【平城宮跡歴史文化講座「光明皇后と県犬養広刀自~聖武天皇をめぐる女性たち」】
奈良文化財研究所の平城宮跡資料館で30日、「光明皇后と県犬養広刀自~聖武天皇をめぐる女性たち」をテーマに平城宮跡歴史文化講座が開かれた。主催はNPO平城宮跡サポートネットワーク、講師は奈良大学の寺崎保広教授(写真)。専門は日本古代史で、長屋王家木簡の発掘・研究などで知られる。講演の内容は皇族以外から初の皇后となった光明皇后と天皇の夫人(ぶにん)、広刀自(ひろとじ)の生涯、天皇と広刀自の間に生まれた安積(あさか)親王の突然の死、さらに光明皇后の邸宅所在地など多岐にわたった。
光明子(後の光明皇后)は聖武天皇と同じ大宝元年(701年)生まれ。大宝律令が完成し、律令国家がスタートした年に当たる。この大宝が今日まで続く年号の始まり。父は藤原不比等、母は県犬養三千代。729年、光明子は皇后になる。亡くなったのは天皇崩御の4年後の760年。その生涯を記した「続日本紀」には「太后、仁慈にして、志、物を救うにあり、東大寺および天下の国分寺を創建するは、もと太后の勧むるところなり」とある。
光明皇后は阿倍内親王(後の孝謙天皇)と皇子(皇太子)を産むが、皇子は生後1年余で亡くなった。聖武天皇のもう1人の夫人、広刀自は井上内親王(白壁王妃)と不破内親王(塩焼王妃)、安積親王の3人を産む。広刀自の入代は光明子とほぼ同時期で、常に光明子に対する存在として意識され、3人の子どもも宮廷内で微妙な立場にあった。ところが、このうち聖武天皇にとって皇太子亡き後、唯一の男子の安積親王(728~744)も10代半ばで若くして亡くなった。
その死因については暗殺説も出ている。安積親王は難波遷都のため聖武天皇の行幸に従うが、途中で脚病にかかり恭仁京に引き返し、その2日後に急逝する。それがあまりにも不自然なことや恭仁京留守官が藤原仲麻呂だったことから、仲麻呂に暗殺されたのではないかというわけだ。ただ、寺崎教授は藤原氏にとってあまりにも危険な賭けであることや、聖武天皇の了解を得られようがないことなどから暗殺説には否定的だ。
光明皇后は父、藤原不比等の邸宅(現在の法華寺)に皇后になってからも住んでいたといわれてきた。法華寺が創建されたときの記録に「旧皇后宮を官寺とす」という表現が出てくるためだ。法華寺本尊の国宝十一面観音像も光明皇后の姿を模したものといわれる。ところが、長屋王邸(現在のイトーヨーカドー奈良店辺り)北側の溝から735~737年ごろの木簡が大量に見つかった。その中には皇后宮に関する木簡が多数含まれていた。
長屋王は藤原不比等が720年に没した後、役人のトップとして権勢を振るってきたが、729年、藤原氏の陰謀ともいわれる長屋王の変で自害に追い込まれた。「その後、おそらく長屋王邸が没収され、皇后宮がそこに移ってきたのではないか。法華寺の創建時の表現で皇后宮の前に『旧』が付いているのはそのためではないか」。寺崎教授はこう推測する。