く~にゃん雑記帳

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<近世の旅と大和めぐり>江戸中期に観光が主産業に 奈良晒・酒・刀剣など伝統産業は衰退

2012年10月14日 | 考古・歴史

【往来手形は住職・庄屋など地域の有力者が発行!】

 「近世の旅と大和めぐり」をテーマにした天理大学公開講座が13日、奈良県中小企業会館(奈良市)で開かれた。講師は文学部歴史文化学科の谷山正道教授(写真)。江戸時代になって世の中が落ち着くと庶民の旅が盛んになり、奈良をはじめ大和各地の名所旧跡を訪ねる人が増えた。とりわけ東大寺大仏の修復(1692年)と大仏殿の再建(1709年)による効果もあって、江戸時代中期には南都・奈良にとって観光が基幹産業になった。一方で伝統産業だった奈良晒(さらし)や奈良酒、刀剣、具足(甲冑やあぶみ)などは次第に衰退していった。

     

 庶民の旅行が盛んになるのは17世紀半ば以降。奈良県内最古の道標は伊勢本街道沿いの檜牧村(現宇陀市萩原区檜牧)で見つかっているが、建てられた時期は寛文4年(1664年)になっている。旅行するには「往来手形」が必要だったが、発行したのは奉行所などの役所ではなく、寺の住職や年寄、庄屋など地域の有力者だった。上の往来手形は5人家族のものだが、万一病死した場合、当地の作法で処理してくれるようお願いしている。経済的に恵まれない人にとっても「御蔭参り」の年には伊勢への旅が可能で、街道のあちこちで手厚い接待を受けたという。

 江戸時代には大和各地の名所旧跡の案内記が多く発行された。中でも人気だったのが貝原益軒の「和州巡覧記」(1696年刊)。「養生訓」で有名な福岡藩の儒学者・植物学者だ。貝原は大和に魅せられ9回も訪れて、この紀行文的な案内記をまとめた。吉野のふもとにある「六田」の項には「童共桜の木高二尺ばかりなるを多くうる。往来の人、是をかひて、うゑさせて通る」といった詳細な描写も。「文人に重宝された優れた袖珍本」で、これを携帯し名所を回る人も多かったそうだ。

  

 このほかにも「大和名所図会」「南都名所集」「大和めぐり道法絵図」など道中案内記や絵地図が次々に出版された。絵図には見所の南都八景から主な祭事、名産まで地図の端で紹介したものもあった。ただ当時の絵図の多くが、不思議なことに本来東側にある春日大社や若草山などが上部に描かれていた(上の写真は1844年刊行の「和州奈良之図」)。つまり90度左に傾け、本来の北を西に、西を南にして描かれているのだ。谷山教授は「奈良を訪れる旅行者の多くが西の大阪方面からやって来たため、理解しやすいために大阪からの視点で描いたのではないか」と推測する。

       

 庶民の旅の盛行に伴ってガイド役の「名所案内人」も生まれた。1692年の大仏開眼供養時にはその存在が文献の中に記されており、幕末の奈良奉行川路聖謨の日記「寧府記事」によると、嘉永元年(1848年)には70人余を数えたという。案内人は宿屋や土産物屋と連携して活動する者のほか流しの案内人もいた。その中にはまだ日が高いからと回り道して時間をかせいで奈良の宿に泊まらせるといった不心得者もいて、トラブルも度々あったそうだ。駕籠かきが談合して値段をつり上げて、それを取り締まるお触れ書きが出たこともあった(上の写真)。

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