かるさんのgooブログ <北国たより>

身近な話題を画像といっしょに・・・

春の東北の旅 Ⅸ(最終)

2012-05-16 13:19:16 | 日記・エッセイ・コラム

二泊三日の「東北のさくら旅」の最終観光地は平泉の「中尊寺」です。

角館から高速道路で大曲、横手を通って北上市の南およそ10㎞に位置する「磐井郡平泉町」まで走ります。Img_9831

幸いのことに角館と違って、最後の観光地「中尊寺」境内のサクラはきれいに咲いていました。

「関山中尊寺」は「毛越寺」「無量光院跡」などとともに、平成23年ユネスコの世界遺産に登録されました。Img_9835

1105年、奥州藤原氏の初代「清衡」によって建立されたこの寺は、二代基衡、三代秀衡の深い信仰によって手厚く保護されてきました。

この藤原三代の100年に及ぶ治世中、奥州に戦乱がなかったという歴史は特筆すべきことのようです。Img_9839

天下を収めつつあった頼朝に嫌われた「源義経」を匿った三代秀衡の遺言もむなしく、四代泰衡が義経を滅ぼした挙句、1189年奥州藤原氏そのものも頼朝に滅ぼされてしまいます。

衣川の館を襲われた義経主従はよく闘い、武蔵坊弁慶の「立ち往生戦死」の伝説を生みます。

Img_9841

戦のあと、義経の亡骸が見つからなかったことから「義経海外逃亡説」もまことしやかに伝えられることになります。

蒙古のジンギスハーンに生まれ変わった・・・とか、蝦夷地に隠れ住んだなど(北海道日高管内平取町に義経神社があります)、弱者を後押しする国民性から「判官贔屓」という言葉ができ上がりました。Images

藤原三代のころの「中尊寺」は寺塔40、禅坊(僧の宿舎)300・・・と言われるほど隆盛を極めました。

藤原氏滅亡後の鎌倉期、大きな庇護者もいなくなり「中尊寺」は衰亡の一途をたどり、1337年(建武4年)火災により多くの堂塔が焼失しました。

Img_9843 

しかし「金色堂」など一部貴重な財産が残り、現在まで良好なかたちで引き継がれています。

「金色堂」の須弥壇には清衡、基衡、秀衡、三代の亡骸と、四代泰衡の首級がミイラ状態にされて納められています。

御堂は一時むき出しにされ、風雨にさらされていましたが、鎌倉期の1288年(正応元年)に時の将軍の命で「覆堂(さやどう)」が設置され「金色堂」を保護することになりましたImg_9859

現在は1965年から鉄筋コンクリート製の「覆堂」になり、さらにガラスケースに収められ、温度・湿度が調整されています。

見学者はカメラはもちろん、ほとんど私語をを交わすことも無く、数分間の「テープ説明」を聞いて退堂します。

「金色堂」のすぐそばに、旧「覆堂」が置かれています。その近くに松尾芭蕉の銅像があり、句碑が立っています。

「奥の細道」紀行で、この平泉の地でも後世に残る名句を残していますImg_9851_2

芭蕉よりはるか以前の藤原三代全盛のころ、二代目基衡のときに「西行法師」がやはり平泉やその近辺を訪れて、数首の和歌を残しています。

その一つ・・・

≪ききもせず たばしねやまのさくらばな 吉野のほかにかかるべしとは≫――知らなかったなぁ~、吉野の山のさくらのほかに

奥深い奥州の束稲山で、こんな素晴らしいさくら花が観られるなんて・・・――

という感嘆の意のようです。Img_9858

西行以上に、だれもが言える芭蕉の句はあまりにも有名です。

衣川の古戦場跡を訪れては

≪夏草や 兵どもが ゆめの跡≫を残し、

金色堂を拝観しては

≪五月雨の 降のこしてや 光堂≫と詠んでいます。

世界遺産に登録されて、人々の注目を集める「中尊寺」ですが、堂宇や景観のほかに、西行や芭蕉が見直され、その足跡を訪ねる旅がさらに持てはやされるのではないでしょうか。Img_9863

それにしても、今回は毛越寺の拝観ができなかったことにちょっぴり無念さを覚えるのです。

はるかに衣川の夕景を眺めつつ、坂道を下りバスの待つ駐車場へ向かいます。

とそこに、松と桜に囲まれた一角がありました。Img_9892

見ると「武蔵坊弁慶の墓」と伝えられる小さな墓石と石碑が建っています。

ご主人の義経は全国各地に痕跡がありますのに、忠臣の弁慶は820有余年もの間、ひたすら平泉のこの地を守り通していることに感銘すら覚えてしまうのです。Img_9901

ふたたび高速道路に上がり、仙台空港に向かいます。

曇り空だった天候が、先ほどから小雨模様になってきました。バスのフロントガラスをたたきつける風雨が、まるで弁慶の怒りを表すかのように思ったりするのは、つかの間「栄枯盛衰」の歴史の中に身を置いてきた、時間の所為なのかもしれません。

Img_9908

仙台空港に着き、待合室の天井を見上げながら、三日間の慌ただしい東北4県の春の旅の終わりを噛みしめたところです。

Img_9880 <中尊寺本堂>

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春の東北の旅 Ⅷ

2012-05-14 17:16:59 | 日記・エッセイ・コラム

 

津軽からまた岩手県の八幡平高原にもどってきました。Img_9714

今晩の宿は、巨大な岩手山を目の前にした温泉ホテルです。

ツアー三日目は、通常より早めの朝食をとって出発します。Img_9726

目指すは秋田県仙北市角館町、念願の武家屋敷街の枝垂れ桜です。

秋田新幹線に沿った一般国道をひた走ります。県境の峠にはまだ残雪が厚く残ったりしています。Img_9819_2 

着いた広~~い駐車場には、すでに各地から来た観光バスでうずまっています。

秋田(出羽の国)はその昔から芦名家が支配していましたが、江戸初期に芦名家が滅び、佐竹家が常陸の国から移封されてきました。Img_9743 

いつの頃か角館は支藩「佐竹北家」の支配となり幕末まで続いたようです。

(現在の秋田県知事 佐竹敬久氏は“北家”のご当主だそうです)

観光スポットになっている「内町(うちまち)」地域は、上級・中級武士の「武家屋敷地区」となっていたところです。Img_9754

この地域は国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。

広い通りに沿って塀が続き、シダレザクラや多くの巨木が目につき、街づくりから360年経ったいまでも、江戸時代末期のようすを見ることができます。Img_9757

武家屋敷として現存する「青柳家」を筆頭に七家が有名で、屋敷内を見学することができます。(一部の家は公的な場所として使われているところもある)

あいにくシダレザクラはつぼみの状態で、華やかさを観ることができませんでしたが、短い時間ながら北の小京都と言われるほどの伝統的街並みを堪能することができました

Img_9766

武家屋敷は「青柳家」の中をじっくりと見学させてもらいました。

その建物の風情と同時に、展示物の内容の豊かさ、情緒にも浸ることができました。

お土産屋さんで、急いで「生もろこし」を買ってバスに乗り込みます。バスの中でお弁当をいただきながら、ここから一路南に下って、最後の観光地「中尊寺」へとひた走ります。Img_9815

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春の東北の旅 Ⅶ

2012-05-13 16:38:05 | 日記・エッセイ・コラム

 

司馬遼太郎の作品に「街道をゆく」という名紀行シリーズがあります。

その第41巻「北のまほろば」と題して、津軽の各地のようすを著したこの巻は、全43巻のなかでも出色の作品です。Img_9635

そのなかで金木町のことを書きながら、太宰治についてかなりの紙数をついやしています。

太宰の生家「斜陽館」を訪れたときのことを以下のように記しています。少し長くなりますが引用させてもらいます。

Img_9682

――太宰の生家が「斜陽館」という名の旅館になっていることは、さきにふれた。

見上げてみると、かねて写真でみたとおり、まことに宏壮な建物である。ただ、雅趣はない。

たとえば、近江商人の故郷の一つである五個荘町には大屋敷がならんでいるが、「斜陽館」はそういう数寄屋ふうの瀟洒な建物ではない。Img_9636

大正時代の温泉場の大きな宿屋のように、ただ大きい。大きな棟一つで二階建の巨大な箱をまとめている。

箱であらざるをえなかったのは、おそらく内部に鹿鳴館ふうの洋式構造を取り入れていることや、また十九室を内蔵せざるをえないためのものだったろう。当時(明治三十九年)の苦心の設計だったにちがいない。

Img_9641

塀は、赤レンガ積みである。東京からわざわざ職人をよんで焼かせたという。その煉瓦塀が、当時の紡績工場の塀のように高いのである(後略)――

いまでもこの文章そのままのようすを、見学者に見せてくれています。

司馬遼太郎が訪れたその頃は、まだ旅館として現役でしたが、その後平成8年に金木町が買い取り、同10年≪太宰治記念館「斜陽館」≫と改められ一般公開されています。

Img_9648

建物は、平成16年に国の重要文化財に指定されました。

およそ30分ほどの説明を聞きながら館内をまわり、明治期の太宰の生家「津島家」が、いかに裕福だったかをあらためて知ることになりました。

数多くの作家を生んだ津軽の地をあとに、バスは一路「八幡平」にある今夜の宿へ戻ることになります。

Img_9657Img_9698

<八幡平近くの岩手山>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春の東北の旅 Ⅵ

2012-05-12 19:28:49 | 日記・エッセイ・コラム

時間の余裕があればImg_9610、まだまだ散策・鑑賞したい場所がたくさんある弘前公園ですがお別れです。

近くの食事処で「郷土料理・けの汁」というふれこみの昼食をいただきましたが、どうも口に合わない料理のような気がしました。

席も狭くお料理もさほどのものではありませんでしたが、店内入口付近に飾った「ミニねぷた」が心を癒してくれました。Img_9614

食事もそこそこに、次の「さくら花」を求めて五所川原方面へ、リンゴ畑が広がる津軽平野をバスは走ります。

着いたところが「芦野池沼公園」で、湖のような沼地が広がっていて、およそ24,000坪強の公園に、約2200本の桜と1800本の松が植えられているそうで、ここも青森県の桜の名所として挙げられていますが、やはりまだ蕾も固いようすで観光客はほとんど居りません。

Img_9626

沼をチラッと眺めて、ここからほど近い金木町の太宰治記念館(斜陽館)へ向かいます。

Img_9632_2

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春の東北の旅 Ⅴ

2012-05-09 20:04:17 | 日記・エッセイ・コラム

 弘前公園は、弘前城跡地やその他を包括利用した約35万坪にもおよぶ広大な公園です。Img_9534

弘前城は、南部藩から独立した「津軽氏」の弘前藩の居城として、1611年(慶長16年)に築城され、明治の廃藩まで260年間存在しました。

現存する本丸天守(御三階櫓)は、その他の遺構とともに国の重要文化財に指定されていて、日本100名城の4番目に選ばれてもいるそうです。

公園内にはソメイヨシノやシダレ桜など50品種以上、約2600本以上のサクラが植わっています。

今年の「弘前さくらまつり」の期間は423日~57日までとなっています。Img_9535

訪れた25日は陽気が良かったのですが、残念ながら園内のさくらのほとんどが赤みを帯びたつぼみのままで、開花まであと23日と言ったところでした。

有料区の入場については「未開花のお詫び」として、再入場無料券(年間有効)を配っていました。 Img_9543

ですが、57日の最終日の入園者は約32万人だったというくらいですから、花が咲いて無くっても比較的ゆったりと園内を散策、見物できたのは、

むしろ喜ぶべきかと思う・・・絶好の花見ではありました。

Img_9575

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする