かるさんのgooブログ <北国たより>

身近な話題を画像といっしょに・・・

“北のまほろば”をたずねて <その 十一> 

2008-10-29 20:48:00 | インポート

[陸奥と蝦夷のあいだ・・・津軽海峡 ②]

海上113.0kmを、青函連絡船でおよそ5時間もかかっていた津軽海峡の航路です。

1954年9月の「洞爺丸台風」で洞爺丸ほか4隻の連絡船が転覆遭難し、多くの犠牲者が出ました。
これを機に、以前から考えられていた「青函トンネル」化が一気に実現されることになったのです。

青森側(津軽郡今別町)~北海道側(上磯郡知内町)のあいだ、長さ53.85km
(海底部23.30km)のトンネルが完成し、‘88年3月に開通しました。

この青函トンネルは‘08年現在、長さ世界一をキープしているそうです。
トンネルの最深部が水面下450mもある海底トンネルの工事は、日本の技術力の高さを誇り、工事の苦労は映画でも表現されました。

現在は「津軽海峡線」として列車が走り、特急列車で青森~函館間を約2時間で結んでいます。その間「海底トンネル」部分は20分ほどで通過してしまいます。

トンネル開通で役割を終えた「青函連絡船」でしたが、トラックによる物流の増加に伴い民間のフェリー会社が活躍することになりました。
船の性能がアップしたこんにちでも、青函の間は相変わらず4時間ほどかかります。

そこで「東○本フェリー」が今年に入って「高速大型双胴船フェリー」を投入し、青函間をジャスト2時間で運行し人気を博しました。その船名は『ナッチャンRera』。

フェリー会社は勢い良く二隻目を導入し飛躍を図ったのですが・・・訪れた「原油高騰」のあおりをもろに受け、景気下降による観光客減も相まって、この10月末を持って就航を取りやめることが決まりました。

二隻の『ナッチャンRera』は、どうやらどこかへ売却されるようです。

陸奥の国と蝦夷の国を隔てる「津軽海峡」を渡る「人も船も」、なにか悲しい運命が付きまとうようで・・・演歌の舞台としてこれほど似合う場所はありません。

それにしても、113kmもの海峡を自由に往来し交易を重ね、長い年月「平和な生活」を続けていた《縄文の人々》の偉大さをあらためて思い知った、

”北のまほろば”の旅ではありました。

(終わり)

↓双胴船(ナッチャンRera)の模型と、遠くなる青森港



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“北のまほろば”をたずねて <その一〇>

2008-10-28 19:18:00 | インポート

[陸奥と蝦夷のあいだ・・・津軽海峡 ①]

∮♪上野発の 夜行列車おりた時から♬
   青森駅は 雪のなか
   北へ帰る人の群れは誰も無口で
   海鳴りだけをきいている
私もひとり 連絡船に乗り
こごえそうな鴎見つめ 泣いていました
♯♭ああ あ~~ 津軽海峡冬景色 ♫∮

故阿久悠さんの歌詞による名曲です。

50年ほど前、この歌と同じように青函連絡船で初めて津軽海峡を渡りました。
青森駅の長いプラットホームを走り、連絡船の三等室の席を確保すべく、息咳切ったことを懐かしく思い出しました。

以来何度となくこの「しょっぱい川」(北海道の人々は海峡をこう呼び習わしました)を渡りました。

当時の国鉄青函連絡船は、石炭を炊く煙を吐き汽笛は腹に響く物悲しさがありました。
船名を聞くにつけ懐かしさが蘇えります。それらの連絡船のいまのようすは・・・

*羊蹄丸・・・東京お台場で「船の科学館」として利用中
*摩周丸・・・函館港で「青函連絡船記念館」として係留中
*八甲田丸・・青森港桟橋で「メモリアルシップ」として係留中
*大雪丸・・・北朝鮮に売られ、その後転売されて「メッカ巡礼船」となったが解体
*十和田丸・・クルーズ船となった後、フイリッピンで「ホテルシップ」として係留中

こんなありさまで、時代の流れを感じます。

にしても冒頭の歌詞のように、演歌の世界では恋を失った女はなぜか海峡を渡ります。
連絡船が出航するときは雪が舞いますし、寒いデッキにたたずむその頬には涙がつたいます。
船のまわりに鴎が舞って、そのか細く鳴く声は女の悲しみをいっそう深くするのです。

北へ帰るこの船に乗れば、もう二度と恋しい人に逢うことは叶いません。
津軽海峡は演歌の舞台としては最高のロケーションなのです。

連絡船が就航した長い年月、たくさんの人々の「さまざまな人生」が海峡を行き来したのです。(続く)

↓青森港に係留されている八甲田丸と函館駅通路のレリーフ調壁


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“北のまほろば”をたずねて <その九>

2008-10-27 19:03:00 | インポート
[青森散策・・・善知鳥神社(うとうじんじゃ)]

棟方志功記念館を離れて歩くうち「善知鳥神社」を見つけて訪ねてみました。
「善知鳥(うとう)」と言う名になじみが無く興味を覚えたのです。

「鳥」が付く以上鳥類のことだろうと思いましたが、「善知鳥」についての神社の案内は以下の通りでした。

*学術的に・・・中型の海鳥(ウミスズメ科)で非常に個性が強く、親子の情愛が深い保護鳥。上口ばしの基部に三角形の突起物がある。

*言語学者の説・・・ウトウはアイヌ語で「突起」を意味する語で、この鳥の口ばしが突き出ているので「ウトウ」と呼ぶようになった。

*神社の説文・・・古代人はウトウ鳥が、天空の神々より神意を地上の世界に遣わし、人々を善に導く聖なるものと考え、神使の象徴として「善知鳥」の字を充てた。

この神社の由緒として伝えられているのはこんなことです。

<<今の青森市が「善知鳥村」と言われていたころ、陸奥之国外ヶ浜鎮護の神として祭られたそうです。

第十九代「允恭天皇(いんぎょうてんのう)」――仁徳天皇の第四皇子にして西暦412~453年の間皇位についた。大陸では「東晋。南北朝、宋時代」であり、朝鮮は「百済、高麗時代」にあたる―― のころ、「善知鳥中納言安方」が天照大神の子の三神女を、この地の安寧と平穏を願って祭ったことに由来するとのことです>>

明治に入って「青森総鎮守社」として県社に昇格し、いまも<交通安全、海上守護、商売繁盛など>の神として篤い信仰がなされているそうです。

なんにせよ、青森の街はこの神社から始まったのだそうです、現在の住所も「青森市安方・・・」となっています。
―――以上は、ほぼ善知鳥神社の案内文より

なおこの神社と棟方志功との係わりは深く、善知鳥神社名を表した作品など数点が展示されています。

観たところ神域も小さく、青森駅から近いためか周りはマンション群に囲まれています。
それらのマンション名「○○○レジデンス 善知鳥」などにこの神社の盛名が残っているのかな? と思いつつ夕暮れの神社を後にしました。

  子を思う 涙の雨の 笠の上にかかるもわびし やすかたの鳥・・・西行法師
  
  みちのくの 外ヶ浜なる呼子鳥 鳴くなる声は うとうやすかた・・藤原定家
(続く)

↓善知鳥神社境内と神社にある「善知鳥の剥製」

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“北のまほろば”をたずねて <その八>

2008-10-26 19:52:00 | インポート
{青森散策・・・棟方志功記念館}

<わだば、ゴッホになる!!>

三内丸山遺跡を見学した後、疲れた足を引きずりながら訪ねたのが「棟方志功記念館」でした。
――そんなことを書こうと思っていましたら、昨夜(25日)のTVで氏の半生を描いたドラマが放映されていました――

志功の人生とその業績はあまりにも著名です。記念館のフロント前での映像を観ながら、あらためて芸術家が「己の想いを表現する壮絶さ」を思い知らされました。

この地から世に出た芸術家や作家は幾多を数えます。
太宰治、石坂洋次郎などがあげられます。
多くを読んでいませんので語るを憚りますが、太宰の破滅型の人生と作風と、志功の「板木」に賭ける強志はどこか似通った「狂」を感じてしまいます。

それはこの邦の果てにある、津軽というある種特異な風土が生んだ「異才」かな・・・と思ったりもするのです。

映像で映し出される横殴りの波濤と、バックに流れる「竹山」の津軽三味線の音色は、彼の地に生きる人々の悲しみと不屈の魂を感じさせます。

そんなに大きくもないこの「棟方志功記念館」には、人の心を打つなにものかがギッシリと詰まっているのかな?と思いながら次の目的地へ歩き始めました。(続く)
 
驚いても  オドロキキレナイ
喜んでも  ヨロコビキレナイ
悲しんでも カナシミキレナイ
愛しても  アイシキレナイ
  それが板画です   

棟方志功

↓ 棟方志功記念館の前景
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“北のまほろば”をたずねて <その七>

2008-10-25 21:26:00 | インポート

[世界遺産をめざす遺跡群]
  
このたび世界遺産へ登録して欲しいと申請した、北海道・北東北の縄文遺跡はおよそ25遺跡ほどあります。そのうちの代表的なものを県別に表しますと、つぎのようになります。
<北海道>
①北黄金(きたこがね)貝塚・・・伊達市
②入江・高砂(いりえ・たかさご)貝塚・・・洞爺湖町
③大船(おおふね)遺跡と南茅部(みなみかやべ)遺跡群・・・函館市
④鷲ノ木(わしのき)遺跡・・・森町

<青森県>
①三内丸山(さんないまるやま)遺跡・・・青森市
②小牧野(こまきの)遺跡・・・青森市
③亀ヶ岡(かめがおか)遺跡・・・つがる市
④田小屋野(たごやの)貝塚・・・つがる市
⑤長七谷地(ちょうしちやち)貝塚・・・八戸市
⑥是川(これかわ)遺跡・・・八戸市
⑦大平山元Ⅰ(おおだいやまもといち)遺跡・・・外ヶ浜町
⑧二ッ森(ふたつもり)貝塚・・・七戸町

<岩手県>
①御所野(ごしょの)遺跡・・・一戸町

<秋田県>
①大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)・・・鹿角市
②伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡・・・北秋田市 

関係各県が共同して提出した「世界文化遺産登録申請」は、9月26日の文化庁・文化審議会でユネスコに示す「暫定リスト」への記載が決定しました。

この審議会では、これらの遺跡群が温暖湿潤な環境下で、自然と人間が約1万年にわたり共生し、土器文化などを築いた日本の歴史を示すもので、「普遍的な価値を持つ可能性が高い」と評価しました。

ただしリスト記載に際し、縄文文化を代表する他地域の遺跡も追加し、名称を変更することなどの課題もあげました。(この辺りの文章は関係県の新聞情報から抜粋)

関係各県は、さらに「登録を前進」させるための努力を惜しまないと張り切っているとのことです。

東北の他の県とも協力し、そこがまさに「北のまほろば」であったことを世界に示して欲しいと、切に願うところです。

縄文のロマンへの旅、みなさんも一度は体験してみてはいかがでしょうか?
<続く>

↓は「南茅部地域の著保内野遺跡」から出土した「中空土偶(国宝)」のレプリカ
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