く~にゃん雑記帳

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<「頼朝と重源」展> 平家の南都焼き打ちから東大寺はいかに再興を果たしたか?

2012年08月13日 | 考古・歴史

【重源61歳で大勧進、頼朝が資金面などで大きな後ろ盾】

 今から約800年前の源平合戦の中で、東大寺は平清盛の息子、重衡による南都焼き打ちで、興福寺とともに灰燼に帰す。再興不能とも思われたが、その後、大仏殿、東塔、鐘楼などが次々に再建されていく。奈良国立博物館で開催中の特別展「頼朝と重源―東大寺再興を支えた鎌倉と奈良の絆」(9月17日まで)は、国宝や重要文化財なども含め100点余の宝物で、東大寺がいかに再興されていったのか、その軌跡をたどっている。

 南都焼き打ちがあったのは1180年12月。翌年3月になっても大仏の手や首が焼け落ちたままになっていたという。大勧進として再興を指揮したのが俊乗房重源(1121~1206)。後白河法皇(1127~92)の支援を受け、大仏や大仏殿の再建に取り組み、1185年の大仏開眼供養会では法皇が自ら大仏に眼を点じたという。法皇崩御後には源頼朝(1147~99)が後ろ盾となった。頼朝は壇ノ浦の戦い(1185年3月24日)の直前の同7日、重源に米1万石、砂金1千両などを送っている。大仏殿の落慶供養が行われたのはその10年後の1195年3月。頼朝は鎌倉から2万人とも3万人ともいわれる兵を率いて臨んだという。

     

 会場は「大仏再興―仏法・王法の再生」「大仏殿再建」など6つのテーマに分かれる。会場に入ってまず目に入るのが重文の後白河法皇坐像(京都・長講堂蔵)。次いで国宝の重源上人坐像(東大寺蔵、上の写真㊧)と同じく国宝の源頼朝像(京都・神護寺蔵、上の写真㊨)。重源坐像の制作者は運慶説と快慶説があるが、特別展を企画した同館学芸部研究員の山口隆介さんによると、運慶説が最近有力になっているという。

 その坐像の背後には浄土寺(兵庫県小野市)の阿弥陀如来立像(裸形像、像高266.5cm)。重源は勧進活動の拠点を各地に設けたが、浄土寺はその一つの「播磨別所」を置いた所。この如来立像は重源が来迎会(練り供養)の本尊として快慶に造らせたという。後白河法皇の開眼筆は長さが60cmもある巨大なもので、今も正倉院宝庫に伝わる。会場にはその模造品が展示されていた。その大きな筆で大仏の眼の高さまで昇って眼を入れる法皇の姿を想像するだけでも楽しくなってくる。

 大仏殿落慶供養に参列した頼朝は東大寺の鎮守八幡宮(現在の手向山八幡宮)から菩薩面や舞楽面を譲り受け、鎌倉の鶴岡八幡宮に奉納したといわれる。今回の展示会にはそれらの菩薩面と舞楽面4面の計5面(下の写真㊧は舞楽面陵王)が展示されていた。800年ぶりに奈良への里帰りがかなったわけだ。頼朝が後白河法皇から頂いたという国宝の「籬菊螺鈿蒔絵硯箱(まがきにきくらでんまきえすずりばこ)」(鶴岡八幡宮蔵)は美しい輝きで高い品格を放っていた。頼朝と重源の間では東大寺再興に関して度々書状が交わされたといわれ、文治4年(1185年)9月8日付の「源頼朝書状」(国宝)も展示されている。

   

 この展示会では重源没後、大勧進として東大寺再建に尽くした栄西(ようさい、1141~1215)と行勇(ぎょうゆう、1163~1241)にもスポットを当てた。この2人は鎌倉で活動していた僧侶で、頼朝と重源の深いつながりがその後にも引き継がれたことが分かる。栄西が源実朝に献上したという「喫茶養生記」も展示されていた。この著書は中国で広く飲用されていた茶を日本にも定着させようと茶の効能や製法などを記したもの。ただ栄西は大勧進在任中、落雷で焼失した京都・法勝寺の九重塔の再建を命じられたこともあって、東大寺再興の実績としては東塔の立柱と鐘楼の再建にとどまる。その後を継いだ行勇が国分門(西大門)、東塔、講堂などの再建に当たった。

 このほかの展示品では、快慶が東大寺再興時の1201年に制作した国宝の「僧形八幡神坐像」(東大寺蔵、上の写真㊨)が往時の美しい彩色をそのまま残していた。鶴岡八幡宮に神宝として伝わる国宝の太刀「沃懸地杏葉螺鈿太刀(いかけじぎょうようらでんたち)」や、重源が所持していたといわれる自然木の杖も目を引いた。


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