大阪の高槻市で起きた、「男女中学生・殺人遺棄事件」はなんともやりきれない出来事です。犯人として逮捕された男には憤りを覚えます(間違いなく犯人ならば)
この国で殺人事件とその被害者数は、年々減っているのだそうです。
統計が取られ始めた頃の昭和30年(1955年)の2,119人をピークにして、平成元年(1989年)は767人、平成24年(2012年)には383人にまで減っています。
数字的には確かにそうかもしれませんが、わたし達の感覚では逆に増えて居るように感じます。幼児、少年少女、婦女子への残虐的な事件が大きく報道される所為でしょうか。
とりわけ最近は、若年婦女子が深夜、未明の路上で襲われ、被害に遭うケースが多く見受けられます。
おのれの欲望から事件を起こす加害者には、当然ながら怒りを覚えるのですが・・・
このたびの高槻市で災難に遭った被害者の冥福を祈りつつも『少年少女がなぜ深夜、未明まで街なかを徘徊しているのか?』『家族はそんな子供の行動をなぜ黙認しているのか?』『危険に対する配慮、心構えは?』などの思いが頭に浮かんできます。
いつもそうですが、事件を起こす犯人への怒りや、憎しみだけが報道されます。今回の高槻市事件でも、だれもが「被害者への同情と哀惜を言います。
彼らの思慮分別の欠如」を語る人は居りません。
世間や周りの人々を、疑いの目で見ながら過ごす日々の生活は、なんとも味気無いことですが、「安全神話」が崩れつつあるこの国で、せめて「もしかしたら?」と、『思慮分別』のある行動をとって欲しいものと、強く思う昨今なのです。