二泊三日の「東北のさくら旅」の最終観光地は平泉の「中尊寺」です。
角館から高速道路で大曲、横手を通って北上市の南およそ10㎞に位置する「磐井郡平泉町」まで走ります。
幸いのことに角館と違って、最後の観光地「中尊寺」境内のサクラはきれいに咲いていました。
1105年、奥州藤原氏の初代「清衡」によって建立されたこの寺は、二代基衡、三代秀衡の深い信仰によって手厚く保護されてきました。
天下を収めつつあった頼朝に嫌われた「源義経」を匿った三代秀衡の遺言もむなしく、四代泰衡が義経を滅ぼした挙句、1189年奥州藤原氏そのものも頼朝に滅ぼされてしまいます。
衣川の館を襲われた義経主従はよく闘い、武蔵坊弁慶の「立ち往生戦死」の伝説を生みます。
戦のあと、義経の亡骸が見つからなかったことから「義経海外逃亡説」もまことしやかに伝えられることになります。
蒙古のジンギスハーンに生まれ変わった・・・とか、蝦夷地に隠れ住んだなど(北海道日高管内平取町に義経神社があります)、弱者を後押しする国民性から「判官贔屓」という言葉ができ上がりました。
藤原三代のころの「中尊寺」は寺塔40、禅坊(僧の宿舎)300・・・と言われるほど隆盛を極めました。
藤原氏滅亡後の鎌倉期、大きな庇護者もいなくなり「中尊寺」は衰亡の一途をたどり、1337年(建武4年)火災により多くの堂塔が焼失しました。
しかし「金色堂」など一部貴重な財産が残り、現在まで良好なかたちで引き継がれています。
「金色堂」の須弥壇には清衡、基衡、秀衡、三代の亡骸と、四代泰衡の首級がミイラ状態にされて納められています。
御堂は一時むき出しにされ、風雨にさらされていましたが、鎌倉期の1288年(正応元年)に時の将軍の命で「覆堂(さやどう)」が設置され「金色堂」を保護することになりました
。
現在は1965年から鉄筋コンクリート製の「覆堂」になり、さらにガラスケースに収められ、温度・湿度が調整されています。
見学者はカメラはもちろん、ほとんど私語をを交わすことも無く、数分間の「テープ説明」を聞いて退堂します。
「金色堂」のすぐそばに、旧「覆堂」が置かれています。その近くに松尾芭蕉の銅像があり、句碑が立っています。
「奥の細道」紀行で、この平泉の地でも後世に残る名句を残しています 。
芭蕉よりはるか以前の藤原三代全盛のころ、二代目基衡のときに「西行法師」がやはり平泉やその近辺を訪れて、数首の和歌を残しています。
その一つ・・・
≪ききもせず たばしねやまのさくらばな 吉野のほかにかかるべしとは≫――知らなかったなぁ~、吉野の山のさくらのほかに
奥深い奥州の束稲山で、こんな素晴らしいさくら花が観られるなんて・・・――
西行以上に、だれもが言える芭蕉の句はあまりにも有名です。
衣川の古戦場跡を訪れては
≪夏草や 兵どもが ゆめの跡≫を残し、
金色堂を拝観しては
≪五月雨の 降のこしてや 光堂≫と詠んでいます。
世界遺産に登録されて、人々の注目を集める「中尊寺」ですが、堂宇や景観のほかに、西行や芭蕉が見直され、その足跡を訪ねる旅がさらに持てはやされるのではないでしょうか。
それにしても、今回は毛越寺の拝観ができなかったことにちょっぴり無念さを覚えるのです。
はるかに衣川の夕景を眺めつつ、坂道を下りバスの待つ駐車場へ向かいます。
見ると「武蔵坊弁慶の墓」と伝えられる小さな墓石と石碑が建っています。
ご主人の義経は全国各地に痕跡がありますのに、忠臣の弁慶は820有余年もの間、ひたすら平泉のこの地を守り通していることに感銘すら覚えてしまうのです。
ふたたび高速道路に上がり、仙台空港に向かいます。
曇り空だった天候が、先ほどから小雨模様になってきました。バスのフロントガラスをたたきつける風雨が、まるで弁慶の怒りを表すかのように思ったりするのは、つかの間「栄枯盛衰」の歴史の中に身を置いてきた、時間の所為なのかもしれません。
仙台空港に着き、待合室の天井を見上げながら、三日間の慌ただしい東北4県の春の旅の終わりを噛みしめたところです。