く~にゃん雑記帳

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<宮大工棟梁・瀧川昭雄さん> 朱雀門、大極殿に次いで興福寺中金堂復元へ

2012年08月26日 | ひと模様

【62年の宮大工人生の集大成。後進の育成にも全力】

 興福寺の中金堂復元工事が2018年秋完成を目指して進められている。宮大工としてその指揮を執るのが株式会社瀧川寺社建築(奈良県桜井市)の会長兼棟梁の瀧川昭雄さん(79)。その瀧川さんが25日、奈良市生涯学習センターの「天平の匠シリーズ~古都奈良の名工を訪ねて」の一環として「宮大工から見た古建築」をテーマに約2時間にわたって講演した。

  

 瀧川さんは桜井市出身で、中学卒業後に明治時代から続く宮大工の家系の3代目に。19歳の時、薬師寺東塔の解体修理に携わったのをはじめ、長谷寺五重塔、当麻寺本堂、室生寺五重塔など多くの古建築の修復を手掛けてきた。会社組織にしたのは20年前の1992年。その後、平城京の朱雀門、第一次大極殿を復元。この間3年にわたって、ユネスコの要請を受けモンゴルでラマ教寺院の修復を指導した。2007年には宮大工としての実績と後進の育成が認められ、第2回ものづくり日本大賞の内閣総理大臣賞を受賞している。

 瀧川さんは宮大工にとって最大の仕事は材料の調達という。「材木確保のめどがつけば、仕事の8割をこなしたも同然」。朱雀門では1000立方メートル、大極殿では2150立方メートルの材木全てを国産材で調達した。今回の興福寺中金堂復元ではそれらを上回る2320立方メートルが必要。だが、国内でヒノキの大木などを入手するのはもはや困難。このためカナダのバンクーバー島やアフリカのカメルーンなどで調達することになったという。バンクーバーでは飛行機で上空から森林を観察し、伐採する木材にめどをつけたそうだ。

 古建築に使われた木材(柱)を振り返ると、飛鳥・奈良時代はヒノキ、平安時代に入るとヒノキに加えスギ、鎌倉時代にはこの2種にケヤキが加わり、さらに室町・安土桃山・江戸時代にはこの3種のほか栂(ツガ)も使われた。植林といえば戦前・戦後と思われるが、実は平安時代から吉野ヒノキやスギが植林されていたという。瀧川さんは「種木まで切ってしまったので、国産材で巨大建築を造るには何百年も待たないとできなくなった」と嘆く。

 古建築の修理は約300年ごとの解体修理、200~300年ごとの半解体修理(柱を残して解体)、約100年ごとの部分修理(屋根替えなど)に分かれる。「解体修理の際には技術的に教えられることも多いが、さまざまな失敗の痕跡などが見つかれることも少なくない」。例えば、長谷寺ではケヤキの柱の長さが1尺分短かったため、礎石の上にさらに石をかませた部分があるそうだ。

 

 技術の継承方法には「一子相伝」と「多子相伝」がある。一子相伝は優秀な弟子1人だけに秘伝を伝えるもの。薬師寺西塔の再建で有名な棟梁の故西岡常一さんは小川三夫さんが唯一の内弟子だった。一方、瀧川さんの後継者育成法は多子相伝。ただ「宮大工の世界はきつい・汚い・危険の3K職場だけにどれだけ辛抱できるかがカギ」。これまでに約100人を採用したが、残っているのは30人ほどで、中には入社1週間で辞めた若者もいたそうだ。

 「社寺大工は2軒納めて半大工。塔・多宝塔を建てて一人前」。宮大工の世界にはこんな言葉があるという。棟梁になるには小工―大工―副棟梁というステップを踏む。大工の前は「小工」と呼ばれるというのを初めて知った。瀧川さんが経営する瀧川寺社建築では「主に規距(きく)術と修理方針・方法を5年間教え、その修業を完了した後、初めて職人として扱う」。

 規距術とは曲尺(かねじゃく)などを使って木材の継ぎ手や仕口など接合部分を加工する技術。古建築の修復や復元に欠かせないもので、講演会場にもその一部を展示していたが、まさに木材の立体パズル(写真㊨)。古墳時代や奈良時代の大工道具、ヤリガンナなども展示していた(写真㊧)。「〝国費〟で学んだ私の使命は技術の伝承。宮大工を志す若い人たちの育成に残りの人生を捧げたい」。瀧川さんにとって興福寺中金堂の復元は技術継承のためのこの上ない実地教育の場になりそうだ。 

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