く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<講演会「日中韓古代都城文化の潮流」> 平城京遷都 背景に再開された遣唐使による中国の生情報!

2012年10月24日 | 考古・歴史

 奈良文化財研究所の創立60周年を記念する日中韓国際講演会がこのほど奈良市のなら100年会館で開かれた。タイトルは「古代都城文化の潮流 奈文研60年都城の発掘と国際共同研究」。各国で調査・発掘に携わる3カ国4人がこれまでの研究成果を報告した。その中で奈文研埋蔵文化財センターの遺跡・調査技術研究室長、小澤毅氏は「飛鳥から藤原京そして平城京へ」の演題で遷都の背景について、都城発掘調査部史料研究室長の渡辺晃宏氏は「出土文字資料からみた平城京の役所と暮らし」のテーマで大量の木簡から分かったことについて発表した。

      

    小澤 毅氏      渡辺晃宏氏

【藤原京は机上の知識に基づいて建設された!】

 小澤氏は飛鳥時代後半の後飛鳥岡本宮(656~672年)や飛鳥浄御原宮(672~694年)について「防衛体制の整備では百済の王宮である泗(しひ)などがモデルとされ、亡命百済人が大きな役割を果たしたとみられる」と指摘。だが、律令国家の建設を目指す当時の朝廷にとって飛鳥浄御原宮は十分なものとはいえず、早い段階から新都の候補地探しが行われた。そして694年、日本最初の条坊制都城として建設された藤原京に遷都する。

   

 藤原京(上の地図は小澤氏作製)は10坊×10坊(10里=約5.3km=四方)の正方形で、藤原宮はその中央に配置されていたと推定される。その形態は中国の都城にも類例がなく、モデルは中国の書物「周礼(しゅらい)」に記された都城の理想型ではないかという。当時、遣唐使の派遣は669年から中断し、中国の直接情報が途絶えていた。そのため「藤原京は『周礼』や唐の永徽(えいき)律令など机上の知識に基づいて建設された可能性が高い」。

 701年大宝律令が完成し、翌年、三十数年ぶりに遣唐使が派遣された。704年に帰国した遣唐使から最新の中国情報がもたらされるが、藤原京と長安城のあまりにも大きな隔たりに衝撃を受ける。藤原京はもともと南東が高く北西が低く、南面する天皇にとってふさわしくないという地形状の問題もあった。こうした中で長安城をモデルとした新しい都の建設が始まり、710年遷都する。

 朱雀大路は藤原京の3倍になり、南端には巨大な羅城門。都の中枢の平城宮は長安城と同じく京域の北端に置いた。ただ藤原宮の大極殿など建物の多くは解体され平城宮に運ばれ再利用された。「平城京は当時の国力と政治的・社会的諸条件による制約の中で、長安城と藤原京をわが国なりに〝止揚〟した都城だった」(小澤氏)。

【平城京は〝地下の正倉院〟木簡で判明した役所や長屋王邸】

 続いて講演した渡辺氏は「奈良時代はまさに木簡の世紀であり、奈良の都平城京は木簡の都だった」と話す。最初の木簡の発見はほぼ半世紀前の1961年。以来、平城宮跡から10万点近い木簡が、その周辺の平城京からも12万点に及ぶ木簡が出土している。そのうち約2300点が重要文化財に指定されている。これまでに発掘が終わったのは全体の37%とまだ3分の1程度。今後さらに多くの木簡が出てくるに違いない。

 出土したものの中には1万3000点に及ぶ役人の勤務評定の木簡の削り屑があった。それらの木簡や平安京の役所配置図などから、平城宮の東南に奈良時代後半、律令制の8省のうち式部省と兵部省があったことが明らかになった。さらに式部省の東側から発掘された礎石や新たな勤務評定の削り屑から、そこに奈良時代前半の式部省という下層の遺構と、基壇建物を持つ上層の遺構の2つが重複して存在していることが分かった。

      

 では上層の役所は何だったのか。この建物は北向きに建てられていた。平安京で北が正面である役所は全国の神社行政と宮中の神祇祭祀を司る神祇官だけ。改めて勤務評定木簡を洗いなおす中で「大神宮」「水主社」といった神社名が書かれたものが見つかった。さらに「神」や「少祐」(神祇官の第三等官)と書かれた墨書土器も出土した(上の写真)。その結果「奈良時代前半の式部省がその後、西隣の敷地に移転し、その跡地に神祇官が移ってくるというダイナミックな役所の変遷が明らかになった」。

 これらの発見は木簡が単に文字資料としてだけでなく、遺構・遺跡の解明に大きな役割を持つ考古資料であることを示す。奈良時代前半の式部省の斜め向かいに、左大臣長屋王の邸宅があったことは今では定説だが、それもそこから発掘された3万5000点に及ぶ木簡によって判明した。「長屋王邸は発掘調査成果そのものによって住人を特定できた唯一の幸運な事例。その要因はひとえに木簡の発見にあった」(渡辺氏)。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« <アンビリバボー> あっち... | トップ | <ツワブキ(石蕗)> キク... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿