されてきた。その一つが航空レーザースキャニング測量。上空からレーザーを照射すると、古墳などをまさに〝丸裸〟にすることができる。この技術を使えば、原則発掘禁止になっている天皇陵についても墳丘の高さや大きさなどを正確に測量することが可能というわけだ。

 ただ、そうした技術の活用も遺跡などが現状のまま保存されることが前提。山の辺地域の古墳や遺跡の中には宮内庁が陵墓管理しているものや国、県の指定史跡になっているものも多いが、一方で指定外のものもかなりある。小田木氏は「史跡化されていないということは、法的に守る根拠がないということで、実に危うい状況。いかに現状を崩さずに保存していくかが大きな課題」と警鐘を鳴らす。

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<大学は宝箱!> 「京の大学ミュージアム収蔵品展」 京大総合博物館で開幕

2012年10月04日 | 美術

【15大学が美術品や歴史資料など自慢の〝お宝〟を合同で公開!】

 京都には大学が多い。各大学には美術館や博物館、資料館などミュージアムが併設されている。だが一般の美術館などと違って、その活動内容はなかなか市民の目に触れにくい。それなら〝お宝〟を持ち寄って合同で展覧会を開こう――。と、「大学のまち」京都ならではの催しが3日、京都大学総合博物館で開幕した。題して「大学は宝箱! ―京の大学ミュージアム収蔵品展―」。15大学がミュージアムの収蔵品の中から、選りすぐった自慢の文化遺産を出展している。会期は11月25日まで。

    

 会場は京大総合博物館の2階。まず「京都の姿」をテーマに京都にまつわる資料、次に「祈る」「記す」「創る」「暮らし」「住まう」の5つのテーマごとに展示している。展示数は約150点。それに加え、各ミュージアムを象徴する目玉の収蔵品を「大学の宝物」として期間限定で会期中、順番に公開していく。

 「大学の宝物」にはまず3大学が出展しているが、この中で目を引いたのが京都教育大学出展の古代エジプト時代の「ミイラ」。右手、左下肢など3点で、貿易商としてエジプトに滞在していた父を持つ師範学校の学生から1939年に寄贈を受けた。保存状態が良好な左下肢(紀元前831~796年)から身長約153cmの女性と推測されるという。大谷大学出展の「皇太子聖徳奉讃」は親鸞直筆。聖徳太子を讃えて83歳の時に制作した和讃で、親鸞の太子信仰の深さを表す。

 京大の「御土居絵図」は江戸時代、京都の中心部を囲んでいた御土居の詳細な絵図。管理を任されていた角倉家が1702年、高さ・厚み・距離を詳細に測量して作製した。京大出展の「寛永3年将軍上洛絵巻」は1626年、3代将軍家光が父秀忠と京都にやって来た時の行列を描いたもの。将軍を乗せた牛車などがカラフルに描かれ、華やかな衣装が往時の風俗を伝える。同じく京大の「キリシタン宗制札」(1682年)はキリシタンを告発した者に賞金を与えることを知らせる定め書き。

 花園大学の「墨蹟・親」は臨済宗中興の祖といわれる白隠彗鶴(1685~1768)の作で、書画を通して庶民教化を行った白隠の代表作。力強い太字の「親」の上に「孝行するほど子孫も繁盛 おやは浮世の福田じゃ」。同志社大学の「近世土人形」は構内から大量に出土した小さな人形や動物などで、江戸時代に「伏見人形」として縁起物や玩具類として出回っていた。京都市立芸術大学出展の丸岡比呂史(1892~1966)作の屏風絵「路次の細道」や京都工芸繊維大学の「十種香皆具(競馬香具付)」にも見入ってしまった。

 展示物の中で「ギョ!」とさせられたのが立命館大学の国際平和ミュージアムが出展した「陶器製地雷と手榴弾」。地雷は信楽焼で、昭和18~19年に開発され終戦まで製造された。陶製のため地雷探知機でも検出されなかったという。手榴弾は清水焼で京都・五条坂で製造されたもの。信楽焼などの焼き物が爆弾などに転用されていたことに驚くばかり。京教大出展のギターのような南米の民族楽器「チャランゴ」(ペルー製)には、胴になんとアルマジロの甲羅が張り付いていた!

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<平成23年度京都府内遺跡発掘速報展> 美濃山廃寺跡から謎の土製品相次ぎ出土!

2012年10月03日 | 考古・歴史

【清水寺本堂床下の石垣の隙間に、江戸時代中期の西国三十三所巡礼札】

 鳥のくちばしを模したような不思議な形の土製品、瓢箪のような形をしたひさご形土製品……。京都府埋蔵文化財調査研究センターは京都府立山城郷土資料館との共催で、「平成23年度京都府内遺跡発掘調査成果速報展」を同資料館「ふるさとミュージアム山城」で開催中だが、その中で美濃山廃寺跡(京都府八幡市、下の写真)から見つかった時代も用途も不明な謎の出土品が注目を集めている。8日まで。

   

 美濃山廃寺は木津川左岸の丘陵上に広がる古代寺院。遺跡は7~12世紀のものだが、今回の調査では7世紀後半~9世紀前半の多数の掘立柱建物や区画溝、柵などの遺構とともに、仏堂の壁面を飾った塼仏(せんぶつ)や三彩陶器、不思議な形の土製品などが出土した。鳥のくちばしのような土製品(写真㊧)は硬く焼きしめた須恵器で、赤い塗料の朱が付着していた。13点出土したひさご形土製品(写真㊨)は全国的にも例がないが、塔の宝輪に似ていることから土製小塔とみられる。このほか半球の覆鉢形(ふくばちがた)土製品が35点出土した。いずれも仏具の一種ではないかと推測されている。

  

 長岡京跡の右京からは大きな須恵器の甕(かめ)の破片約300点(下の写真㊧)が見つかった。これを長岡市埋蔵文化財センターで復元したところ、高さ112cm、最大直径114cm、容量670リットルと国内最大級。これほど大きな甕が復元可能な状態で出土したのは平城京や平安京でも過去になかったという。これまでの調査から酒造りに使われたのではないかとみられている。

  

 清水寺本堂床下の発掘調査では江戸時代の享保14年(1729年)の「西国三十三所巡礼札」が見つかった。石垣の隙間に2つ折りにして差し込まれていた。この調査では度重なる火災の跡が確認できたほか、緑や白色の釉で彩られた奈良時代の二彩陶器や、鎌倉末期に中国から輸入された青磁の花瓶や香炉も出土した。江戸時代に薩摩藩邸があった相国寺旧境内からは、薩摩焼や琉球の壺屋焼の徳利などの焼き物のほか、幕末の戦いで使われた火縄銃やライフル銃の弾も出土した。

 同展では小企画「貴族から武士へ~もののふ参上」も同時開催、平氏が活躍した時代などの遺跡や遺物を写真や輸入陶磁器などの出土品で紹介している。平氏の拠点、六波羅邸があった六波羅蜜寺旧境内の発掘では新しく門と堀の跡(上の写真㊨)が見つかった。壇ノ浦合戦後、六波羅邸は源頼朝に接収され、北条氏が鎌倉幕府の政庁「六波羅探題」を設けた。小企画コーナーには日宋貿易や日明貿易で輸入された中国の陶磁器なども展示されている。

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