かるさんのgooブログ <北国たより>

身近な話題を画像といっしょに・・・

三つの鬼のはなし――です(Ⅰ)

2004-02-29 22:44:00 | インポート
二月三日は「節分の日」です。豆まきが終ると「立春」となり、北国はともかく全国的になんとなく「春だぞお~~~」という気分になります。

豆まきの主役は「鬼」です。いつの頃からこの世に現れたのか?詳しいとこは知るところではありません。
ですが、子供のころから「絵本や物語」に出てくる彼らに「怖さと同時にひょうきんさ」も感じておりました。

この時期に「鬼」について三つのことを想いましたので書きました。


(その一)『なまはげの鬼』

秋田県の小正月(1月15日)頃に行われる行事に、横手地方の【かまくら】と男鹿半島地方の【なまはげ】が有名です。

ご存知のように【なまはげ】の行事は、お面と蓑をつけ、木製の刃物などを携えた「鬼」たちが夜子供のいる家庭を回り、大声で「わりい~~ごはいねかあ~~、なぐごはいねかあ~~」などと脅かし?を掛けるものです。
この時期のTVニュースで必ず取上げられますから、みなさんも充分にご承知の場面です。

脅かされた幼児は「泣き叫び、尻込みし、親にしがみつき」泣きじゃくりながら誓います。「ええごになります。たべもんにすきぎらいは言わねェ、なんでも言うごときぎます」などなど。

こんなシーンを見るにつけ「どうしてああまで幼児をいじめるのかな?」と昔から思っていました。幼児期の躾、その必要性は誰よりも感じてはいますが、あの【なまはげ】の「鬼」たちの行いは「度が過ぎてはいないか?・・」と。

(あの年齢の頃、あれほどの「恐怖」を植え付けられた「男鹿半島地区の幼児」たち、長じて「鬼」によるトラウマをどれほど受けるものか?などと、一度聞いて見たい気がします)

あれは決して幼児への躾、なんてものではなく「鬼に扮し、酒を喰らった若者たち」のたんなるはしゃぎに過ぎません。地方に残る「昔からの風習、行事、祭り」にしては、ちとエグイ・・・。

そんな想いを抱きながら、先日何気なく「広辞苑」の【なまはげ】の項を開いてみました。
やっぱり!!です。思った通りのことが書いてありました。
それによれば『・・・正月十五日の夜の行事。青年数人が大きな鬼面をかぶり、蓑を着、・・などをたずさえ、戸毎に訪れて酒食の饗応を受け、祝言を述べる行事』とあります。

最後の字句をよく読んでください。「祝言を述べる」んです。決して「幼児を怖がらせる」とはありません。

「祝言を述べる」が、いつの頃より「躾の美名で脅かし」になったのか、折をみて男鹿半島付近を訪ね、その歴史を掘り下げてみたいものです。

(決してそんな日が来る訳がありません・・・わかっております。 はい)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『群来がきたあ~!!』―明るい話題です 

2004-02-26 22:18:00 | インポート
ゴメガ鳴くから ニシンが来ると
赤いつッポの やン衆がさわぐ
雪にうもれた 番屋の隅で
わたしゃ 夜通しめしを炊く

あれからニシンは どこへ行ったやら
破れた網は といさし網か
今じゃ浜辺で オンボロロオンボロボロロ

沖を通るは 笠戸丸
わたしゃ涙で ニシン曇りの 空をみる


ご存じ、北原ミレイの「石狩挽歌」です。作詞は「なかにしれい」、作曲は「浜圭介」です。
この歌一曲で「北原ミレイ」は歌手として認められ、「なかにしれい」も不動の位置を築きました。
歌詞と言い、曲と言い、北国のさびれた浜辺の情景をみごとに表現しております。

このところ、この雑記帳「暗く重い話し」の連続でした。贔屓にしていただいた「cafe仲間」も愛想をつかしたのでは・・・と、いささか心配になってきたところです。
表題を「明るい話題・・・」としたにもかかわらず、またまたなんとも暗い歌を照会していますが、まあ~お読みください。

今日は「・・・どこへ行ったやら」と唄われた『ニシンが戻って来たあ~~!!』という話しです。

ここ数年来、道内の日本海沿岸(特に留萌方面)で、わずかながらニシンが戻りつつあると報じられてきました。
《ニシン、にしん、鰊、鯡、かど、青魚、春告魚》などと書かれます。[春告魚]のとおり早春に漁獲されますが、北国ではこの季節は「厳冬」そのものの時期です。だいたい五月中旬頃までが漁期とのこと。

そのニシンが、今年は久々の「豊漁」で浜が沸いているようです。(もちろん昭和初期頃までの、年間90万トンほどの漁獲量とは比較になりませんが・・・)

この二月初旬、羽幌町の焼尻島では「親魚の大群」が押し寄せ、雄の精子で海底が白濁する【群来・クキ】が見られたようです。漁師さんにとってこの【群来・クキ】という言葉ほど響きのいいものはないようです。身震いがするほどだそうです。

留萌から南へ約20キロ下がった「増毛漁港」では、作シーズン全体で2トンほどの漁獲量だったが、今年はこの時期すでに80倍の「170トン」の漁獲があったとのことです。この調子で五月まで行ったら・・・と、漁師さんはえびす顔のようです。

おかげで、スーパーの店頭で並ぶニシンの値段も、雄一匹150円ほど、雌が220円~250円。昨年と比べて3~4割安いそうです。
永年、北欧かカナダから輸入された「ニシンや数の子」に頼っていた私たちの食卓です。

これを契機に道立水産試験場などの増殖事業が功を奏し、「どの浜にも、年毎に【群来】が」訪れ、「純北海道産」のニシンがふんだんに食べられることを願って止みません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北の国に吹く嵐――続きです

2004-02-24 20:00:00 | インポート
2月も20日を過ぎて、春らしくなっては来ているのですが、その割りには雪の日が多いようで、嵐かとも思わせる「低気圧」が通り過ぎて行きます。

もう一つの「北国に吹く嵐」は、ここへきてさらに風速を増してきたようです。
国会の予算委員会でも取り上げられ、警察庁、政府も対応に苦慮しているように見受けられます。
「北海道警察」内部では、実名で「事態を告白」した元警察幹部を「売名行為」と見る空気がある、と先回書きました。

そんな空気を「真摯に対応していない…」として多くの元幹部が「私も実名で証言してもよい」と名乗りをあげようとしているとのことです。
その人々が言うには「長年不正を続けざるを得なかった。命令に従わない者は、警察官の素質がないとして、左遷された」と語っているとのこと。

そんな最中、渦中の年度に「渦中の警察署長」を勤めた二人の人物が、当該年度の報償費だったとする「50万円十利息20万円=70万円」の返還を、それぞれが北海道警察に申し出たのです。もちろん道警は受け取りを拒否しています。

やむなく二人はこれを「不当利得だった」という名目で法務局に供託したのです。
ですが、お二人は供託後「不正は無いが、これ以上道民、後輩など関係者に迷惑をかけたくない」などとその理由を説明しています。
なんとも「奇妙な話し」ではありませんか・・・。
これほど多くの元、現警察関係者から「不正は恒常的にあったし、いまもある」と証言されています。
にもかかわらず、警察庁をはじめ、それぞれの警察幹部は「知らぬ存ぜぬ、証拠なし!!」あるいは不明朗な「内部調査」で乗り切ろうとしているようです。

話しは変わります。
NHKの番組、「人間ドキュメント」はできるだけ観るようにしています。
以前「讃岐うどんの るみおばあーちゃん」のことをここに書きました。

先日も観ました。
「いのち刻む京料理」と題した、京都の割烹料理の革命児と言われた「割烹料理 まるた」のご主人の話しです。

氏は難病の「筋萎縮症」にかかり、行動はもちろん言葉を話すことすら困難になりました。今はお店をたたみ、数人のお弟子さんへ「京料理の伝統に加えた自己の創意工夫」を擦り込むように教えています。
日々衰えて行く身体を鞭打つように生きるその様子は、まさに「いのち刻む・・」というタイトルがぴったりです。

千年の歴史ある「日本が誇るべき食文化の伝統と技」を、これからの千年へ残そうと「いのち刻む日々」を送る まるたさんに、ただただ畏敬の念を抱くばかりでした。

ひるがえって北海道警察や警察庁も含めた「関係諸氏」、千年とは言わないまでも、20年、30年後のこの日本にいったい何を残してくれるのか? 

いまが、今日がまさにその正念場ですよ…と、まるたさんのことを思い浮かべながら考えてしまうのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北の国に吹く嵐――「権力のありよう」のこと

2004-02-19 20:47:00 | インポート
コラム「うそクラブ」
・・しつけ、今むかし
母親――悪いことばかりしてると、お巡りさんに来てもらいますよっ!!
子供――いいもーん、お巡りさんは悪い子の味方だもん・・・

冒頭から笑い話にもならないことを書いています。

昨年の暮れ、この雑記帳に「北海道の10大ニュース」を書きました。その時点では12位にランクされていたニュースに「北海道警察の捜査用報償費不正疑惑」というのがありました。
それを示しながら「来年に尾を引く重大な、暗い事件です」と書きました。

予想の通り、今年に入って「大きな問題」に発展し、いまや北海道だけのことでなく「全国の警察の問題」として認識されようとしています。

この事件の顛末を簡単に書こうとするのですが、話しが長くなるばかりで何度も途中で止めてしまいました。
一言でいいますと次のようなことです。

――捜査用報償費を、支払うべき対象者には支払わず、警察組織ぐるみで私的に流用していたのでは?という疑惑が明るみに出た――

当初、道警の最高幹部の本部長や北海道知事は、議会での質問者に「木で鼻をくくった」ような答弁に終始しました。

ところが弁護士の有志の告発や、ここへ来ての「元道警の幹部」が実名で真相を告白するに及んで、知事の態度も急変してきたのです。
なによりも道警は窮地に陥り、「警察庁」からの指示もあったのでしょう、やっと真相を「調査する・・・」と発表せざるを得なくなりました。

それでもその調査は「あくまでも内部調査」で、第三者的な視線は一切入りません。
そのことは、たとえて言うなら「泥棒がどろぼうを裁く」ようなもので、本当の意味での真相解明には繋がりませんでしょう。

今日、2月19日の北海道新聞の記事では、
――道警の報償費調査委『不正なし』へ筋書きを・・・
と題されています。
この記事によれば、警察内部の関連者には「組織の圧力」が掛かるだろうし、実名の元幹部の証言は「証拠無く、事実関係を立証できず」で、一部トカゲのしっぽを切って「幕引きが準備されている」とのことです。

なによりも腹立たしいのは、安穏な日常生活を振り切って、実名で当時の自分も含めた「警察内部の非常識」を正そうとした、勇気ある人にたいし「現職幹部」たちが向ける目です。

「マスコミから金をもらったのではないか?」
という破廉恥な考えかたが、道警全体とは言わないまでも、空気としてはあるようです。

毎年発表される「犯罪白書」を読むまでもなく、私たちの身近に起こる事件は「重大かつ多発」の傾向が顕著です。

こんなところで大げさな言い方になりますが、「国家とは何か?」を考えます。
それは「国民一人々の安寧と安全を保証する組織」に他なりません。

そのためにも「人が業として持つ(悪)を封じ込める手段」としての「警察組織」は重要です。
ですが、その「警察組織」自らが不正を行っているとしたら、しかもそのことへの問い質しに対し「知らぬ、存ぜぬ」として逃げ切りを謀るとしたら、いったいこの世の悪は「だれが裁く」のでしょうか?

ここはやっぱり「必殺仕事人」とか「梅按」、「鬼の平蔵」あたりにご登場願うより、他に手はなさそうです。

一国において「破壊的手段と権力」をもつ組織(軍隊、警察など)が、国民の手に負えなくなった時、その国の滅びが始まります。これは世界的に歴史が証明しています。

かっての「ヒットラーのゲシュタポ」、「旧ソ連のKGB」、「敗戦までのどこかの国の憲兵隊」、近くは「北〇〇の国家保衛部」などなど、挙げれば切りがありません。

これ以上は、また話しが長くなりますから止めにします。
この私、小心者と思われても仕方ありません。
この話の冒頭の「北海道警察・本部長」の、議会での居丈高な答弁をTVで観るに及んで、上記のような「権力」のありようが、フッと頭の隅に浮んだ・・・というだけの話しです。

願わくば、世の子供達に「お巡りさんは悪い子の味方・・・」と言わせないためにも、私達一人一人が心して掛からねば・・・と思うのです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三つの鬼の話し――です(Ⅲ)

2004-02-02 02:09:00 | インポート
三つ目のそれは、あまり書くことへの気乗りがしないのですが・・・

(その三)『きしわだの鬼』

毎日の新聞やTVの情報の中で「殺人」とか「放火」とか、むごたらしい事件が報じられない日はありません。
これでもか、これでもかと続くこれらの事件に、受け取る側の私たちの方もいささか「麻痺状態の感覚」が生じてきています。

そんな、麻痺感覚を覚えながらも、先日の25~26日頃に報じられた「岸和田、中三男児虐待事件」には強烈なショックを受けました。
すでに連日の報道でみなさんその内容をご存知でしょうから、ここで云々することもありません。

残虐な事件が報じられるたびに思います。
容疑者(犯人)は「どういう精神構造になったら、そんな惨いことができるのか?」と。

たぶん、実行犯にも「そのときの言い分」はあるかと思います。
ですが、普通の、たいていの人間は、人を惨い目に合わすことへの「恐怖とためらい」が生ずるはずです。
平然と人間の命を奪い、その後も何食わぬ顔で生活する、その感覚がどんなものなのか?一度
説明してもらいたい・・・と思ったりするのです。

まことに不謹慎な言い方です。「いっそ一思いに殺した方が・・・」と思わずうめきたくなるような「岸和田の事件」です。

飲ませず、喰わせず、与えるのは惨い暴力だけ。身動きもならない実の子を「隣の部屋に放置する」・・・。
平時にこんな行為を平気でできる「人間の不思議さ」を、どうにも納得することができません。

「鬼畜にも劣る」などと言葉を使います。
このたびの「きしわだの鬼」と比較するならば、角を生やした物語上の「赤鬼、青鬼」などは、まるで子供のように「可愛い鬼」に思えてしかたありません。

それにしても、この事件で最も恐ろしい「鬼」は、多少なりとも様子を知りながら「見て見ぬふり」をしていた私達「無数の小鬼」ではないか・・・と痛切に思うのですが。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする