kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

これまでと違う世界

2021-05-24 | 陸上競技

土曜日のことを。

 

親しい指導者に頼まれていたので午後から「リレー練習」をすることに。以前も書きましたがほとんどベースのない中での練習です。最小限の時間で最大限の結果を出したい。基本的はめちゃくちゃな要望だと思っています(笑)。が、せっかく出場するのであればやはり「笑顔で終わる」というのが理想。どこまでできるのかわかりませんが。

 

普段の練習よりも練習負荷が高まります。前回の練習では「歩きながら渡す」くらいしかやっていません。課外などもありなかなか練習ができなかったようです。天候も雨でしたし。話を聞くと「出の練習」だけはできたと。時間的なものもあります。本当に限られた時間の中での練習となります。

 

基本は前任校の選手と一緒にやってもらうことに。普段の練習と比べるとかなり動くのでしんどいと思います。途中抜けてもらいながら。そこから10バトン、25並走、合流走。ここはもっともっとシンプルに本数を絞ってやったほうが良いのかなという気もしました。私がメニューを作ったわけではないので細かい部分の調整ができてませんでした。普段走らない選手にとってはこれだけでダメージが・・・。

 

10バトンかなりやっていました。やることの意味は伝えています。それでもなかなかできません。歩いているときには手が上がるのですがスピードが上がるとそれができません。実際に走ってみなければわからないことがあるのです。見ていると様々なことに気づきます。バトンを早く渡したい。だから「ハイ」と言って相手の手が出る前にバトンを差し出してしまう選手もいました。これでは絶対に渡りません。頭ではわかっていると思います。しかし、実際にやるとできない。これが重要なことだと思います。練習をしなければ克服できないからです。

 

この子たちは「バトンに特化した練習」が必要だと思っています。この短時間で劇的に足が速くなることはないのです。もちろんバトン練習で最大スピードで走り続けることで速くなる部分はあると思います。しかし、練習が不足している場合にここで過剰に練習を詰め込んでしまっても多分速くなることはありません。試合が近づいてきたから「朝練をして練習時間の確保をしよう」という選手もいると思います。「あるある」です。試合が遠かったら意識しないのですが近づいてきたら「このままでは不安だ」という気持ちが強くなってしまいます。

 

ここまできたら何かあがいても大きな変化はありません。そうであれば「走り以外の改善点」のほうが早い。基本的な技術を身につけることでトータルタイムが上がるのです。

 

逆に前任校の選手はある程度できています。そうであればここにきて焦る必要はない。本当はもっともっと練習量を減らしていくべきだと思います。自分たちで考えているのでそのコントロールが難しくなります。「やっている選手」と「不足している選手」が「同じ課題」を掲げてやるのは違うのかなと思います。このあたりで若干「なに?」と思うことがありました。詳しくは書きませんが。この部分は私にとってはかなり大きな部分です。

 

合流走をやる。この時に「足長」について考える。これまでどれくらいの足長でやっていたのかを確認すると「15足」とのこと。かなり狭い。「なぜ15足なのか」と聞くと「先輩が15足くらいでいいんじゃない」と言っていたからと(笑)。なるほど。こういうのが「伝統」と言われる部分なんだろうなと感じました。特に「理由」があるわけではないのです。「これまでやっていたから」というだけで「検証」されていない。

 

これはこの選手たちが悪いわけではないと思います。「知らない」のです。実際の競技の世界を知らないから「これまで通り」でやる。「これまで通り」が「正しい」のか「間違っている」のかを考える材料がない。「伝統」というのはこういう大きな弊害があるのだと思います。そしてその中にいる人間はその「問題点」には気づかない。外部から見たときに「おかしくない?」と突っ込まれて初めて気づく。ここは重要なことなのではないかなと。

 

その後、バトン合わせへ。足長をある程度伸ばして。が、明らかに届かない。この時点ですでに「疲労」があったのだと思います。最大スピードを保てるだけの筋力と体力がない。これはこの時点ではどうにもできないかなと。しばらく休んでもらって回復してからもう一度やるようにしようと。ある程度の筋力と体力は必須です。過剰にやる必要はないですが「練習ができるだけの体力」は必要です。これも今どうこうできる話ではない。


親しい指導者と話しながら。「準決勝進出を目指す」と言われていました。適切な黙秘だと思います。きちんとできれば達成できるのではないかなと思います。「それは無理だ」と言う気は全くありません。可能だと思っています。単に出場するだけではなく「目標を持ってやる」ことの意味。ここが大切だと思います。何となく県総体のリレーに出るというのであれば面白くない。「出るだけ」を目指す選手に指導する気はありません。私が力を貸さなくても「出るだけ」ならできるからです。


これまでやってきた「自分達の世界」から「陸上競技の世界」へと一歩踏み出す。これにより見えてくるものが違ってきます。別に日本一にならなくてもいい。それでも「本気で競技に取り組む」ことで見えるものは全く違う景色です。遊び半分で何かをやるよりは必死になって取り組むほうが獲るモノが多い。間違いない事実です。


こういう姿を見るのが本当に好きです。競技力云々ではありません。そのきっかけを与えてくれる指導者に巡り会えたことはこの子達にとって財産だと思います。普通は「15足でバトン合わせ」をやるような選手を他の指導者に指導させようとは思わない(笑)。しかし、何かきっかけを与えてあげたいという気持ちがあるのだと思います。選手のために何かをしようという姿は本当に尊敬します。


何とかバトンを繋いで欲しい。心からそう思います。なんとなく走るリレーではなく数日間でも一生懸命に考えて取り組んだ方が形になれば良いなと思います。広い世界に視野を向けて自分達がこれから先何をやるのかを考えてもらいたい。3年生にとっては最後の県総体になります。昨年は開催さえできませんでした。走らせてあげたいなと思います。


他校の選手であっても私にとって「競技者」です。その選手のために自分に何ができるかを考えたいと思います。役立てるのであれば。これは前任校の選手にも言えます。かなり厳しく話をしました。私が言う話ではないのかなという部分もありますが。私以外にこの子達に「客観性」を持たせることはできないと感じたので。余計なお世話なのかもしれません。が、この子達が笑顔で最大限の結果を出せるようにしてあげたい。心からそう思います。力を出しきる。そこから見えてくる世界を見せてあげたい。


まとまりません。申し訳ありません。色々な感情が錯綜しています。

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冷静さ

2021-05-24 | 陸上競技

思うことを。

 

自分自身不足する部分があると思うので自戒を込めて書いておきます。

 

人はその場その場において「客観視」できなくなることがあります。指導をして初めて本気でインターハイを意識して取り組んだ冬季練習。この時は「気迫あふれる練習」ができていました。中学時代中国大会に進んだことのない選手たちが県でチャンピオンになって中国新人で戦う。マイルでのインターハイが見えてきました。この時の冬は本当に練習をしました。

 

必死になって練習に取り組む姿。これを見ていて「絶対にいける」という感じがありました。が、この時に我が師匠から「気負いすぎていないか」と電話のたびに言われていました。指導者が気負いすぎるとそれが選手に伝わる。それにより「やらなければいけない」という気持ちが強くなりすぎて失敗する、と。

 

当時は私自身まだ若かった。指摘されていることを理解しているつもりでも実際は自分自身んがその「空気の中」にいるので気づかない。練習もきちんとコントロールして実施している。大丈夫だ、と。実際、かなり力がついていました。400mのエースと同等で走る選手がほかに2人。3人が58秒台くらいで走るだろうなという感じでした。圧倒的に強い。そう感じていました。

 

が、支部大会の1週間前に400mH選手が一人軽くハムストリングを痛める。シードは持っているので無理する必要はありません。出場させない方向で考えていたのですが本人が「自分も絶対に走りたい」と懇願してきました。無理をさせる必要はない。分かっています。必死に練習をしてきたので出たいという気持ちもあったのでしょう。リレーは出なくていいから個人だけ無理せずに出ようかという感じになっていました。本人的には「みんなが走るから自分も走らないといけない」「私だけ記録が出なかったら・・」という不安や焦りがあったのだと思います。

 

レース自体は問題ありませんでしたがその後、かばっていたので足首を痛める。それが県総体や中国大会まで響きました。間違いなく63秒台で走る感じでしたが満足するレースができませんでした。結局、中国大会もレース中に肉離れをしてしまって走れない。それによりマイルも大幅に力が落ちる。結局7位となりマイルでのインターハイ出場は叶いませんでした。あの時、本人が「走りたい」と言ったことに対してきちんと納得できる形で話をして出すべきではなかった。その部分は悔やんでも悔やみきれません。レースが終わったとにその選手が「私のせいでインターハイに行けなかった」と泣き崩れていた姿は一生忘れることができないと思います。

 

この時、私自身がダメなんだと痛感しました。あれほど師匠に言われていたのに。自分自身が冷静さを欠いている。その状況で選手が冷静にレースができるはずがない。全ての失敗は私の責任でした。冬季の間から客観視できていたら。選手の「焦り」を感じ取ってきちんと話ができていたら。自分を責めました。

 

大学3年生の時のこと。2年生で中四国個人戦という大会で優勝。本当に自分の力で全日本インカレをつかむことができるのではないかと思っていました。冬は必死に練習しました。休むこともなくという感じだったと思いますシーズンに入っても「もっともっと追い込まなければいけない」という気持ちが強くありました。14歩にもチャレンジ。無理やりでもそこに結び付けたかったのでかなりの量をやりました。

 

結果、全く走れなくなる。情けない話です。「もっとやらなければいけない」と自分自身を鼓舞しながらやっていました。休んだら強くなれない。誰も止めてくれません。当時はキャプテンでしたし、競技力もチーム内ではトップでした。そんな選手が死に物狂いで練習をしていたら誰が止められるのか。本当はそこで客観視できる人間がいて「お前、やりすぎだよ」と止めてくれればいいのですが。大学生ですからそんなことはありません。1年間棒に振った感じでした。

 

同じような失敗をしています。学習されていないのかもしれません。しかし、今はそういう部分がなくなったと思っています。客観視することができるようになった。まだ「視野が狭い」といわれる可能性は高いですが。それでもある程度のことが俯瞰できるようになってきたのかなと感じています。少しは・・・。

 

これをどのように身につけるか。私自身がそうでしたが「周りがやらない」という環境では「自分は絶対にやる」という気持ちが強くなります。自分がやらないと「やっていない人と同じになる」という強迫観念が生まれます。本当はそこまでやる必要がないのに「必要以上にやってしまう」のです。ここも本当は誰かがコントロールできるといい。客観視できる人がいるかどうかは大きい。

 

また、「不安」から「もっとやらなければ」という部分が出てくる。「やらなければ強くなれない」という思い込み。普段からかなりやっているのに「もっともっとやらないと強くなれない」という気持ちが大きくなって止まらなくなる。誰にでもあることなのだと思います。

 

「やらない者」にやらせるのは簡単です。強制的にやらせれば「やりたくないのに」と思っていても無理やりやることになります。「自主性に任せる」という言葉がありますが、「自主性」に任せるとやらない者は本当にやりません。別にそこまで「やらない者」に対してエネルギーを使う必要性もないと思いますが。逆に「やっている者」を抑えるのは難しい。自分自身がそうだったように。

 

誰もが失敗をする。客観視するというのは本当に難しい。だからといって自分自身を責めても何も変わらない。今何をするのか。次に何をするのか。そこだけに目を向ければいい。「不安」に打ち勝つというのは難しい。それでも冷静になる必要がある。焦りは自分を見失う。熱くなりすぎると冷静さを失う。

 

焦らない。慌てない。地に足をつける。練習は正直。きちんとやればきちんと結果が出る。不安に立ち向かうのではなく、不安と一緒に自分がやるべきことを理解する。練習も大切。体を休めることも大切。表面的な話ではなく「本質的な話」だと思っている。

 

よく分からない文章になっていますが。今思う素直な気持ち。伝えたいメッセージもある。どこに向かって発信するのか。誰のためになるのか。分かりません。

 

思うがままに書きました。雑文になっていますかね・・・。

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