明日香の旅も3日目となりました。いよいよ今日が最終日です。
あいにくの小雨の中、ホテルの出発時間も昨日より早くなりました。
<飛鳥への別れ、甘樫丘に立って>
――まほろばの里のさいごの訪問地を書いているうちに、思いがつのってついつい文が長くなりました――
「甘樫丘」は明日香村の中で、やや北西に位置します。
高さは148m、東西に100mくらい(?)南北に約1kmほどの、まさしく丘って感じで、展望台が二箇所あります。
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OCNフォトフレンド<伝飛鳥板葺宮跡からみた甘樫丘>
この小さな丘が、古代からつづく明日香(飛鳥)のロマンあふれる、もしくは血なまぐさい歴史を見つめてきました。
ここに登れば、こじんまりとした「明日香の京」は目の下にあり、北方には大和三山の「耳成山と天香具山」が、西方には「畝傍山」を眺めることができます。
この地から遷都した「藤原京跡」も指呼の間です。
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OCNフォトフレンド<雨に煙る耳成山遠望>
現在の明日香村は面積が24.08km、世帯数2,100戸あまり、人口6,200人ほどだそうです。日本で唯一全域が「古都保存法」の対象下におかれ、歴史的なものを保存する目的から住民へのいろんな制約があるそうです。
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OCNフォトフレンド<明日香村の家並、保存のための統一感がうかがえます>
古代「飛鳥」と呼ばれていた時代の区域は、飛鳥盆地を中心として飛鳥川の東側にあたる、あまり広くないところだったとのこと。
平地に限れば南北1.6km、東西0.8kmほどの狭い地域です(私が住んでいる町内会の面積よりも狭いかも?)
「飛鳥時代」とは推古天皇即位の592年から、持統天皇が藤原京へ移転する694年までの約100年間を、歴史の時代区分として指すのだそうです。
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OCNフォトフレンド<この季節にさくらが満開です、冬桜かな?>
この地に置かれた天皇(大王)とその宮殿としては
「豊浦宮(とゆらのみや)推古朝」「小墾田宮(おはりだのみや)推古、皇極朝」
「飛鳥岡本宮(あすかおかもとのみや)舒明朝」「板葺宮(いたぶきのみや)皇極、斎明朝」「川原宮(かわらのみや)斎明朝」「後飛鳥岡本宮(ごおかもとのみや)斎明朝」「飛鳥淨御原宮(あすかきよみはらのみや)天武、持統朝」・・・・
などが挙げられます。
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OCNフォトフレンド<もみじとさくらがいっしょです。古代の人もこの景色を愛でたのでしょうか?>
この甘樫丘には、「第19代・允恭天皇(いんぎょう)412~453年」のころ、
<盟神探湯(くかたち)>という裁きの手段を行う奉行所のようなものがあったそうです。
悪人(被告人)を捕まえて来て「熱湯に手を入れさせ、赤くなれば(火傷)犯人で、そうでなければ無罪・・・・」といった制度を行ったとのことです。
いまから考えるとなんとも乱暴な方法ですが、被告人にこの手段を告げた時点で、本当の犯人は「顔色を変えた」でしょうし、役人は手を熱湯に浸けさせる前に、その顔色を読んで犯人探しをしたんだろう?・・・というのが案内役の先生の言葉です。
なるほど、そうであろうな・・・と妙なところで感心してしまいます。
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OCNフォトフレンド<展望台から多武峰方向遠望>
この丘のすぐ真下にある「伝飛鳥板葺宮」で誅殺された「蘇我入鹿」とその父の「蝦夷」親子が、その権勢を誇示するため、この丘のふもとに邸宅を建てたという伝えがあります。2007年2月、東麓遺跡から建物跡や石垣が発見され、蘇我氏の邸宅跡では?と注目されています。
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OCNフォトフレンド<志貴皇子の詩はこの丘にこそ似合います>
この丘にも志貴皇子が詠んだ例の「~明日香風~」の詩が刻まれています。
この詩はやっぱり「甘樫丘」の上でこそ心に染みてくるのです。
丘のふもとには小さな「飛鳥川(明日香川)」が流れています。この川は一級河川「大和川」に注ぐ支流となっていて、明日香村をほぼ南北に貫いています。
この飛鳥川はたくさんの詩にも詠まれています。ロマンがただよう雰囲気があります。
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OCNフォトフレンド<飛鳥川、向こうに見えるのが甘樫丘。拝借画像です>
ところが・・・・・
当然ながら飛鳥時代の宮殿、邸宅、寺院の多くはこの飛鳥川に沿って建てられました
これらの建物に生活していた人々の「厠」は川の水を利用する、いまで言う「水洗便所」でしたでしょう。現代のように「浄化して川に流す」方式ではありません。まんまで流します。
とすれば「飛鳥川の汚染度合」はひどかったはずです。
けっきょく、天皇の宮殿が次々と替えられたその大きな理由が、この「水洗厠」からくる「汚染と悪臭」にあったのだろう・・・とする先生の説明がストンと胸に落ちました。
そんな話しを聞きながら、「冬桜」の咲き乱れる小道を降りはじめ、駐車場へと向かいました。
丘のふもとのイチョウも葉を落とし、やがてここ明日香の里にも本格的な冬がくるのでしょう(つづく)
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OCNフォトフレンド<イチョウのじゅうたん>