く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ほうらんや火祭り> 直径1.5m・重さ500kg 国内最大級の大松明

2012年08月16日 | 祭り

【奈良県橿原市の夏の風物詩、2つの神社で担いで奉納】

 橿原市の春日神社と八幡神社で15日「ほうらんや火祭り」が行われた。五穀豊穣と無病息災を願って400年以上前から続くという伝統行事。奈良県重要無形民俗文化財にも指定されている。松明(たいまつ)は1人で担ぐ小松明と20~40人で担ぐ大松明の2種類。大きいものは直径が1.5m、高さ3m、重さ500kgにもなる。神社境内でこれを担いで回って奉納する。火祭りは新宮・神倉神社の御灯祭、守山市の勝部の火まつり、鞍馬の火祭り、八日市市の太郎坊お火焚き祭、那智の火祭りなど各地にあるが、日中に行われるのは珍しい。

 松明の形は大小ともずん胴状。小麦のワラを芯にして菜種ガラで包み、これを半割りした青竹で覆い注連縄で胴体を締める。大松明は縄で3カ所ワッカを作り、その中に長さ10mほどの丸太の担ぎ棒3本を通して担ぐ。いずれも各地区でこの日早朝から作ったものだ。昔1度だけ「ほうらんや」をやらなかったところ、その年に疫病がはやったことから、その後は毎年欠かさずに行われているという。

 最初に春日神社で午後1時ごろから始まった。近鉄坊城駅から北東に歩いて約10分。東坊城4地区から大松明4つ、小松明2つが神前に奉納されていた。まず松明を担いで境内を時計回りに1周。その後、本殿前の火床から点火し2周する。見物客はカメラを抱えた人を中心に300人ほどか。周囲にロープが張られているが、大松明が前を通り過ぎると熱風が押し寄せ熱い。

 

 

 特に点火して2周目は火の勢いも増す。浴衣姿の担ぎ手は濡れタオルなどで頭を覆っているが、その熱さは半端じゃないだろう。担ぎ終わった松明は境内の中央に立てられ、燃えるに任せる。時々、竹がはじける「パン」「バーン」という大きな音。蝉時雨の中、1時間ほどで無事に終了。最後は氏子総代の方の挨拶と手打ちで締めくくられた。その後、頂いたお神酒のおいしかったこと!

 午後3時からは場所を坊城駅に程近い八幡神社に移して行われた。春日神社より境内が広いうえ中心街にあるためか、観客も町民を中心に春日神社の何倍も多かった。町内6地区から大松明が担がれ次々に〝宮入り〟するが、大きい松明は鳥居をくぐるのもやっと。本殿でお祓いをすませた後、同じように各松明が「ワッショイ、ワッショイ」と境内を3周。火の勢いが強く見ていてヒヤヒヤする松明がある一方で、水をかけ過ぎたのか、なかなか火がつかず何回も点火をし直す松明もあって笑いを誘った。

 それにしても「ほうらんや」という一風変わった名前のこの祭り、一体どこから来ているのだろうか? 由来ははっきりしないが、①各地に伝わるヒフリ(火振り)という雨乞い神事の1つ②虫送り行事(「ほうほう、ほうらやれ」という虫送り行事の掛け声に似ているから)③お盆行事の精霊火――など諸説ある。かつての掛け声は「豊来や(ほうらいや)」だったという話も。この「ほうらんや」に響きが似ている祭りに、松江で12年に1回行われるお船神事「ホーランエンヤ」がある。その語源もはっきりしないが「宝来栄弥」や「蓬莱へ蓬莱へ」の掛け声からともいわれる。「ホーランエンヤ」の祭りは大分・豊後高田や広島・尾道でも行われている。

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<サルスベリ(百日紅)> 真夏にカキ氷のような花で存在感を発揮!

2012年08月15日 | 花の四季

【「笑いの木」「こちょこちょの木」「怠け者の木」などの異名も】

 ミソハギ科で原産地は中国南部。唐代の都、長安の紫徴(宮廷)に多く植えられていたことから漢名は「紫薇(しび)」。日本には江戸時代に渡来し、貝原益軒の「花譜」(1694年)に百日紅として登場する。「百日」は花期が長いことを示す。花の色は主に赤やピンク。白いシロサルスベリ、淡紫色のウスムラサキサルスベリなどもある。

 幹がツルツルで、木登り名人の猿でも登りにくいため「猿滑り」とも書く。だが実際にはやすやすと登っていくそうだ。ツルツルになるのは成長に伴って樹皮の古いコルク層が剥がれ落ちていくため。このため「ハダカノキ」「ハダカギ」と呼ぶ地方もあるという。「笑いの木」や「こちょこちょの木」の異名も持つ。その心は? 「裸の幹は振動が伝わりやすく少し触れるだけで枝先の花や葉が揺れるため」、いや「弱い風でも枝先の花がくすぐったそうに身をよじるため」など諸説がある。サルスベリは葉を遅くつけ早く落とす。葉が茂る期間が短いため「怠け者の木」とも呼ばれる。「自分は時々この木の横着なるに、人間同様腹を立てる事あり」と、芥川龍之介が怠け者呼ばわりしたのが始まりという。

 サルスベリは長生きだ。高野山普賢院のサルスベリは樹齢約250年で、寺院や文化財の多くが焼失した1888年の高野山大火でも奇跡的に生き残った。毎年ピンクの花が参拝者を和ませてくれる。このほか川崎市の泉福寺、青森県弘前市の革秀寺、岐阜県恵那市の上田薬師堂などのサルスベリも樹齢なんと300~400年という。サルスベリは材質が堅く腐りにくいため、カヌーや床柱、麺棒などの材料として利用される。

 中国原産とあって中国、台湾には紫薇(サルスベリ)を市花に制定しているところが多い。江蘇省徐州市、四川省自貢市、台湾基隆市……。一方、日本でも岡山市や東京都調布市、徳島県美馬市、沖縄県与那国町などで市や町の花や花木になっている。埼玉県秩父市には「百日紅街道」があり、「秩父ミューズパーク」では7月から9月にかけ色とりどりのサルスベリが斜面広場に咲き誇る。広島に「甲山さるすべり街道」、岐阜にも「清流サルスベリ街道」がある。「炎天の地上花あり百日紅」(高浜虚子)、「散れば咲き散れば咲きして百日紅」(加賀千代女)。

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<BOOK> リイド文庫「日本の名城がわかる本」

2012年08月14日 | BOOK

【本山一城著、リイド社刊】

 「城の概説」「写真で見る城用語」「厳選!名城70!」の3つの章で構成、本のタイトル通り国内の城に関する入門書になっている。群雄割拠する戦国時代、全国各地に乱立した城は江戸時代に入って「一国一城令」で激減する。それでも明治維新の段階でまだ300近い城が存在した。だが、その後次々廃城となり、空襲による焼失もあって生き残った城の天守(天守閣)はわずか12基まで激減する。ところが大阪城を皮切りに戦後各地で復興されてきた。本書はその中から天守がある70の城を北の五稜郭(函館)から南へ順番に紹介している。

   

 城といえば天守と石垣を連想するが、天守の存在意義は「パフォーマンスと威圧と展望」。織田信長と信長の家臣団が天守造りに力を入れ、安土城をはじめ柴田勝家の北庄城、羽柴秀吉の長浜城、明智光秀の坂本城、筒井順慶の郡山城などに天守が造られた。信長以降、築城の石垣造りは「手伝普請」「割普請」と呼ばれ家臣の義務とされた。徳川家康の時代になると「天下普請」と呼ばれる。建築物は原則的に城主の負担だが、土木工事は大名持ち。豊臣秀吉の普請好きに悲鳴を上げる武将も多かったという。

 城の外装は「下見板張り」と「白漆喰総塗籠」に分かれる。古い城は全て板張りで、西国の豊臣系大名が好んで用いた。白漆喰に比べると安っぽい感じだが、漆塗りのうえ板張りの中に銅板を張って逆に高価なケースもあった。白漆喰の代表は姫路城。その姫路城は①連立式といわれる構造は4つの円筒を四角く回廊でつないだ西欧の城の基本パターン②「狭間(さま)」と呼ばれる鉄砲を撃つための壁穴や「石落とし」と呼ばれる張り出しは英国やドイツの城の模倣③石門の「埋門(うずみもん)」はギリシャ・ミュケナイ要塞の獅子門そのもの――など西欧的要素が随所に見られるという。

 本書の中に頻繁に出てくる表現に「縄張り(設計)」がある。縄張りというと今では勢力範囲を意味するが、本来は築城などの際に実際に縄を張って建築物の位置などを決めることを指す。加藤清正、藤堂高虎とともに「築城3名人」といわれた黒田如水が縄張りした城には大坂城、姫路城、中津城、高松城、広島城、福岡城などがある。加藤清正は熊本城、八代城、韓国の機張城や西生浦城など。清正は朝鮮での苦戦から、いざという時の食料として、熊本城の畳に干瓢(かんぴょう)を織り込んだそうだ。藤堂高虎が縄張りした城には大洲城、駿府城、江戸城、名古屋城、伊賀上野城、亀山城、二条城、新大坂城などがある。

 では実際に築城を手掛けたのはどんな人たちだろうか。「安土築城で力を発揮したのは熱田神宮の宮大工・岡部又右衛門此信」。では大坂城は? 「奈良の法隆寺の工匠を使ったらしい。後に家康に仕えて活躍した中井大和守正清の父親あたりが担ったようである」。その中井正清は家康の命令で慶長12年(1607年)禁裏を造営し、その後、駿府城天守、方広寺大仏殿、名古屋城、江戸城、日光東照宮などで大工頭を務めた。

 築城にまつわって語り継がれているのが人柱伝説。大洲城では身寄りのない女性「おひじ」、松江城では美貌の生娘や虚無僧、大垣城では山伏を人柱や人身御供にしたと伝わる。だが筆者は「全て嘘」と断言する。大垣城の天守台を発掘したところ人骨はなかったが、鼻緒の穴が一つの下駄が出てきた。「このように何か代わりのものを埋めるという方法は実際に行われていたらしく、熊本城からも木製の人型が出土している」という。

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<「頼朝と重源」展> 平家の南都焼き打ちから東大寺はいかに再興を果たしたか?

2012年08月13日 | 考古・歴史

【重源61歳で大勧進、頼朝が資金面などで大きな後ろ盾】

 今から約800年前の源平合戦の中で、東大寺は平清盛の息子、重衡による南都焼き打ちで、興福寺とともに灰燼に帰す。再興不能とも思われたが、その後、大仏殿、東塔、鐘楼などが次々に再建されていく。奈良国立博物館で開催中の特別展「頼朝と重源―東大寺再興を支えた鎌倉と奈良の絆」(9月17日まで)は、国宝や重要文化財なども含め100点余の宝物で、東大寺がいかに再興されていったのか、その軌跡をたどっている。

 南都焼き打ちがあったのは1180年12月。翌年3月になっても大仏の手や首が焼け落ちたままになっていたという。大勧進として再興を指揮したのが俊乗房重源(1121~1206)。後白河法皇(1127~92)の支援を受け、大仏や大仏殿の再建に取り組み、1185年の大仏開眼供養会では法皇が自ら大仏に眼を点じたという。法皇崩御後には源頼朝(1147~99)が後ろ盾となった。頼朝は壇ノ浦の戦い(1185年3月24日)の直前の同7日、重源に米1万石、砂金1千両などを送っている。大仏殿の落慶供養が行われたのはその10年後の1195年3月。頼朝は鎌倉から2万人とも3万人ともいわれる兵を率いて臨んだという。

     

 会場は「大仏再興―仏法・王法の再生」「大仏殿再建」など6つのテーマに分かれる。会場に入ってまず目に入るのが重文の後白河法皇坐像(京都・長講堂蔵)。次いで国宝の重源上人坐像(東大寺蔵、上の写真㊧)と同じく国宝の源頼朝像(京都・神護寺蔵、上の写真㊨)。重源坐像の制作者は運慶説と快慶説があるが、特別展を企画した同館学芸部研究員の山口隆介さんによると、運慶説が最近有力になっているという。

 その坐像の背後には浄土寺(兵庫県小野市)の阿弥陀如来立像(裸形像、像高266.5cm)。重源は勧進活動の拠点を各地に設けたが、浄土寺はその一つの「播磨別所」を置いた所。この如来立像は重源が来迎会(練り供養)の本尊として快慶に造らせたという。後白河法皇の開眼筆は長さが60cmもある巨大なもので、今も正倉院宝庫に伝わる。会場にはその模造品が展示されていた。その大きな筆で大仏の眼の高さまで昇って眼を入れる法皇の姿を想像するだけでも楽しくなってくる。

 大仏殿落慶供養に参列した頼朝は東大寺の鎮守八幡宮(現在の手向山八幡宮)から菩薩面や舞楽面を譲り受け、鎌倉の鶴岡八幡宮に奉納したといわれる。今回の展示会にはそれらの菩薩面と舞楽面4面の計5面(下の写真㊧は舞楽面陵王)が展示されていた。800年ぶりに奈良への里帰りがかなったわけだ。頼朝が後白河法皇から頂いたという国宝の「籬菊螺鈿蒔絵硯箱(まがきにきくらでんまきえすずりばこ)」(鶴岡八幡宮蔵)は美しい輝きで高い品格を放っていた。頼朝と重源の間では東大寺再興に関して度々書状が交わされたといわれ、文治4年(1185年)9月8日付の「源頼朝書状」(国宝)も展示されている。

   

 この展示会では重源没後、大勧進として東大寺再建に尽くした栄西(ようさい、1141~1215)と行勇(ぎょうゆう、1163~1241)にもスポットを当てた。この2人は鎌倉で活動していた僧侶で、頼朝と重源の深いつながりがその後にも引き継がれたことが分かる。栄西が源実朝に献上したという「喫茶養生記」も展示されていた。この著書は中国で広く飲用されていた茶を日本にも定着させようと茶の効能や製法などを記したもの。ただ栄西は大勧進在任中、落雷で焼失した京都・法勝寺の九重塔の再建を命じられたこともあって、東大寺再興の実績としては東塔の立柱と鐘楼の再建にとどまる。その後を継いだ行勇が国分門(西大門)、東塔、講堂などの再建に当たった。

 このほかの展示品では、快慶が東大寺再興時の1201年に制作した国宝の「僧形八幡神坐像」(東大寺蔵、上の写真㊨)が往時の美しい彩色をそのまま残していた。鶴岡八幡宮に神宝として伝わる国宝の太刀「沃懸地杏葉螺鈿太刀(いかけじぎょうようらでんたち)」や、重源が所持していたといわれる自然木の杖も目を引いた。

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<奈良・猿沢池> 「アンビリバボー」 亀が鳩を水中に引きずり込んで食べた!

2012年08月12日 | アンビリバボー

【市民・観光客憩いの場の眼前で残酷な生存競争!】

 猿沢池といえば奈良観光の名所の一つ。興福寺の五重塔や水辺の柳が水面に映えて情緒たっぷり。市民の憩いの場にもなっている。春にはコイやフナを放つ興福寺の「放生会」(ほうじょうえ)、中秋の名月には優雅な「采女祭」(うねめまつり)も行われる大切な場所だ。そんな長閑な中で11日、信じられない光景が繰り広げられた。亀が水を飲んでいた鳩を水中に引きずり込み溺れさせたうえ、寄ってたかって羽をむしり食べてしまったのだ。1羽が犠牲になった直後、別の1羽も危ないところだったが、必死の抵抗でどうにか助かった。

 その残酷な光景が繰り広げられたのは11日の午後4時すぎ。木のベンチに座って甲羅干しする亀を見ていたところ、飛んできた鳩が水面に足を少し入れて水を飲み始めた。その直後、鳩が羽をバタバタさせ、そのうち水没。しばらくして左右の羽を上に広げ逆立ちの格好で浮かんできた。全く動かなかった。その間30秒余り。突然の出来事だった。〝犯人〟は亀に違いない! そう思って見ていると、亀が何匹も集まってその鳩をつつき始めた。見る見るうちに鳩の羽根が何枚も水面に浮かぶ。

 周りのベンチには数人の男女がいたが、話に夢中でその出来事に気づいた人は他にいないようだった。通りすがりの男女が「亀が何か食べているね」と言ったので、顛末を教えてあげると、その女性は「えっ!」と言ったまま絶句。それもそうだろう。そんな残酷物語が真っ昼間に眼前で繰り広げられるなど誰も想像できないに違いない。私自身、これまで何度も猿沢池に来ているが、こんな光景を目撃したのはこれが初めてだった。

 

 

 しかもそれだけで終わらなかった。しばらくして別の鳩が同じように犠牲になりかかったのだ。水中に引きずり込まれ、羽をバタバタさせもがき続ける。もうだめか。そう思った瞬間、いつも亀が甲羅干ししている浮島に上がってきた。だが、びしょぬれで呆然としたままで身動きができない(上の写真㊨)。その鳩のそばに別の鳩が飛んできて上にのしかかった。犠牲になりかけたこの鳩はメスだったらしい。その後、ゆっくり歩いたが、亀に足をかまれて怪我をしたのか、ヨタヨタしてうまく歩くことができなかった。

 猿沢池では亀が増え続けているという。十数年前の改修工事の際の調査では、日本固有のイシガメやクサガメをはじめアカミミガメ、スッポン、カミツキガメなど9種類が確認された。その中でもペットの「ミドリガメ」として輸入されてきたアカミミガメが急増しているという。大きくなってペットとして飼えないからという理由で、猿沢池に捨てる人が絶えないそうだ。

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<郡上おどり> 13~16日は徹夜踊り 明け方まで続くお囃子とゲタの響き!

2012年08月11日 | 祭り

【お殿様も奨励! 7月中旬~9月上旬に延べ32夜】

 今年も盆踊りシーズンがやって来た。盆踊りといえば普通長くても3~4日間だが、岐阜県郡上市八幡町の「郡上おどり」は7月中旬から9月上旬まで延べ32夜も続く。盆踊りとしては文句なしに国内最長。中でも一番の盛り上がりを見せるのが8月13~16日の「徹夜踊り」だ。午後8時ごろから翌日の明け方まて夜を徹して踊りまくる。「奥美濃の小京都」ともいわれ、ふだんは清流の音が響く静かな町だが、この4日間は毎日4万~5万人が訪れ、一晩中「郡上節」のお囃子とゲタの音に包まれる。

 郡上八幡は町を東西に貫く吉田川が長良川に合流する所にある旧城下町。戦国時代の武将・山内一豊の妻、千代の出身地ともいわれる。その夫唱婦随ぶりを描いた「功名が辻」の作者、司馬遼太郎は郡上八幡城を「日本で一番美しい山城」と形容した。郡上おどりは一説によると、江戸時代中期の百姓一揆後、郡上藩主の青山公が武士や町民農民の融和を図るため奨励したのが始まり。国の重要無形民俗文化財にも指定されている。

 今年の郡上おどりは7月14日、郡上八幡旧庁舎記念館前での「おどり発祥祭」でスタートした。7月に7夜、8月には徹夜踊りも含めて22夜、9月には8日の「おどり納め」まで3夜を、目抜き通りや寺社の境内、公園など町内各所で踊る。輪の中心には囃子方と音頭とりを乗せた屋形。郡上節には有名な「かわさき」をはじめ、「春駒」「三百」「ヤッチク」「げんげんばらばら」「猫の子」など10曲ある。「郡上のな~八幡出てゆくときは(アソンレンセ)――」。踊りは通常この「かわさき」で始まり、「まつさか」で終わる。その間の選曲は「春駒」など動きが激しい曲の後に「ヤッチク」など遅めの曲を入れるなど、踊り手の様子を見ながら決めるそうだ。

 ただ、いずれの曲も振り付けが素朴で覚えやすいため、見よう見まねで誰でも自由に輪に加わることができる。「郡上おどりは見る踊りではなく、参加する踊り」。郡上おどり保存会のメンバーもこう口をそろえる。保存会では毎晩1曲を選び、外部からやって来た踊り手を中心に審査。踊り上手にはその場で「免許皆伝」の木の札を渡し、事務所で札と引き換えに「免許状」を授与する。服装は自由だが、浴衣にゲタが基本。旧庁舎記念館や郡上八幡博覧館では土日曜や徹夜踊り期間中、踊り教室を開いて指導している。夜の本番に備え教室で特訓しておけば、自信をもって踊りの輪に参加できること請け合い。運が良ければ「免許状」をゲットできるかも?

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<世界報道写真展> アラブの春、東日本大震災、ノルウェー大量殺人……

2012年08月10日 | メモ

【応募124カ国・地域の5000人余の作品から約170点を厳選】

 「世界報道写真展」が16日までの会期で大阪・梅田のハービスOSAKA地下2階「ハービスHALL」で開かれている。今年で55回目。世界124カ国・地域の報道カメラマン5247人が2011年に撮影した応募写真10万点余の中から厳選した約170点を一般ニュース、自然、スポーツ、日常生活など9つの部門に分けて展示している。北アフリカ・中東の民衆運動、東日本大震災、ノルウェーでの大量殺人事件、サイの角の密漁、麻薬依存症の娼婦……。迫真の写真の1枚1枚が胸に迫ってくる。

   

 「世界報道写真大賞2011」に選ばれたのはサムエル・アランダ氏(スペイン)がイエメンでの民主化運動を撮影した一こま。反体制デモで催涙ガスを浴びた上半身裸の息子を母親が抱きかかえた写真で、会場を入ってすぐ真正面に展示されていた。母親の全身を覆った黒い衣装と19歳の愛息をしっかり抱く両手袋の白さが印象に残る。「一般ニュースの部」組み写真1位のレミ・オシュリク氏(フランス)がリビアで撮った写真は衝撃的だった。機関銃を手にカダフィ大佐の邸宅に突入する反政府派、半裸で横たわる大佐の遺体……。オシュリク氏はその後、シリアで取材活動中、政府軍の砲撃により命を落としたという。まだ28歳の若さだった。

 「自然の部」組み写真1位のブレント・スタートン氏(南アフリカ)は角の根元を引き抜かれたサイの無惨な姿や24時間体制で希少種のキタシロサイを密漁から守る監視チームをカメラに収めた。サイの角の取引は禁止されているが、古くから解熱や解毒剤として効き目があるといわれ、最近ベトナムなどアジア新興国で需要が急増しているという。昨年は南アフリカだけでも密漁で400頭が失われたそうだ。同じスタートン氏が撮った「ウクライナで働く麻薬依存症の娼婦マリア」の写真は、「現代社会の問題の部」単写真でも1位に選ばれていた。

 母国イランの公開処刑の生々しい現場をモノクロで収めたエブラヒム・ノルージ氏の写真も衝撃的。絞首刑の執行直後だろうか、4人の男性が首にロープをかけられ宙ずりのまま。イランは中国に次いで死刑執行が多い国といわれ、殺人や強姦のほか詐欺のような軽い罪でも死刑を言い渡されることがあるという。一連の写真は「現代社会の問題の部」組み写真2位で、同1位はステファニー・シンクレア氏(米国)の「世界各地で存続する児童結婚の伝統」の写真だった。

 東日本大震災の爪痕を撮影した7人(うち日本人3人)の作品も選ばれ展示されていた。手塚耕一郎氏が津波に襲われてから12分後に撮った宮城県名取市や仙台空港に向かう津波の写真は「スポットニュースの部」組み写真1位。また、がれきの中から娘の卒業証書を見つけ、うれしそうに広げる母親の姿などを撮った千葉康由氏の写真は「ニュースの中の人々の部」組み写真1位に選ばれていた。

 隣接会場では「東日本大震災報道写真展」も同時開催中。「世界報道写真展」はこの後、9月から11月にかけて京都市、滋賀県草津市、大分県別府市を巡回する。

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<草笛演奏家・岡内章二郎さん> 被爆樹木の葉っぱに平和の祈りを込めて

2012年08月09日 | ひと模様

【哀愁帯びた迫力ある響き、演奏会は年間200回】

 プロの草笛演奏家、岡内章二郎さんの講演と演奏会「平和の祈りを草笛にのせて…」が8日、奈良県生駒市主催の「平和のつどい」の中であった。岡内さんは1951年広島県生まれ。広島市原爆被害者の会2世部会運営委員も務めており、被爆樹木の葉っぱを使って奏でる草笛を通じ、平和の大切さと核兵器の廃絶を訴え続けてきた。各地で開く草笛演奏会は年間約200回に及ぶ。2007年には日本音楽フェスティバルで審査員特別賞、08年には東久邇宮文化褒賞を受賞している。

   

 岡内さんの父親が大切にしていた観葉植物のベンジャミンが原爆で枯れた。父は一生懸命水やりを続けたが、新芽を見ることなく亡くなった。ところが岡内さんが遺志を継いで世話をしていると、父の逝去から50年目、被爆後62年目にして再び芽が出てきたという。草笛は主にその被爆ベンジャミンの葉っぱで奏でる。この日は観葉植物のカポックも加え2種類の葉っぱで、「涙(なだ)そうそう」「原爆を許すまじ」「アメージンググレース」「戦争を知らない子どもたち」「上を向いて歩こう」など12曲を演奏した。

 作務衣姿の岡内さんが目を閉じ、左手の指で葉っぱを口に押し当てると、哀愁を帯びた草笛の大きな響きが会場を包み込んだ。その迫力は想像をはるかに超える。1枚の小さな葉っぱから出てくる音とは到底信じられないような音色に圧倒された。「音楽には全世界に平和を伝える力があると信じています。被爆樹木の葉っぱにこだわって、いつも魂を込めてふいています」。岡内さんは演奏の合間に、原爆を体験した人たちが作った詩も朗読した。「信じられない、信じられない。多くの死者を出したあの戦争を人間がしたこと。また人間が始めているということ。信じられない、信じられない」――。

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<ハマユウ(浜木綿)> 万葉集に柿本人麻呂の歌1首「み熊野の浦の浜木綿……」

2012年08月08日 | 花の四季

【宮崎県の県花、「ハマオモト」の別名も】

 ヒガンバナ科の常緑の暖地性海浜植物。太い茎の先端に十数個の白い花を傘状につける。6枚の細い花弁が反り返って咲く様は白いヒガンバナにそっくり。その花は芳香を放ち、特に日没後、甘い香りを漂わせる。光沢のある葉が年中青々してオモトに似ていることから「浜万年青(ハマオモト)」の別名も。関東以西の海岸で見られ、分布の北限は年平均気温15度の等温線とほぼ一致、「ハマオモト線」とも呼ばれている。ただ地球温暖化のせいか、北限は少しずつ北上しているという。

 夏の海辺を彩る涼しげな花として古くから親しまれ、万葉集にも柿本人麻呂が詠んだ歌1首が掲載されている。「み熊野の浦の浜木綿 百重(ももへ)なす 心は思へど ただに逢はぬかも」。葉が幾重にも重なる熊野海岸のハマユウのように、あなたのことを深く深く思っているのに、直接会えないことが残念でならない――。熊野地方は今でもハマユウの自生地として知られる。その一つ、和歌山県新宮市の孔島(くしま)には万葉学者・犬養孝揮毫のこの歌碑が立つ。三重県志摩市の和具大島の大群落も有名だ。

 ハマユウは宮崎県の県花。日南海岸の堀切峠やこどものくになど県内各所で見られる。ハマユウは宮崎の物産や観光などの代名詞にもなっている。豚は「系統豚ハマユウ」、その肉は「宮崎ハマユウポーク」、鶏は「はまゆうどり」、宮崎カーフェリーは「はまゆう」、高速バスは「はまゆう号」(宮崎~鹿児島)、農協は「JAはまゆう」、宮崎交通の観光バスガイドのOBの集まりは「はまゆう会」……。延岡市には滞在型レジャー施設「浜木綿村」もある。まさに県内〝ハマユウ尽くし〟である。

 ハマユウを「市の花」に制定している市町村も多い。新宮市のほか山口県下関市、高知県室戸市、静岡県沼津市、神奈川県横須賀市、三浦市……。愛媛県宇和島市の沖の島や静岡県下田市の田牛(とうじ)海岸、福岡県芦屋町の夏井ケ浜の群生地は、県の天然記念物に指定されている。下関市の角島、佐賀県唐津市の神集島(かしわじま)のように市町村の天然記念物になっている所も多い。ただ全国的に見ると、海岸の埋め立てや護岸工事でハマユウの生息域は減少傾向。それだけに手厚い保全活動が欠かせない。宇和島の沖の島(無人島)では30年以上も前から市内の中学生たちが砂浜の清掃や葉を食べるハマオモトヨトウ虫の駆除、苗の植樹などを続けているそうだ。

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<100歳の詩人 柴田トヨ> 著名人36人が直筆した「くじけないで」展

2012年08月07日 | ひと模様

【片岡鶴太郎、日野原重明、小原宏貴、三国連太郎、佐藤可士和……】

 「著名人がつむぐ100歳の詩人 柴田トヨ くじけないで展」がいま、大阪高島屋で開かれている(14日まで)。トヨさんは1911年(明治44年)6月26日栃木市生まれ。一人息子健一さんの勧めで90歳を過ぎてから詩を作り始め、3年前に「私の葬式代で作ってほしい」と詩集「くじけないで」を自費出版、半年で1万部を完売した。これに着目した飛鳥新社が2010年に改訂版の「くじけないで」、さらに昨年には第2弾の詩集「百歳」を出版したところ、大きな反響を呼んで合計200万部を超えるベストセラーに。同展は著名人にお気に入りの詩を選んで揮毫してもらったものだが、いずれも筆使いの巧拙を超えて、トヨさんのほのぼのとした温かい詩の世界が1文字1文字に刻まれている。

   

 作品は揮毫した方々の名前の五十音順に並ぶ。小原宏貴(いけばな小原流家元、以下敬称略)が書いたのは『先生に』と題した作品(下の写真㊧)。「私をおばあちゃんと呼ばないで 『今日は何曜日?』『9+9は幾つ?』 そんなバカな質問もしないでほしい 『柴田さん 西条八十の詩は好きですか? 小泉内閣をどう思います?』 こんな質問ならうれしいわ』。トヨさんの作品について「一切の無駄な言葉を省くことによってストレートに想いを表現しており、一枝一枝の美しさや力強さを表現するため余分なものを省いていく、いけばなの〝引き算の美学〟とどこか共通している」という。

 

  片岡鶴太郎が揮毫した作品は最も多い20点が展示されていた。その中の『忘れる』(上の写真㊨)の後半はなかなか味わい深い。「忘れてゆくことの幸福 忘れてゆくことへのあきらめ ひぐらしの声が聞こえる」。トヨさんの詩については「1人の女性が歩んだ一本道 その道の季節の色が 匂いが私の心に迫り 切なく暖かく包む」と詩的な表現で印象を寄せている。三国連太郎も同じ『忘れる』を書いた。「迷わずこの詩を選ばせていただきました。人生の道しるべとでも言いましょうか。私なぞまだまだだなあと」。

 遠藤保仁(プロサッカー選手)が揮毫した作品は『被災地のあなたに』。「最愛の人を失い 大切なものを流され あなたの悲しみは計り知れません でも生きていれば きっといい事はあります お願いです あなたの心だけは流されないで 不幸の津波には負けないで」。菊池雄星(プロ野球選手)は堂々とした筆使いで『幸来橋』を揮毫。「奉公先でいじめられ 幸来橋のたもとで泣いている私を ふーちゃんががんばろうねって笑いかけてくれた 巴波川(うずまがわ)のせせらぎ 青い空 白い雲 幸せが来るという橋 やさしいふーちゃん がんばれる気がした 八十年前の私」。この詩の感想「80年前ということで今の自分と同じ年齢。自分も何気ない一言で救われたことがある。一期一会。自分も周囲と真剣に向き合っていきます」。

 佐藤可士和(アートディレクター)が揮毫したのは『貯金』という作品。「私ね 人からやさしさを貰ったら 心に貯金をしておくの さびしくなった時はそれを引き出して元気になる あなたも今から積んでおきなさい 年金よりいいわよ」。日野原重明(聖路加国際病院理事長)はトヨさんと同い年でトヨさんが3カ月余りお姉さん。トヨさんが100歳になる前年に作った作品『百歳』を揮毫した。「……両親も夫もお友だちも みんな逝ってしまった でも次の世で会えるわ 私 笑顔で会いたい そして いろいろなこと 話してあげたい 百歳のゴールを胸を張って駆けぬけよう」。トヨさん、百歳になって「人生、いつだってこれから!」。励まされるなぁ~、この言葉。

【柴田トヨさん101歳 老衰のため1月20日死去】(2013年1月21日記)以下は毎日新聞から。「栃木市出身。92歳で新聞の投稿欄に詩を送り始め、09年に平易な言葉で日常をつづった『くじけないで』を自費出版。10年に飛鳥新社から出版され、前向きな作風が中高年女性らの共感を集め、詩集では異例の150万部突破のベストセラーとなった。100歳を迎えた11年には『百歳』を出版、両作で計200万部を超えた」

 

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<門司港レトロ地区> ロマン誘う明治~大正時代の西洋建築

2012年08月06日 | 旅・想い出写真館

【旧門司三井倶楽部にはあのアインシュタイン夫妻も宿泊!】

 

 左右対称の門司港駅(上の写真㊧)の駅舎はネオ・ルネサンス様式の木造建築。開業は東京駅より10カ月早い1914年(大正3年)2月で、88年鉄道駅舎としては初めて国の重要文化財に指定された。九州鉄道記念館は旧九州鉄道本社(通称赤レンガ)で、蒸気機関車などの実物車両も展示。    

 

 旧門司三井倶楽部(上の写真㊧)は1921年(大正10年)、三井物産の接客・宿泊施設として建築された。1階はレストラン、イベントホール。2階にはアインシュタインメモリアルルームや作家林芙美子の資料室がある。写真㊨はその2階からの眺め。船泊まりの左奥に高層の「レトロハイマート」(黒川紀章設計)がそびえ立つ。最上階には門司港レトロ展望室がある。

 

 アインシュタイン夫妻は90年前の1922年12月25~29日、三井倶楽部に宿泊し2階のベッドルーム(上の写真㊧)など3室で5日間を過ごした。アインシュタインは日本での講演旅行に向かう船上でノーベル物理学賞受賞の報を受けたという。写真㊨は1912年(明治45年)に建てられた旧門司税関。

 

 旧大阪商船(上の写真㊧)は1917年(大正6年)建築。現在は1階が海峡ロマンホール、2階が「わたせせいぞうと海のギャラリー」になっている。国際友好記念図書館(写真㊨)は北九州市と中国・大連市の友好都市締結15周年を記念し、帝政ロシアが大連に建築した東清鉄道オフィスを複製建築したもの。

 

 「ブルーウイングもじ」(上の写真㊧)は全長108mの歩行者専用の跳ね橋(1993年完成)。1日6回開く。九州の玄関口・門司港はハバナの叩き売りの発祥の地としても知られる。  

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<4日の奈良大学公開講座> 万葉集研究の上野誠教授「奈良に飛鳥のある理由」

2012年08月05日 | 考古・歴史

【ふるさとの明日香はあれど あをによし奈良の明日香を見らくし良しも】

 大伴坂上郎女の「元興寺の里を読む歌一首」。上野教授の意訳「ふるさと明日香は明日香でよいけれど、(あをによし)奈良の明日香を見るのもよいものだ」。710年の平城遷都とともに、故郷の飛鳥寺も平城京の外京に移転し元興寺となった。「平城京は元祖リサイクル都市。元興寺も飛鳥時代の瓦や木材が使われており、同時に地名も一緒に引っ越ししてきた」。奈良町に飛鳥小学校があるのもその名残。この歌を詠んだ大伴坂上郎女は「移転された飛鳥寺を見て、少女時代を思い出したであろう。この歌からは〝住めば都〟という感覚を読み取ることもできる」。

【あをによし奈良の大路は行きよけど この山道は行き悪(あ)しかりけり】

 中臣宅守(なかとみのやかもり)から狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)への相聞歌の一節。上野教授の意訳「(あをによし)奈良の都は歩きやすいけれど、この山道は歩きづらいもんだなぁー」。天平10年(738年)ごろ、流罪となった宅守が越前に向かう途中で詠んだ。大路は幅が約70mもあった直線道路の朱雀大路を指す。「大阪の御堂筋でも幅員は約50m。それを超える朱雀大路は都を代表する景観で、平城京に住んでいた人々にとっても大きな自慢だったのではないか」。

【春の日に萌(は)れる柳を取り持ちて 見れば都の大路し思ほゆ】

 越中国司の大伴家持が赴任4年目の春に詠んだ歌。上野教授の意訳「春の日に芽吹いた柳を手に取ってみると、都の大路のことが思い出されるなぁー」。奈良の都には街路樹として柳が植えられていた。柳の葉のような眉「柳眉」は美人の形容。「家持は赴任先で見た柳から都大路の柳を思い出し、さらに大路を歩く美男美女たちを思い出して、この歌を詠んだのではないだろうか」。

   ☆    ☆    ☆    ☆    ☆

 上野教授は8月下旬訪欧し、ドイツ・フランクフルトを訪ねるという。「頭の中に万葉集はなく、すでに夏休み状態。ヨーロッパ旅行のことで頭がいっぱい」。こう言ってみんなを笑わせたうえで、「自己紹介も兼ねて」とフランクフルト発祥のユダヤ人大富豪ロスチャイルド家のことや、ガラス張りで斬新なフランクフルトの歌劇場、大ファンという女性写真家ベッティナ・ランスのことなどに触れ、さらに菊池章子の「星の流れに」などを口ずさんだりした後、ようやく本題の講義がスタートした。

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<アメリカデイゴ(カイコウズ)> 真夏の青空に映える南国風の紅花

2012年08月04日 | 花の四季

【鹿児島の県木、近縁種のデイゴは沖縄の県花】

 マメ科デイゴ属の中高木。南米のブラジルからアルゼンチンにかけて多く分布し、日本には江戸時代末期に渡来した。別名「海紅豆(カイコウズ)」。海を渡ってやって来た紅色の豆というわけだ。つぼみの形はまるでエンドウ豆を赤く染めたよう。学名は「Erythrina Crista-galli」(エリスリナ・クリスタガリィ)。エリスリナは赤い色、クリスタガリィは鶏のトサカを意味する。そう言えば、花の色や形がトサカに似てなくもない。

 南国生まれだけあって寒さにやや弱く、関東以西で街路樹や庭木として植えられる。鹿児島県は1966年「カイコウズ」として県木に指定した。気候風土が合うのかよく育ち、南国的な雰囲気も鹿児島にマッチしているというのが理由のようだ。鹿児島から遠く離れた岐阜県南部に「薩摩カイコウズ街道」と呼ばれる道路がある。江戸時代、薩摩藩士が多大な犠牲を払った木曽三川の堤防工事「宝暦治水」の縁で、両県は姉妹県盟約を結び交流を深めてきた。カイコウズ街道はその盟約締結20周年を記念し、約20年前、南濃関ケ原線の道路沿いにアメリカデイゴを植樹したことから、この名前がついた。岐阜には友好の森として「薩摩カイコウズの森」もある。

 アメリカデイゴはアルゼンチンで「Ceibo(セイボ)」と呼ばれ国花になっている。花が盛りの時期には「セイボの日」(11月22日)まであるそうだ。隣国パラグアイの国花でもある。種子や樹皮には麻痺作用があるエリスリナ・アルカロイドが含まれ、中南米の先住民アメリカ・インディオは歯痛の治療に用いたそうだ。色鮮やかな深紅色の花は布地の染色に使われ、メキシコでは花がサラダや煮物などとして食用になっているという。

 一方、沖縄のデイゴはインド原産で、アメリカデイゴ以上に寒さに弱く沖縄が北限。ただ鹿児島の奄美地方には両方が植えられているそうだ。開花時期はアメリカデイゴが7~9月なのに対し、デイゴは主に3~5月ごろの入学・卒業シーズン。このため琉球大学の合格電報の文面は本土の「サクラ咲く」に代わって「デイゴ咲く」。デイゴの幹は乾燥に強く変形しにくいことから、琉球漆器の材料として使われる。沖縄にはデイゴが花を多くつける年は「台風の当たり年」という言い伝えがある。THE BOOM(ブーム)の代表曲「島唄」はその言い伝えを基に作詞されたのだろう。「でいごの花が咲き 風を呼び嵐が来た……」。作詞・作曲の宮沢和史さんは「ひめゆり平和記念資料館」を訪ねた後にこの「島唄」を作ったそうだ。

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<五輪女子マラソン> 5日午後7時~ 重友の若さ・木崎の粘り・尾崎の経験に期待!

2012年08月03日 | スポーツ

【タイム上位10人中にケニアとエチオピアが各3人】

 ロンドン五輪の女子マラソンが日本時間の5日午後7時、バッキンガム宮殿前をスタートする。日本は2000年シドニー五輪で高橋尚子、04年アテネで野口みずきと2大会連続優勝を果たしたが、前回の08年北京ではメダルどころか入賞もゼロと惨敗。それだけに重友梨佐(24)、木崎良子(27)、尾崎好美(31)の3人に期待がかかる。だが、その前にケニア、エチオピアのアフリカ勢を中心に実績と経験で勝る海外勢が立ちはだかる。3人とも五輪初出場だが、粘りの走りでその一角を突き崩し、メダル争いに絡む力走を期待したい。

【優勝候補最右翼のラドクリフ、足のけがで欠場!】

 先月29日、優勝候補と目されていた英国代表のポーラ・ラドクリフが、足の負傷のため欠場するというビッグニュースが飛び込んできた。ラドクリフは2時間15分25秒という圧倒的な世界最高記録を持つ。機関車のような力強い走りで優勝を重ねてきたが、なぜか五輪だけはメダルに縁がなかった。04年アテネでは野口に抜かれて途中棄権、08年北京ではなんと23位に終わった。母国開催の五輪での雪辱を期していただけに、本人も辛い決断だったに違いない。

 女子マラソン・エントリー選手のベスト記録上位10人は以下の通り。

①L.・ショブコワ(ロシア)2:18:20②M・ケイタニー(ケニア)2:18:37③T・ゲラナ(エチオピア)2:18:58④I・ミキテンコ(ドイツ)2:19:19⑤A・メルギア(エチオピア)2:19:31⑥E・キプラガト(ケニア)2:19:50⑦周春秀(中国)2:19:51⑧M・ディババ(エチオピア)2:19:52⑨P・ジェプトゥー(ケニア)2:20:14⑩C・ディタ(ルーマニア)2:21:30

 ベスト記録では上位8人までが2時間20分を切っている。国別に見ると、アフリカ勢のケニアとエチオピアが3人ずつ。残る4人はロシア、ドイツ、中国、ルーマニア。日本勢は重友(2:23:23)が17位、尾崎(2:23:30)が18位、木崎(2:26:32)が40位になっており、重友、尾崎でも上位選手とは実に5分前後という大きな差がある。

 ベストトップのショブコワは1977年生まれの35歳。もともとの専門は中距離でアテネ、北京は5000mで出場している。マラソンは3年前にデビューしたばかりだが、シカゴマラソンを3連覇するなど実績は十分。しかも走るたびに記録を伸ばしており、昨年のシカゴはラドクリフに次ぐ世界歴代2位の記録で優勝した。2010/11ワールド・マラソン・メジャーズの総合優勝者で、ロンドンでも優勝候補の筆頭に挙げられている。

【ケニア勢、昨年のテグ世界選手権と今春のロンドンで表彰台独占】

 ケニア勢は今年4月のロンドンマラソンで金銀銅を独占した。その3人がそのまま五輪代表に選ばれた。ケイタニーはロンドンを2連覇し、今年のタイム2時間18分37秒は世界歴代3位の好記録。ロンドン2位だったキプラガトは昨年8月の韓国・テグ世界選手権の覇者。ケニア勢はそのテグ大会でも表彰台を独占、ジェプトゥーはキプラガトに次いで2位だった。一方、エチオピアのゲラナのタイム2時間18分57位は今年4月のロッテルダムマラソンで記録したもので、世界歴代5位に当たる。メルギアは1月のドバイマラソンで優勝、2連覇を達成した。その記録も世界歴代8位。

 アフリカ勢がこの1~2年、自己ベスト記録を次々に更新しているのに対し、それ以外の上位選手の記録の多くはかなり以前のもの。4位のミキテンコはカザフスタン生まれのドイツ選手で、ベストタイムは4年前のベルリンで出したもの。中国の周春秀は08年北京五輪の銅メダリストだが、ベスト記録は6年前に遡る。ただアジア大会では06年ドーハに続き10年広州大会も制するなど、なお健在だ。

 ルーマニアのディタは前回北京五輪の金メダリスト。出場選手の中でさほど注目されていなかったこともあって、中盤に抜け出しても誰も追わず、そのままゴールテープを切った。今年42歳で、ベスト記録は7年も前のもの。11位以下の海外勢では北京五輪6位入賞の英国マーラ・ヤマウチが注目を集めそう。自己ベスト2時間23分12秒はエントリー選手中16位で、この記録は英国女子マラソンの歴代2位。ラドクリフが欠場するだけに、英国民の期待を一身に集めそうだ。本人も母国開催の五輪だけに期するものがあるに違いない。

【五輪初の周回コース、カーブ多く位置取りがポイント】

 ロンドンのマラソンコースは毎春開催のロンドンマラソンとは異なり、バッキンガム宮殿前からテムズ川に沿って東進し、セントポール大聖堂、ロンドン塔などロンドン中心街の名所を巡る。これを3周するもので、周回コースは五輪では初めて。五輪では他のマラソンと違ってペースメーカーがつかず、賞金も出ない。これがアフリカ勢など出場選手のモチベーションにどう影響するか。

 五輪では記録よりも順位を重視する傾向が強い。女子マラソンの五輪最高記録は高橋尚子が2000年シドニーで出した2時間23分14秒。その後の04年アテネと08年北京の優勝タイムはいずれも2時間26分台にとどまっている。しかもロンドンのコースは石畳やカーブ(約100カ所)が多いため、序盤から中盤にかけては高速レースにならないのではないかとの見方も出ている。その場合、日本勢3人はベスト記録では上位選手に遠く及ばないものの、勝機は十分ありそうだ。ケニア勢が金銀銅を独占した昨年のテグ世界選手権では残り10キロで一気にスパート、他を引き離した。日本勢としてはそうした動きを見逃さないためにも、集団の前方に位置取りしたい。

【日本勢3人、メダル争いにどう絡む?】

 今年1月の大阪国際女子マラソン。重友は27キロ手前で福士加代子を振り切って独走し、日本歴代9位の好タイムで優勝した。最後の2.195キロも7分50秒と8分を切る速さで、駅伝で培った持久力とスピードがものをいった。ロンドンでも海外勢が駆け引きでスローペースが続く場合、その間隙を縫って抜け出しロングスパートをかけてみるのも一手かもしれない。重友は米アルバカーキの高地合宿では調子がいまひとつで、練習メニューを完全にはこなせなかったという。その点が少し気がかりだが、若さとマラソン3回目という怖いもの知らずの走りに期待したい。

 木崎の本領は粘りの走り。昨年11月の横浜国際女子マラソンでは尾崎との競り合いを制し、逆転優勝した。終盤の粘りを五輪の本番でも発揮して、先行する選手を1人1人拾っていきたい。日本勢3人の中で最も期待がかかるのはマラソン8回中、優勝2回、2位3回と、経験・実績とも豊富な尾崎だろう。2009年ベルリン世界選手権では2位に入り、3位のエチオピア・メルギアには7秒差で競り勝っている。日本代表の3人目として選出されるまでに、何度も選考会に出場する〝追試〟に疑問を投げかける向きもあったが、五輪本番で日本のエースとしての力走をぜひ見せてほしいものだ。

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<奈良県立民俗博物館> 2012年企画展「大和の祭りと芸能」

2012年08月02日 | 祭り

【神を祭り、歌い踊った大和人のハレの世界】

 奈良県立民俗博物館(大和郡山市)で企画展「大和の祭りと芸能」(11月11日まで)が始まった。展示しているのは「春日若宮おん祭り」の田楽や県内各地に伝わる太鼓踊り、お田植え神事のオンダ(御田)、奈良市・八柱神社の「題目立」、五條市・念仏寺の「陀々堂の鬼走り」など、古くから伝わる祭りで演じられる芸能の写真や〝小道具〟など。同館では祭りと芸能の関わりや意味を考えるきっかけになれば、としている。

 

 ひときわ目を引いたのが「陀々堂の鬼走り」で鬼が被る「鬼面」(上の写真㊧)。父母子の3匹の鬼が大松明を抱えて走る勇壮な祭りだが、その鬼の面の大きいこと。父鬼は縦が約60cm、横幅は約40cmもある。太鼓踊りは吐山(はやま)、国栖(くず)、丹生、大柳生などが県内では有名だが、太鼓踊りでよく使われるのが先端を青や赤に染めた「シデ」(上の写真㊨、吐山の太鼓踊りのシデ)。太鼓の音は雷鳴を連想させることから雨乞いなどで太鼓踊りが行われてきたが、シデはその際、振って太鼓打ちを指揮するために使う。

 「題目立」は毎秋、八柱神社で数え年17歳の若者が特有の抑揚で軍記物を語って奉納する。「語り物が舞台化した初期の姿」がそのまま残っているとして、2009年に世界無形遺産に登録された。演目の一つ「厳島」で若者が着る平清盛役用の素襖(すおう)や詞章本などが展示されている。「おん祭り」は保延2年(1136年)に始まったが、その影響を受け奈良県東北部などの秋祭りでは田楽や相撲、翁舞などが演じられることが多いという。「おん祭り」に関して展示されているのは春日大社蔵の田楽の衣装や太鼓、ササラなど(下の写真㊧)。

 

 会場の一画に「大和の神饌・仏供」として写真30枚(野本暉房さん撮影、上の写真㊨)も展示されていた。餅や団子、造花のほか魚の頭、鉢巻飯、百味御食(ひゃくみおんじき)、紙人形の人身御供などユニークなものもあって、改めてお供え物の種類の多さを実感!

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