かるさんのgooブログ <北国たより>

身近な話題を画像といっしょに・・・

行く年への思い

2009-12-31 20:46:00 | インポート
変革とまでは言い切れない混乱と、はかない希望を持とうとした一年が終わろうとしています。

資本主義経済の無秩序な暴走と人種、宗教感からの対立は果てしも無く続きます。
 
それでも人々は混乱の収束と日々の平穏を待ち望んで止みません。

はたして2010年という新しい年に、かすかな明かりが見えてくるのかどうか?

庶民は「行く年来る年」にわずかな「お賽銭」を投げ入れ、手を合わせながら、せめてもの平穏を願うしかありません。

photo by karusan from OCNフォトフレンド

<上野・寛永寺の塔頭>
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「まほろばの里・・明日香」を訪ねて  その13

2009-12-23 21:52:00 | インポート
明日香を離れるころ雨が上がってきました。同行者のお一人が「今回は、甘樫丘からの眺めが主目的だったのに・・・」と雨の甘樫丘がうらめしそうでした。天候だけは仕方ありません。

甘樫の丘を下りたところで、2日間案内役をしていただいた先生ともお別れです。

<そして神戸へ・・・>

明日香村から橿原市をかすめて、高速道路に上がり一路神戸へ向かいます。
そのころには雨も上がり、日も差してきました。
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<高速道の車窓から湾岸を望む>

大阪湾沿岸は、高速道路が四通八達し目まぐるしいほど変化しています。
その昔、仕事で訪れていたときは大阪市街から神戸へ行くのには、ほとんど国道2号線を利用するだけでした。
六甲山のふもとから海岸までの狭い地に、道路、工場群、国鉄、数本の私鉄線が走り狭隘なものでしたが・・・

バスガイドさんが、つぎつぎと案内してくれる街区や風景、建物に目を回しながら、ひたすら神戸の街を目指します。
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<活気のある神戸、三宮辺り>

ほぼ15年前に起こった「阪神淡路大震災」の被害跡もほとんど無くなり、神戸の街は何食わぬ表情で活気を呈しています。
被害のようすはわずかに「神戸港震災メモリアルパーク」に保存されています。
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<震災メモリアルパーク、拝借画像>

元町の「神戸中華街南京町」を散策し、お昼は「ニューオータニ神戸ハーバーランド」での洋食バイキングです。
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<神戸中華街・長安門>

お腹を満たしあと、いよいよポートアイランドを通って「神戸空港」へ向かいます。
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<アイランドへ向かう車窓から>

通って行くポートアイランドは広大な埋め立て地で、大きなビルや流通の倉庫群などがビッシリと立ち並んでいます。
神戸空港はさらにこの先の海を埋め立てて作られたものです。

伊丹空港、関西空港、それにこの神戸空港と、関西の割と近い距離に三つの空港があり、共倒れか?と問題になっています。

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<神戸空港、駐機場風景>

今回のツアーでも、北の国から関西方面へ行くフライトが上手くかみ合わず、けっきょく神戸空港利用となり、往路・復路とも中途半端な時間になってしまったようです。

さて、この「三つの空港問題」どう決着が付くのやら、なんにしても利用者優先で考えて欲しいものですが・・・

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<空港の搭乗口と飾り>

さすがに出来立ての「神戸空港」は、こじんまりしながらも綺麗でしゃれた雰囲気のそれでした。

屋上から眺める対岸の「六甲の山並みと神戸の街区」は、外国のどこかへい行ったような気分になります。
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<空港屋上から対岸の六甲山と街区>

ここでツアーコンダクターさんの最後の挨拶があり、いよいよ北の空港に向けたフライトです。
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<機内は空席が多い・・・です>

こうして、短いながら充実した「まほろばの里・・・明日香」への旅は終わりました。

―後記―
13回にも及んだ「まほろばの里・・明日香」を訪ねての雑記はおしまいです。
書くにあたっての「見学地の名称、年代、人の名前、歴史事項」などは、案内人が話されたことのメモや、もらった資料、パンフなどを基にしました。なおあやふやなところはWEBページの力をお借りし、特に(Wikipedia)を参照しました。

それでもなおおかしな部分があろうかと思いますが、そこはアバウトに見ていただいて、お見逃しいただきたい・・・などと勝手に思っているところです(おしまい)

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<飛鳥の夕暮れ、からすもねぐらへ帰ります>


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「まほろばの里・・明日香」を訪ねて  その12 

2009-12-21 21:56:00 | インポート
明日香の旅も3日目となりました。いよいよ今日が最終日です。
あいにくの小雨の中、ホテルの出発時間も昨日より早くなりました。

<飛鳥への別れ、甘樫丘に立って>

――まほろばの里のさいごの訪問地を書いているうちに、思いがつのってついつい文が長くなりました――

「甘樫丘」は明日香村の中で、やや北西に位置します。
高さは148m、東西に100mくらい(?)南北に約1kmほどの、まさしく丘って感じで、展望台が二箇所あります。

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<伝飛鳥板葺宮跡からみた甘樫丘>

この小さな丘が、古代からつづく明日香(飛鳥)のロマンあふれる、もしくは血なまぐさい歴史を見つめてきました。

ここに登れば、こじんまりとした「明日香の京」は目の下にあり、北方には大和三山の「耳成山と天香具山」が、西方には「畝傍山」を眺めることができます。
この地から遷都した「藤原京跡」も指呼の間です。
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<雨に煙る耳成山遠望>

現在の明日香村は面積が24.08km、世帯数2,100戸あまり、人口6,200人ほどだそうです。日本で唯一全域が「古都保存法」の対象下におかれ、歴史的なものを保存する目的から住民へのいろんな制約があるそうです。
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<明日香村の家並、保存のための統一感がうかがえます>

古代「飛鳥」と呼ばれていた時代の区域は、飛鳥盆地を中心として飛鳥川の東側にあたる、あまり広くないところだったとのこと。
平地に限れば南北1.6km、東西0.8kmほどの狭い地域です(私が住んでいる町内会の面積よりも狭いかも?)

「飛鳥時代」とは推古天皇即位の592年から、持統天皇が藤原京へ移転する694年までの約100年間を、歴史の時代区分として指すのだそうです。
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<この季節にさくらが満開です、冬桜かな?>

この地に置かれた天皇(大王)とその宮殿としては
「豊浦宮(とゆらのみや)推古朝」「小墾田宮(おはりだのみや)推古、皇極朝」
「飛鳥岡本宮(あすかおかもとのみや)舒明朝」「板葺宮(いたぶきのみや)皇極、斎明朝」「川原宮(かわらのみや)斎明朝」「後飛鳥岡本宮(ごおかもとのみや)斎明朝」「飛鳥淨御原宮(あすかきよみはらのみや)天武、持統朝」・・・・
などが挙げられます。
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<もみじとさくらがいっしょです。古代の人もこの景色を愛でたのでしょうか?>

この甘樫丘には、「第19代・允恭天皇(いんぎょう)412~453年」のころ、
<盟神探湯(くかたち)>という裁きの手段を行う奉行所のようなものがあったそうです。

悪人(被告人)を捕まえて来て「熱湯に手を入れさせ、赤くなれば(火傷)犯人で、そうでなければ無罪・・・・」といった制度を行ったとのことです。

いまから考えるとなんとも乱暴な方法ですが、被告人にこの手段を告げた時点で、本当の犯人は「顔色を変えた」でしょうし、役人は手を熱湯に浸けさせる前に、その顔色を読んで犯人探しをしたんだろう?・・・というのが案内役の先生の言葉です。
なるほど、そうであろうな・・・と妙なところで感心してしまいます。
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<展望台から多武峰方向遠望>

この丘のすぐ真下にある「伝飛鳥板葺宮」で誅殺された「蘇我入鹿」とその父の「蝦夷」親子が、その権勢を誇示するため、この丘のふもとに邸宅を建てたという伝えがあります。2007年2月、東麓遺跡から建物跡や石垣が発見され、蘇我氏の邸宅跡では?と注目されています。
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<志貴皇子の詩はこの丘にこそ似合います>

この丘にも志貴皇子が詠んだ例の「~明日香風~」の詩が刻まれています。
この詩はやっぱり「甘樫丘」の上でこそ心に染みてくるのです。

丘のふもとには小さな「飛鳥川(明日香川)」が流れています。この川は一級河川「大和川」に注ぐ支流となっていて、明日香村をほぼ南北に貫いています。
この飛鳥川はたくさんの詩にも詠まれています。ロマンがただよう雰囲気があります。
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<飛鳥川、向こうに見えるのが甘樫丘。拝借画像です>

ところが・・・・・
当然ながら飛鳥時代の宮殿、邸宅、寺院の多くはこの飛鳥川に沿って建てられました
これらの建物に生活していた人々の「厠」は川の水を利用する、いまで言う「水洗便所」でしたでしょう。現代のように「浄化して川に流す」方式ではありません。まんまで流します。
とすれば「飛鳥川の汚染度合」はひどかったはずです。

けっきょく、天皇の宮殿が次々と替えられたその大きな理由が、この「水洗厠」からくる「汚染と悪臭」にあったのだろう・・・とする先生の説明がストンと胸に落ちました。

そんな話しを聞きながら、「冬桜」の咲き乱れる小道を降りはじめ、駐車場へと向かいました。

丘のふもとのイチョウも葉を落とし、やがてここ明日香の里にも本格的な冬がくるのでしょう(つづく)
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<イチョウのじゅうたん>
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「まほろばの里・・明日香」を訪ねて  その11 

2009-12-20 20:59:00 | インポート
文武天皇陵と中尾山古墳の中間に「高松塚古墳」があります。
<瀕死の重傷の高松塚古墳壁画>

明日香の数ある古墳群のなかで、いまもっとも注目されている古墳です。
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<古墳内の壁画、画像は借り物です>

1970年、村人がぐうぜん見つけて発掘調査が行われました。1972年石室が検出され、その3月21日に極彩色の壁画が発見されました。
その報せを聞いた関西地方の考古学者は、一様に興奮の極みにたっしたとのことです(案内役の先生談)
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<古墳の隣にある壁画館入り口>

古墳は1973年4月に特別史跡に、壁画は74年4月に国宝に指定されました。
石室内は鎌倉時代に盗掘に遭っているようで、石室の南面部に盗掘穴が開いています。
ですが、壁画は彩色鮮やかに残っていました。
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<壁画館内のレプリカ壁画の展示、これも借り物画像です。館内は撮影禁止です>

発掘以来、壁画にカビが生じ危機に瀕したことは承知のところです。いろいろと対策を講じたようですが、けっきょく2007年4月~6月に石室や壁画を解体し、修理することになりました。

2009年に古墳の形状復元が行われ、画像のような格好で公開されました(ただし壁画は中にありません)
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<現在の高松塚古墳の全景>

修理中の壁画は、まるで「病院の集中治療室に横たわる重症患者」のようで、たくさんの延命チューブに包まれて「息絶え絶え」のようだ・・・と。これは先生の嘆きの言葉でした。
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<古墳の近くにある四神のモニュメント?木の枝や草などでできてるようです>

朝鮮の古墳発掘にも例があるそうで、古墳内に流れていた地下水が壁画や遺物の存在を永く保ったとのこと。それを知らず、発掘して地下水を止めたがために壁画や遺物が損なわれたようです。
自然の偉大さと、利用方法を知っていた先人達の知恵には驚きます。
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<古墳へ行く小道>

そうしてみると高松塚古墳の壁画は、発掘されずに永遠に地下に埋もれていた方がよかったのかもしれません。

重傷の壁画のはなしを聴くにつけ、現代の世の中、なんとまあ~「沢山のカビやウイルス」に支配されているものかと・・・そら恐ろしさを覚えてしまうのです.

くもり空の中、日暮れもせまってきました。きょうの見学はここまでです。昨夜とおなじホテルで温泉に浸かり、おいしい夕食をいただくことになります(つづく)
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<行く道々、柿の実がたわわに実っています>

《追記》
この古墳の被葬者がだれかについては、諸説がなされています。
「天武天皇の皇子の一人?」「臣下のうちの有力者?」「朝鮮半島系王族?」
など、など・・・いまのところ決め手がないようです。
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「まほろばの里・・明日香」を訪ねて  その10

2009-12-19 21:18:00 | インポート
飛鳥寺の次の見学場所は「文武天皇陵」です。

<文武天皇陵の不思議>

文武天皇陵は《檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)》と名づけられ、宮内庁の管理下におかれ門外からの参拝のみで、中へは入れません。

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<文武天皇陵正面全景>

文武天皇は天武と持統天皇の孫で(早世した草壁皇子の皇子、母は元明天皇)
683年生まれで、707年24歳で若死にしました。697年14歳で即位し在位は10年と短いものでした。

功績としては701年に「大宝律令」を完成させたことでしょうか。

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<参拝はこの門の前で・・・>

続日本記に「火葬されここに埋葬された」とあり、宮内庁管理の天皇陵となっています。
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<宮内庁管理の案内書き>

ですが不思議なことに、実はこの少し先にある「中尾山古墳」こそ、文武天皇の陵墓である・・・とした学説が定着しているとのことです。

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<中尾山古墳の上部、わずかに石室の部分が露出しています>

江戸期まで殆んど省みられず、荒廃したままの各地にある皇室の陵墓でした。

明治になってにわかに整備され、尊崇されるようになったのですが、急ぎ仕事の傾向があって細かな調査もなされなかったとのことです。

その地に伝わる「口伝、伝承、意図的な嘘」などをそのまま鵜呑みにして「・・・ここだっ!!」ってな調子で決定した(らしい)のが、この「文武天皇陵」なんだそうです(案内役先生の談)

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<中尾山古墳の正面、案内板>

宮内庁がいまになって「ここでは無かった・・・」と覆すわけにも行かないのでしょう。
一方「中尾山古墳」も発掘調査はしたものの、盗掘で確たる埋葬品も無いわけです。

八角形状であることや、火葬遺骨を埋葬した、「聖なるライン上」にあることから、天武天皇のファミリーの(奥津城)に埋葬されるに足る、じゅうぶんな資格を持つ人物に限定される・・・・などなどから被葬者は「天武天皇」だろう?との推定の域をでません。
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<古墳を彩るもみじ>

でけっきょく「中尾山古墳」は当分、単に「国指定の古墳」として推移していくのでしょう。

明治期の調査員も罪なことをしたものだと思ったりしながら・・・古墳に合掌!!(つづく)
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<古墳への小道にはたくさんの柑橘類が実っています>
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