kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

科学的視点

2014-11-30 | 陸上競技
なんとなく書いておきます。

今の学校に赴任して13年目、もう少して14年目となります。赴任して2年間は陸上ではなく硬式野球の部長。それから12年は試行錯誤の中でやってきました。その指導スタイルも大きく変わってきていると思います。最初の2年は陸上がやりたいという想いと一生懸命に甲子園を目指す選手をサポートしたいという気持ちが半々。陸上をやりたいと思う部分とは現状は大きく異なり、部活の体をなしていない活動を陸上部はしていました。ジョギング部というレベルにも到達していない。

そんな中で野球の指導に関わっていました。野球のことは基本的にほとんど分からないのでトレーニング系のことをメインで指導する形でした。当時の私は大学院を出て運動学に関してはかなり知識を持っていると自負していました。教員になるか研究職に就くかを本気で悩んでいる時期もありましたから。こうやってblogを書き続けているのも論文を書くという作業に似ているからかもしれません。私自身典型的な文系の人間です。文章を考えたり、あれこれ思考するのは得意分野だと思っています。

そんな文系だから「理系に憧れる」という部分がありました。大学では趣味で運動生理学の知識を身につけていました。大学院に進学して数値を用いた勉強をすることが楽しかった記憶があります。盲目的に「科学的視点」から陸上を捉えることが正しいのだと信じ切っていたところがあります。当時はそれを指摘して下さる方も周りにはいませんでしたから現役である程度やってきた自分自身に自信と期待をしている時期でした。今考えるとめちゃくちゃ恥ずかしい話なんですが(笑)。

基本的に科学的視点というのは研究職に就いている人が生活の基盤を作るために年間何本か書かなければいけない論文のためにあるのだと認識しています。かなりの論文が数値を用いて「こんなに変化があるのだから正しい」というものです。若かった私はそのことに気づけることもなく手に入れられる論文を全てに目を通すという感じがありました。指導の内容もブレる部分があったと思います。教育的な視点からのブレは今でもないと思っていますが、当時は技術論や練習の組み立ての部分でかなりブレていました。自分が現役の頃にやっていたメニューや本に書いてあった練習をアレンジして実施する。中身を精査することもなく、これはおもろいと感じたメニューを実施していました。

そんな中で2年野球をやって3年目から陸上。5年目にして初めての中国大会。ジョギング部から始まり、ほとんどが未経験者であった部活が数年で中国大会に進めるというので変に自信を持っていました。この時までは「科学的視点」で見ていくことで無駄がなくなると信じていました。効率の良い正しい練習をしているのだから強くなるんだと盲目的に信じていました。周りが全く見えていないだけだったんですが。

その年の夏、初めて師匠の主催される合宿に呼んで頂きました。この時合宿に参加していなかったら今の自分は居なかったと思います。まー今も大したことはないんですが。ここで現場で選手を見ることで気づくこと、考えることの大切さを教えていただきました。これから指導スタイルが劇的に変化します。「科学的視点」という要素がメインだった所から「必要最低限の要素」とすることにしました。過去の経験というのはあくまで「たまたまの成功体験」であり、万人に当てはまるわけではない。それを突きつけられました。それ以降はかなり親密にさせていただいていますが、ここがなければインターハイに出場するという指導者にはなれなかったかもしれません。

ここ最近は逆にまた視野が狭くなっているのではないかと感じています。現場で物事を見続けることが最優先。ここは変わらないのですが、いつの間にかスマートな指導になり過ぎている気がしています。100mでインターハイに行くという大きな目標を掲げてやってきました。たまたま13秒1の選手が2人12秒1まで記録を伸ばしましたし、卒業した選手で13秒1が12秒3まで記録を伸ばした。その過程でスピードを上げることを意識して多くのものを削ぎ落としてきました。それが上手くいったというのもあると思います。が、その成功体験が他の選手につながるわけではない。「科学的視点」というのは実は上手くいった選手にフォーカスしてそれを「万人に通用する理論」として表現することにもつながっていると思います。本当は選手が違えば全部違うんですけどね。

今は私がスタートした部活動と比べると大きく変わっています。毎年県内ではそれなりの活躍をしますし、ある程度注目を集める存在になっていることは間違いありません。私自身、このレベルまで来たら次はもっと意欲的に物事に取り組めるだろうと感じていました。もちろん、それなりにやっているチームと比べると素晴らしいチームになっていると思います。外から見ればなんら問題のない良いチームだと思います。一生懸命に物事には取り組みます。その一生懸命のレベルが私のイメージする水準とは違ってきているのかなと。「科学的視点」から抜け出した時と比べて私自身が「ものさし」を失っているのかもしれません。その「ものさし」が5年前のままなのかもしれない。変わるべきは私自身ではないかと感じています。

書きたいことの半分も書いていませんがしつこくなりそうなので小出しに書いていけたらと思います。時代が変われば選手の意識も変わる。これだけ多くの情報に溢れ、多くの刺激がある世の中で競技に純粋に向き合うというのは本当に難しいことだと思います。多くの視点を持ちたい。その中で見えてくることもあると思います。

雑文となっていますがお許しを。
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坂を使った練習

2014-11-29 | 陸上競技
金曜日は雨でした。土日は勉強させるために練習は各自でと指示をしています。今後は分かりませんが、今回に関しては絶対に自分達の力でやらせようと決めています。周りからどのような評価を受けようとそれだけは譲れない部分です。

そのため金曜日は雨でも走ることに。本当はタイヤを使った練習にしたかったのですが、雨が酷くグランドでは絶対に練習は不可能。先日自転車こぎをした時に練習場所を探していました。雨が降っても出来るところを見つけておきました。木が生い茂っているので多少の雨でもなんとか練習ができる。結局は練習開始時間には雨がある程度おさまっていたのでなんとか走れる状態になっていました。

実際走るという行為をするのは2週間ぶりだと思い思います。トレーニングはやっていましたが走練習は全くといっていいほどやっていません。これに意味があるのかどうかは分かりません。他の事をやりながらここまで来たというのが事実かもしれません。モチベーションを保つために何をするか?本当に求められている事は何か?ここの部分を私自身探りながらやっているという感じでしょうか。

この日は走る前に他の種目をかなりやりました。この数年間、本当にキレイな練習が多くなっていました。何を持って高校生らしい練習というか分かりませんが技術云々が先に立ちすぎてひたすら身体を動かす中で動きや効率的な身体の動かし方を身につけるというのが無くなっていた気がします。それがトップスピードの向上につながっていると思います。しかし、本当にそれだけで良いのか?大きな疑問が残り始めました。うちの練習パターンでは結果が出るのに時間がかかります。特に身体が出来ていない選手が走れるようになるためにはトレーニングに莫大な時間と労力を要します。その途中で「面白くない」と感じる選手も出てくるのだと思います。これまではそれでも我慢して競技に向かわせていました。2年生の秋くらいから少しずつ活躍できるようになっていく。それでももっと早い段階で走れるようになり、結果を出させることが今の選手には必要になるのかもしれません。時代の流れを我々はもっと感じ取らなければいけないのではないかと感じていました。

そう考える中でトレーニングと走練習を一緒にできる方法をもっと考えないといけないという気がしてきました。これは今更なんですけどね。この数年間、脚を怪我したら嫌だという理由でアスファルトの上を走ったり、坂道を走るのを避けていました。ましてはその坂を下り使ってトレーニング系の負荷をかけながら走るなどというのは一切やっていません。雨で走れないときに何度かやっていたかもしれませんが、頻度としては限りなく0に近いレベルだと思います。そういう「いつの間にか当たり前になっていること」を一つ一つ見直していきたい。それが正しいのかどうかは分かりません。

坂道でのおんぶ走をしました。少しずつ距離を伸ばしていくパターンでの練習です。二人一組でやるのでそれなりに時間がかかりますが調度良いレストになると判断。最後の1本はかなりきつかったようです。女子は涙を流していました。いや、限界値が低すぎる。このレベルでやっていたのだと思うと、こちらが求めている練習レベルには到底届くはずかありませんね。チームに求める水準が年々高くなっていましたが、もっと最初の段階からやり直さないとダメだと痛感しました。競技力のアップに内面がついて行っていないのであればやはり土台からの積み直しが必要になります。

そのまま坂道を使ってバック走。これも距離を伸ばしていきました。坂道でのバック走は危険かもしれません。それでも実施。走りながら身体の後ろ側を鍛えたい。スプリントとこのスピードが比例するかどうかはわかりません。しかし、様々な刺激を与えることで自分の身体のコントロールもできるようになると思います。決してキレイな練習ではありません。こちらも考えて手を変え品を変えやっていく中で見えてくるものがあると思っています。さらに坂を使ってのスキップ走。これはスプリントに比例すると思っています。平地で行うスキップと同じレベルのスキップができるのが理想。上に浮いたり単なるスキップになっている選手は練習目的が果たせません。

最後に坂道走。かなり暗くなっていましたが関係なく走る。グループ分けをして追いかける形での練習にしました。高跳び選手と体力がない者は少し距離を短く設定。途中から合流する形で行いました。レストは歩いて坂を下りる時間だけです。キツいとは思いますが妥協せず実施。2セット行ってから最後の一本は頂上まで走る練習にしました。距離的には250~300はあるでしょうか。長い距離を一切やらなくなっていましたからこの手の練習はキツイと思います。何を思いながら走ったかは分かりません。こんなキツイことをやらされてと思う選手もいるでしょう。毎日こんなに走るわけではありません。長い距離を走って脚作りをするというつもりはありません。しかし、この冬はこれまでとは違う形の練習パターンも取り入れていくつもりです。私の中で固まってしまったモノを打ち破りたい。そう考えています。

長くなりました。すみません。
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自転車こぎ

2014-11-29 | 陸上競技
練習について。

テスト期間中ですから1時間程度の練習時間としています。実際、この2週間はほとんど走りっていません。走練習に代わる練習を中心に行うことにしました。これも根拠があるわけではなくなんとなくです。毎回毎回同じ練習をするとき飽きてしまいます。これまでであればそれでもやらないといけないと考えていましたが、飽きて雰囲気が落ちるくらいなら他のことをやりながら練習を消化していくほうがいいんじゃないかなと感じています。

私だけが必死になるというのは面白くありません。私がどれだけ準備をしたり練習について考えてもそれが他の部分に繋がらなければ自己満足でしかない。指導する者が中心となる練習をいつの日にか脱却したいと思ってやってきました。なかなかそれができません。本当に難しい。

水曜日、すこし雨が降ったので練習する場所がなくなりました。それならということで久々に自転車こぎをする事にしました。短長がメインだった時にはかなりの頻度で行っていました。とくに故障者は常にそこでの練習がメインとなる。走る事が出来なくても脚に負荷をかけることができるからです。乳酸を蓄積していくという課題は一応克服できます。衝撃はほとんどありませんから故障にはつながらない。様子を見ながらひたすらこがせました。これまでもタイムは計っていたのですがうろ覚えで何秒で漕ぐのか決まっていません。そのため今回からは1本1本タイム測定を行い、ペースを保つことを意識させました。尋常ではないくらい乳酸が蓄積しますからなかなか動きません。慣れもあると思うのでもっと効果的な練習の組み方を考えてみたいと思います。

短短は乳酸蓄積よりもバランスを考えて練習をする事に。坂道を使ってのおんぶ走。最初は短い距離で行い、次は途中から上に乗っている者が脱力する。これにより負荷が増します。力を抜いた瞬間にグッと負荷が増えてくるのでかなりしんどい。その中でもひたすら足を前に運ぶ。次はスキップ走。アップの時に行うスキップを坂道で。切り替えや接地の短かさまで意識できるかです。これをかなりやってから自転車へ。短い距離を何本も何本も休まず。気がつくと流れでやってしまう部分がありました。坂道での自転車こぎは、一番最初のこぎ始めの負荷をがあって効果があると思っています。坂を下りてきてそのままUターンして勢いをつけて上がったら本当に自転車を漕ぐだけの練習となってしまいます。こぎ始めの力の使い方は加速段階に近いと考えています。そこがどれだけ上手くできるか。きちんと加速に乗せられるかです。

負荷的に足りなさそうだったので短長と同じ距離を2本。これまではスマートな練習が増えていました。がむしゃらを求めながらも何となくやっている感じがありました。自分自身でどこまでできるのかをきちんと考えながら練習に取り組ませたい。それを考えて長い距離。この数年間、全くと言っていいほど長い距離の負荷をかけなくなりました。そのメリットもあると思いますが、デメリットも存在する。共通して言えることがスピードアップはしたがそのスピードを持続することが出来なくなっているということ。ここは練習の組み立ても影響していると考えています。私自身、長い目で物事を考えた時に練習のバリエーションが少なくなっていくのは良いことではないと感じています。

同じ目的を果たすために様々な角度から練習を組み立てないといけないと思います。これができるようになると飽きずに練習ができるでしょうし、様々な部分をバランス良く鍛えていけるのではないかと思います。技術的なこともやりたいのですがこれはそれぞれに時間を作ってやっていきたいと思います。ここは最近は動きに重きを置きすぎていた感じがあります。あれこれやりながら最適な練習ができるようにしてみたいと思います。
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競技について

2014-11-27 | 陸上競技
全くと言っていいほど競技について触れていません。それが良いことなのか悪いことなのか全くわかりません(笑)。

あれこれ考えることがあり、競技についても「あり方」を考えるようになりました。これまでの自分のやり方がすべて正しいとは思いません。正直、もっと適当にやってもいいんじゃないかという部分があります。世の中は不平等だと思っています。一生懸命にやったから結果が出るとは思いません。性格的に一生懸命にやることで初めて先が見えてくると感じていますからそこの部分を「否定」するのは過去の自分の「否定」となる。それを受け入れることができるかどうか。もっと肩の力を抜いて適度にやるほうが良いのかなという気はしています。

そういう部分もあり練習のパターンを少し変えています。やるべきことはやる。その合間に気分転換も入れる。以前のように「競技が全て」という選手ばかりではありません。全ての時間を競技に費やすという感覚を持っている子は限りなく少なくなってきています。そのことの「ギャップ」が自分の中でどうなのかという感じで残っていました。数年前は「何が何でも絶対にやる」という感じがチーム全体にありましたが、このご時世、そういう部分は少なくなりました。私が「こうあるべきだ」と思っていたとしてもそれが本当に正しいのか。時代に即していないのではないか。そう感じることが多くなりました。

例えば「同じ動きを繰り返す」というドリル。これも飽きてくる選手もいますし、漠然とやる選手もいる。この状態でどれだけ時間をかけても効果は出ないと思います。そうであれば目先を変えて他の部分で同じようなことをすればよい。もっとトータルのバランスを考えて練習をする方がいいんじゃないかという感じです。実際問題、どれだけの指導者が技術的な細かいことを考え、それを習得させようとしているかは分かりません。10年以上も技術的なこと追い求めていますが、それでももっともっと奥が深くて自分の勉強不足を痛感します。逆に言うと「そんなに深く求めなくてもできる」所もあるんじゃないかと。指導者として知っておかなければいけない部分はあると思います。しかし、それをすべて選手に与えるのは無理。これは当然の話ですが。そうであれば「取捨選択」をして本当に必要なことをやっていくことの方が効果があるのではないかと思います。

「競技」をする。「人間的成長」を求める。これが今の時代、「並列に並ぶ」ものなのか?最初のスタートラインから「人として成長するために競技をする」という子がどれだけいるのか?多分皆無だと思います。やっていくうちに力がついてきてそれに合わせて「人格形成」ができる。このタイミングで我々が何か方向性を示すことが実は重要なのではないかと感じています。競技力さえあればどのような態度でも構わないというのは大きな問題ですが・・・。

色々と考えてトレーニング形式も変えることにしました。シャフト補強を増やすことに。これがどう意味があるのか。これまでは40mのシャフト補強を行っていたのですが、シャフトの重さを重くして25m、軽くして移動距離を確保しながら30m。2セットやります。これは負荷的にはかなり高い。更には各自の開始と終了を「時間」で管理することに。同じ負荷をかけています。楽をしようと思えばいくらでもできる。練習負荷をコントロールするために「時間測定」を行い、自分自身でその負荷を把握する。「早く終わらせる」ことが目的ではなく、自分自身でやっていることの認識をすることが狙いです。

こうやってあれこれと工夫をしていくことができれば何かしら変わってくると思っています。世の中には「100%正しい」というものは数学の公式くらいでしょうか。それ以外のことは「なんとなく」でやり切れる。「不易」なものも多く存在しますが、実はそうではない部分も多い。最近はそう感じています。それがどのような形で現れて来るかは分かりません。いつの日にか形となればよいなと思っています。

また書きます。多分・・・。
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変わるとは

2014-11-26 | 陸上競技
過去と比較する。成功体験を重視し続ける。この部分は誰にでもあります。同じ仕事をしているとどうしてもこの部分から抜け切れない。「経験」は宝です。しかし、一方でその「経験」に頼りすぎてそこから抜け出せなくなるという恐ろしさもある。これは実体験をしてみないと分からないと思っています。今の仕事では対象は毎年変わってくる。それでもやるべきことは何も変わらない。学生時代に「不易」と「流行」というものが教育現場にはあると習いました。「不易」とはどの時代でも変わらないモノ、「流行」とはその時代時代で必要とされるモノ。何が正しくて何が間違っているのかはだれが判断するのでしょうか。分かりません。

少なからなず私にも成功体験といものがあります。これをやったら上手くいったということが。しかし、100人いれば100人感覚が異なる。受容する範囲も異なる。ここがどれだけ自分の中で処理できるかだと思っています。自分の性格的に「一生懸命にやる」という感覚が強くあります。誰かから求められるのではなく自然とそのような感覚になっていました。これは「自分自身が強くなりたい」という気持ちが強かったからだと思っています。実際に高校時代、大学時代は周りの人とのギャップに苦しんでいることがありました。「なんでもっと一生懸命やらないんだろう」と・・・。

いつも師匠から言われるのは「現役で一生懸命やっていた選手は指導者として上手くいかないことが多い」ということ。自分の感覚で指導する選手に関わるからだと思います。自分がやってきたこと、感じてきたことと同じ部分を指導する選手に求める。でも結局はその感覚は分かち合えないからもどかしくて上手くいかない。深く考えないタイプの人であれば「自分の指導に従っている」という感覚でできるのかもしれませんが、私のようなタイプでは「本当にこのままでいいのか」と考えすぎてしまう。これがマイナスになるという感じがあるのです。自分でもわかっているのですが・・・。

そう感じ始めて前に進めなくなりました。「教育」と「競技」の狭間の中で自分がどのように立ち振る舞えばいいのか。非常に難しい部分です。そんな時にあれこれ話をする機会がありました。また、親しい人から「この記事読んでみて」とメールをもらいました。その内容を少し紹介しておきます。

なわとび1本で何でもできるのだ

http://shoichikasuo.hatenablog.com/entry/2014/11/22/121010

以下、そのblogの文章を引用させていただきます。

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あるところに逆上がりの出来ない女の子が居ました。

授業で必死に練習しましたが、残念ながらできるようにはなりませんでした。落ち込む女の子を見た担任の先生は「放課後、一緒に練習しよう」と声をかけます。それからの放課後、先生とのマンツーマン練習が始まりました。

練習は毎日の放課後、担任の先生とマンツーマン。女の子は真面目に練習をして、先生も頑張ってアドバイスを掛けます。そんな練習も数週間が経ったある日、ついにその時が来ました。

ついに彼女は逆上がりを成功させました。初めての成功に女の子は大喜びです。先生も我が事のように一緒に喜びます。

次の瞬間、女の子は喜びながらこうつぶやきました。

「もうこれで、逆上がりの練習しなくて良いんだね!!」

これは大学時代に教授から聞いた実話です。
この話はスポーツを初め、運動指導に携わる人全てに大きな疑問を投げかけていきます。スポーツを教えるとは何か、子どもが本当に求めているものは何なのかを改めて考えたいと思います。

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実際にこのようなことはあると思います。本人はそれほど求めていないのにこちらが一方的に与えてしまい本人の意思とは別の方法に向かう。これが本当にいいことなのか。誰も正解は分かりません。実際に子供と逆上がりの練習をしていても本人が「飽きているな」と感じることはありました。それでもこちらとしては「できたほうが良いよね」と思い込んでいる。別に本人がそこまで求めていないかもしれないという感覚をこちらが理解できていない。よくよく考えてみると「教えることの押し売り」となっている。

「部活動」は自主的な活動である。同じ方向性を向いた者が集まって活動する場所である。それは当然という感覚でいました。しかし、その度合いが大きく異なるということはある。実際にやっているうちに「すごく強くなりたい」と思えるようになれば本人にとっては変化です。しかし、そこまでしなくてもいいやと思う子も数多くいるのではないか。中学段階で「競技をやろう」と決めたとしてもその想いにやはり差はある。それを受け入れることができないから私自身見えない葛藤があるのだと思います。

年を重ねていくほどになんだか無駄に考えるようになっているのかもしれません。必要な考え方と無駄な考え方。ここを自分の中で変えていかないといけないんだと思います。若干吹っ切れた気がします。選手に変わることを求めるだけでなく、私自身がもっと変わっていかなければいけないのだと感じています。過去と比べてあーだこーだ言っていたらきっと前には進めません。

うちの部は本当に0からスタートしました。県総体に出場する選手が一人もいないところからスタート。それがいつの間にかそれなり評価されるチームとなっていった。自慢しているように聞こえるかもしれませんが、私がいたからこそそれなりのレベルまで来たのだと思います。たまたまうちの学校に赴任したから、注目を集める学校になった。運も大きく影響していると思います。たまたまそういう選手が来てくれるようになったからそこまで到達したのです。あの頃の「純粋に競技と向き合う」という気持ちがいつの間にか「全国で」という気持ちにすり替わっていて気がつけばもっと上を目指すという感じになっていた。

普通の選手が集まっているのです。そこで全国優勝はなかなかできません。それなら今の競技力を大きく越えていくだけで選手にとっては大きな成長なのではないかと思います。いつも間にか理想が大きくなってきていて現状に満足しなくなっているのかもしれません。止まりたくはありません。それでも身の丈にあったことをやっていかなければいけません。何となく自分の中で答えが見えてきたのかなと感じています。

なんとなくですが。原点に戻る。これが変わることと真反対にあると感じていてそれができませんでした。戻ることも実は変化なのです。多分。そう思って進んでいきたいと思います。それしか今の私にできることはないだろうなと。

面白くない内容を書き続けていて申し訳ありません。多分、もう少しで壁を越えられそうです。


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現状を打破する

2014-11-25 | 陸上競技
暗い内容が続いています。どうなんでしょうね。こういう「マイナス」の部分は公にしない方がきっといいんだと思います。様々な人に悪影響を及ぼす危険性があるのは重々承知の上です。真面目に物事を考えすぎてしまうというのもあるので・・・。ここに書くことで何かが変わるのか?多分変わらないと思います。それは私自身分かっています。それでも変えていくためには何かをしなければいけないのです。blogを書くことの意味。世の中では多くの人がblogを書いています。そこに意味があるかは分かりません。私自身のblogの意味も分かりません。ここに書くと多くの人に「大丈夫か」と言われます。なんとなく大丈夫ではありません。多方面に心配をかけるのであれば自分の中だけで処理しないといけないと思います。

今の自分自身の心情を打破する方法。良くわかりません。「プチ鬱」状態だと認識しています。周りと同調しながらも何かをやらなければいけない。自分の中であれこれ考えて少しずつ何かを変えていかなければいけない。それができるかどうか。先日、お祝いの会がありその場で多くの人から色々な話を聞きました。これが自分自身を変えるきっかけになるのかもしれません。「真面目過ぎる」と言われる部分もありました。気分的に余裕がないことが結局はこのような気分になる原因なのかなと。

親しい知人がFacebookでメッセージをくれました。ある記事の内容を送ってきてくれました。何をするべきか?自分の中で「正しい」と思っていたフィルターを外していく必要があると感じました。現状を打破するのに「少し」何をするだけではきっとダメ。何も変えられないと思います。これまでの価値観や物の見方をしっかりと考え直す必要があります。

実際、この三連休、部活動は休みにしました。多分、今の仕事に就いて部活の指導を始めてから初めてのことだと思います。これまでは勉強会をしたりして「強制的に勉強」をさせる環境を作っていました。しかし、それは誰のためにもならないのではないか?自己満足でしかない。進学校ではテスト期間中に部活はやりません。やっているのかもしれませんが休日にみんなで集まって練習をしたり勉強会をしたりというのはしていないと思います。これまでは「やらせないとけない」という思い込みがありました。が、本当にそうなのでしょうか?

「自分のためにやる」という感覚を私自身が奪っていたのかもしれません。進学校の選手は「自分の進路のために勉強をする」という感覚が強い。練習をするのも基本的には「自分自身のため」でしかない。誰かに言われたからやるのではなく、「自分がやりたいからやる」のです。ここを私が勉強会を設定することで実は奪っているのかもしれないと考えました。正しいかどうかは分かりません。必要があれば勉強を教えることはしようと思いますが、「自分でやる」という感覚を持たせたいと思います。

これにより勉強時間が確保できないという者がいるとする。家で勉強するのは集中できなくて他のことに気が散ってしまう。自分のために自分で努力するという感覚を育てるためにはもっともっと工夫が必要だと感じました。気が付いたのは私が一生懸命になっても結局は意味がないということ。やるのは高校生であり、こちらが何を考えていても本人たちが「絶対にやってやる」と思わない限りは何の進展もないのです。こういう姿勢が身に付いて来ればきっと練習自体も物事に対する考え方自体も大きく変わるのだと思います。

何が正しいの変わりません。これでは上手くいかないかもしれない。それでも模索していきたい。そう感じています。現状を打破する。これは自分自身の中で本当に大きなことです。それができるでしょうか。
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ペルソナ

2014-11-24 | 陸上競技
多くの方々にご心配をおかけしています。申し訳ありません。何だか自分でも上手く表現できない感情の中で生活をしています。

地道に積み上げてきたものが一気に崩れさる感覚があってそれを自分の中でどうやって処理したら良いのか見つけられない。年齢的なものなのか、時期的なものなのか。昨年はエネルギーが尽きるという感覚があってなんとかそれを打ち破るための努力をしてきました。無理矢理自分を突き動かしてきたのかもしれません。

いつも「kaneko」として生きておかなければいけない。この感覚がわかってくれる人は少ないと思います。学生時代、教育心理学で「ペルソナ」について学んだ時自分の中で「あーこういうことか」と感じたことがあります。ペルソナとは「仮面」のこと。人は「ペルソナ」を付けることで対外的に適応することができるという感じのものです。私は学生時代一応キャプテンをしていました。その時、私個人の感情と違うことでも「キャプテンとしてのkaneko」でないといけないという部分がありました。弱い部分を表に出せない。後輩の前では常に「kaneko」でなければいけない。周りから期待される「kaneko」であり続けるためにはその役割を演じ続けるという部分が強くありました。いつも「kaneko」でいなければいけないから気を抜くところがない。辛いことがあっても苦しいことがあってもそれを覆い隠しておく。

気が付いたらそれが当たり前になっていてそういう部分をいつも求められる。どんな時も「kaneko」としての役割を求められる。周りからはいつも元気で情熱的で、他人のために一生懸命になっているのが私らしいと思われる。確かにそういう部分が私の中にあるのは間違いないと思います。演じている部分だけではなく素の部分で誰かのために生きていたいという感覚があります。

しかし、気がつくと自分の感情を全て押し殺している。時には全てを投げ出してしまいたくなることがあってもそれは出さない。そういう部分が実は大きなストレスとなり自分の中に蓄積していく。自分にストイックになる事を自分自身で求めてしまう。そして更にストレスが溜まる。その繰り返しをずっとしている気がする。

ここ最近本当に色々とありました。自分の中でストレスがオーバーフローしてしまう感覚。それでも「kaneko」としてあり続けなければいけない。ちょっと疲れてしまいました。この一年間ずっと走り続けてきました。

「疲れて歩けないんなら 立ち止まってしがみついていれば
地球は回っていって きっといい方向へ 僕らを運んでくれる

どんな人にだって心折れそうな日はある
「もうだめだ」って思えてきても大丈夫
もっと強くなっていける」

本当は自分で思い込んでいるだけで、実は積み上げてきたものなんて最初から存在していないのかもしれない。崩れさるというのは感覚的なものであって本当は何も変わっていない。分かりません。幸せの青い鳥のようにどこかにあると幻想を追い続けていて、気がつけば目の前にあったりするのかもしれない。自分自身が何を目指し、何を求め、何をしたいのか。

背負った荷物を降ろす。それができるかどうかだと思っています。
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足音・・・

2014-11-23 | 陸上競技
先日発売されたMr.ChildrenのNew Singleのタイトルが「足音」というものでした。なかなかわかってもらえないと思いますが自分自身の心情と重なる部分があります。

人は様々なものを自分に都合の良いフィルターを通してみることがあります。一度そのフィルターを通じて物事を見るとそれ以外には見えない。「だまし絵」というものがありますがこれは典型的な例だと思っています。見たことがあると思いますが「若い女性」に見えたり「老婆」に見えるやつですね。これも見る人によってどちらにも見える。どちらが正解でどちらが間違いということはありません。人は自分のフィルターを通じて物事を断片的にとらえるのです。

前の記事に記載した「足音」の歌詞、どうとらえることができるでしょうか。これも人それぞれ。

ここ2週間、私自身食欲もなくほとんど眠れない日々が続いています。自分自身でこれはまずいなと感じている。「鬱」とは言いません。認めたくないだけかもしれませんが。気分的に全くという日々が続いています。誰かに相談するとかではなく自分自身で乗り越えないといけないと考えてやってきました。現時点でもほとんど自分の中で解決しようとしてます。これがいいことなのか悪いことなのか分かりません。

こう見えても性格的に真面目なほうなのでいろいろと考えます。最終的な解決方法はないと思っています。自己解決することもできない。糸がぷっつりと切れてしまう感覚があります。それを自分の中でどうやって対応していくか。

「新しい靴を履いた日は それだけで世界が違って見えた」

本質的には何も変わっていなくても「きっかけ」で全てが違って見える。今まで自分がつけていたフィルターを外してみるだけで様々なものがまったく別に思える。同じことを繰り返している中で「靴」が変わるだけでその足音も違って聞こえる。そんなものなのかなと。これには正解はない。長い人生の中で自分の中で「答え」を見つけていかなければいけない。

「もう怖がんないで 怯まないで 失敗なんかしたっていい
 拒まないで 歪めないで 巻き起こってる
 すべてのことを真っ直ぐに受け止めたい」

どこに進むのか。これは自分自身の中で一生考えていかなければいけないこと。今は自分の中に「答え」が見つからないかもしれない。でもある程度の「決断」と「覚悟」を持たないといけない。それがなければ前には進めない。誰かにとって「正解」でも他の誰かにとっては「不正解」かもしれない。世の中のすべてのことは実はそんなもんだと思っています。

何が書きたいのかよくわからない文章になっていますね。申し訳ありません。

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現状

2014-11-22 | 陸上競技
完全に更新が滞っています。更新するほどの元気もモチベーションもなく。

色々と考えることがあります。考える中で決断をすることがありました。これは自分の中での決断。これはまたいつの日にか書くもしれませんし書かないかもしれません。ここ数日は食欲もなく1日1食、さらにはなかなか寝れません。それでもやるべき事はあるので。

自分自身の中であれこれ葛藤があってそれがきちんと消化できないまま日々を過ごしています。思い起こすと昨年も「ギャップ」を感じながら生活をしていた気がします。考えていることを全てこういう場面に書くことはありません。今回はどんな事があっても自分で考え、最善だと思う行動を心がけています。その行動が誰かにプラスになっているのかは分かりません。それでも自分の関わる人が少しでも良い方向に進めば良いなとは思っています。

上手く書けません。そして今自分の内面をさらけ出すほど余裕はありません。時間をかけて少しずつ前に進みたい、進んで欲しいと思います。
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雑記

2014-11-18 | 陸上競技
物事に対して「一生懸命にやる」というのは大切だと思っています。私は極力「頑張る」という言葉を使わないようにしています。「勉強を頑張ります」「部活を頑張ります」と言葉にするのは簡単です。しかし、「頑張る」という言葉は抽象的すぎます。100のうち1やっても「頑張る」ことになるし、98やっても「頑張る」ことになる。数値目標が立てにくい部分ではあると思います。だから「自分は中学校の時よりも頑張っている」という感じで満足しています。8年くらい前には生徒の前で「嫌いな言葉は頑張る」ということを言った気がします。「頑張る」のではなく、自分ができることを精一杯やるということが大事だと話したと思います。

誰かに半強制的にやらされることははっきりいって面白くありません。勉強も同じ。自分が自分で必要と思えば勝手にやり始めます。しかし、毎日のように保護者から「勉強しなさい」と言われても本人のその気がなければ全く効果はありません。目の前にすごく美味しい料理があっても本人が「お腹いっぱい」だと思っていたらそれは「美味しそう」とは思えない。喉が渇いている人に前に水道水があったら「最高においしい」と思って飲むでしょうが、のどが渇いていない人の前に「1本1万円」の高級ミネラルウォーターが置いてあっても「飲みたい」とは思わないでしょう。結局、「本人次第」という部分が多分にありあす。

昨日久々に読んだ本の中に「努力すること」が書いてありました。努力をするのであれば本当に必要な努力をするというような内容です。進むべき方向は前なのに後ろ向きに向かって最大限の努力をしても「疲労感」が残るだけで何も残らない。大多数の人はその「疲労感」に満足してしまう。「自分はこんなに頑張っているんだ」という感覚に酔いしれる。そのことが何を生み出すのか。自己満足でしかないのです。私が耶照っていることも大きな目で見ると「自己満足」なのだと思います。誰かに何かを残したい、きちんとした指導をしていきたい、少しでもいい方向に導きたい(偉そうですね)という感覚があるからこそ大きなエネルギーを使ってやっています。

実際問題、放置していたら遠回りすることが多い。これを「無駄」と感じるか「必要悪」と感じるかでしょう。私は競技の面ではかなり遠回りをしたと思っています。指導を受ける経験がほとんどなく、試行錯誤の中でやってきました。最終的に運よく日本インカレ&日本選手権に出場することができましたが、これは本当に「偶然」というか「タイミング」だと思っています。通常私くらいの競技レベルではそこまで到達するのは不可能。競技力があったというよりは「たまたま」だったと思います。自分が遠回りしてきた分、他の人にはもっとスムーズに進む方法を知ってもらいたいと思っていました。

しかし、ある時先輩と話していて「その遠回りがあったから今がある」という話になりました。その先輩も特定の指導者がいたわけではありませんが、自分で考えながら感覚を磨いていきかなりのレベルまで到達しました。その時の経験が今の指導に生きている。そんな話でした。確かに指導者の指導に従って何も考えずに競技に取り組んでいたら楽だと思います。言われている通りにやれば自然と力が付く。しかし、自分で試行錯誤しながらやる経験がないので大きな壁にぶつかった時にその壁を乗り越えられないのではないか。ここ最近はそう感じることが増えてきました。「与えられるのが当然」という感覚になってしまうのではないか。だから相手の都合も考えず「自分が」という話になる。こういう部分が本当は大切なのに表面的に何かできればそれでよいという感覚を持つ。本当の意味での教育活動とは違うのかもしれないと感じています。

「過保護」というと言い過ぎかもしれません。そういうこともあるので総合実践の授業では「自分たちの力で乗り越える」という授業展開にしています。そう考えると私のやっていることも大きな矛盾を抱えながらの行動なのかもしれません。一方では「自分たちの力で」と言いながらもう一方では手厚く扱う。この自己矛盾。良いことではない気もしています。

自分自身の時間、自分自身の価値観、自分自身の生き方。この部分を考える。あと数年で40歳になります。人生の半分は終わってしまう。その時に自分自身の中に何かが残っているのか。本当は空っぽなのではないか。見栄を張って「自分はこんなに考えていますよ」「こんなにできるんですよ」という虚勢を張っているだけではないのか。こう考えると「自分自身の時間」という部分の使い方をもっと考えないといけない気がしています。
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