く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> リイド文庫「日本の名城がわかる本」

2012年08月14日 | BOOK

【本山一城著、リイド社刊】

 「城の概説」「写真で見る城用語」「厳選!名城70!」の3つの章で構成、本のタイトル通り国内の城に関する入門書になっている。群雄割拠する戦国時代、全国各地に乱立した城は江戸時代に入って「一国一城令」で激減する。それでも明治維新の段階でまだ300近い城が存在した。だが、その後次々廃城となり、空襲による焼失もあって生き残った城の天守(天守閣)はわずか12基まで激減する。ところが大阪城を皮切りに戦後各地で復興されてきた。本書はその中から天守がある70の城を北の五稜郭(函館)から南へ順番に紹介している。

   

 城といえば天守と石垣を連想するが、天守の存在意義は「パフォーマンスと威圧と展望」。織田信長と信長の家臣団が天守造りに力を入れ、安土城をはじめ柴田勝家の北庄城、羽柴秀吉の長浜城、明智光秀の坂本城、筒井順慶の郡山城などに天守が造られた。信長以降、築城の石垣造りは「手伝普請」「割普請」と呼ばれ家臣の義務とされた。徳川家康の時代になると「天下普請」と呼ばれる。建築物は原則的に城主の負担だが、土木工事は大名持ち。豊臣秀吉の普請好きに悲鳴を上げる武将も多かったという。

 城の外装は「下見板張り」と「白漆喰総塗籠」に分かれる。古い城は全て板張りで、西国の豊臣系大名が好んで用いた。白漆喰に比べると安っぽい感じだが、漆塗りのうえ板張りの中に銅板を張って逆に高価なケースもあった。白漆喰の代表は姫路城。その姫路城は①連立式といわれる構造は4つの円筒を四角く回廊でつないだ西欧の城の基本パターン②「狭間(さま)」と呼ばれる鉄砲を撃つための壁穴や「石落とし」と呼ばれる張り出しは英国やドイツの城の模倣③石門の「埋門(うずみもん)」はギリシャ・ミュケナイ要塞の獅子門そのもの――など西欧的要素が随所に見られるという。

 本書の中に頻繁に出てくる表現に「縄張り(設計)」がある。縄張りというと今では勢力範囲を意味するが、本来は築城などの際に実際に縄を張って建築物の位置などを決めることを指す。加藤清正、藤堂高虎とともに「築城3名人」といわれた黒田如水が縄張りした城には大坂城、姫路城、中津城、高松城、広島城、福岡城などがある。加藤清正は熊本城、八代城、韓国の機張城や西生浦城など。清正は朝鮮での苦戦から、いざという時の食料として、熊本城の畳に干瓢(かんぴょう)を織り込んだそうだ。藤堂高虎が縄張りした城には大洲城、駿府城、江戸城、名古屋城、伊賀上野城、亀山城、二条城、新大坂城などがある。

 では実際に築城を手掛けたのはどんな人たちだろうか。「安土築城で力を発揮したのは熱田神宮の宮大工・岡部又右衛門此信」。では大坂城は? 「奈良の法隆寺の工匠を使ったらしい。後に家康に仕えて活躍した中井大和守正清の父親あたりが担ったようである」。その中井正清は家康の命令で慶長12年(1607年)禁裏を造営し、その後、駿府城天守、方広寺大仏殿、名古屋城、江戸城、日光東照宮などで大工頭を務めた。

 築城にまつわって語り継がれているのが人柱伝説。大洲城では身寄りのない女性「おひじ」、松江城では美貌の生娘や虚無僧、大垣城では山伏を人柱や人身御供にしたと伝わる。だが筆者は「全て嘘」と断言する。大垣城の天守台を発掘したところ人骨はなかったが、鼻緒の穴が一つの下駄が出てきた。「このように何か代わりのものを埋めるという方法は実際に行われていたらしく、熊本城からも木製の人型が出土している」という。

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